16年間、緊急医療の看護師として医療業界を走り続け、病院のお局様であった私は35歳にて人生最大の宝物(息子)を授かる事ができました。しかし、私の結婚生活は1年も続かず破局。私達親子の人生の再起として、8年前の2011年3月、私と3歳の息子リオはフィリピンのセブ島に渡りました。
フィリピン移住への第一歩:語学留学
2010年夏42日間のセブ島語学留学を終え日本に帰国後、私はパートタイムで町の一般病院で勤務しながらフィリピン移住の準備を進めました。
その間に離婚も成立しました。
移住先フィリピンの生活準備は、2010年の留学中に友人となった、ブラックアメリカン講師ドミニク家族に依頼しました。私達親子の移住先はフィリピン南部のネグロス島ドマゲッティです。移住前の3ヶ月、英語環境に慣れるために、フィリピンセブ島の語学学校に滞在する事に決めました。
ほとんどのフィリピン語学学校では、英語学習のみならず敷地内に学生寮が整備され、食事、掃除、洗濯が提供されるのです。また、安全も確保されているのです。
突然何も知らない海外に飛び立つのは危険が多すぎます。
安全と最低限度の生活が守られたフィリピン語学学校は、ゆっくり海外移住の環境を整える準備にふさわしい環境であるのです。
フィリピンへの移住の前日 同僚たちが送別会を開いてくれました。これが、私の最後の日本社会であります。
そして、2011年3月、東北地方太平洋沖地震から約1週間後にフィリピンセブのマクタン島に位置する韓国資本の語学学校Regent Pacific College(現在のBAYSIDE ENGLISH CEBU RPC CAMPUS) に到着しました。
当時、春の大学生バケーションシーズンということもあり韓国人大学生たちで学校は賑わっていました。
3ヶ月間のRegent Pacific College での学生生活、とにかく人との出会いを楽しみました。4才の息子リオの英話は、初めの2−3か月はインプットの時期でした。2−3か月後に突然アウトプットに変わる時期があるのです。
ちょうど、その時期にドマゲッティに移りブラックアメリカン家族と生活をともにしたこともあり、当時5歳のリオの英語は完全にブラックアメリカンイントネーションとなっていきました。
Regen Pacific Collage (RPC) での3ヶ月
授業がどうだったか勉強は?ということはあまりよく覚えていませんが、とにかく楽しみました。
そして、2011年6月初めフィリピンセブより飛行機で25分。バスと船で5時間南下した私たち親子の移住先であるネグロス島ドマゲッティに移ったのです。