フィリピンドマゲッティ新天地に向けて
フィリピンネグロス島ドマゲッティへの親子移住より2ヶ月後、息子リオは、虫に刺された足を、不潔な手で掻き毟ったため蜂窩織炎となり、高熱を出して入院しました。リオの症状も3日で回復しましたが、ホテルのように居心地の良いシリマン大学病院の特別室で2週間以上も滞在したのです。
私たちと共に生活するブラックアメリカン講師ドミニクは病院が居心地いいとは、何て不健康な、子供は外でドロドロになって外で遊ぶものだと言いました。本当にその通りです。
ただ、リオの衛星管理を怠ったため蜂窩織炎となってしまったのです。それは、私の責任であります。私のコンビニ食材での料理も限界がありました。
リオの栄養管理も考えると、ドミニク家族との生活には無理がありました。私はドミニク家を出ることをリオの入院中に決めました。
そんな時に、リオの主治医が彼の家族が経営するドマゲッティのホテル、マリアルイサのパーティに招待してくれました。誰の主催で何の目的のパーティかは覚えていませんが、上流階級のフィリピン人達のパーティであったことは間違いありません。
そんなパーティに日本人親子が出席していることが珍しいのか多くの人に声をかけてもらいました。その中で私たちが住むドマゲッティの隣町セブラン市の市長トニーと知り合ったのです。
そして、私は家探しの相談をしました。セブラン市長トニーより、私たちがよく遊びに行くセブランのビーチ前の家を紹介してもらいました。
リオの退院後、私たちはそのビーチ前の家を訪れました。
家は5LDK、裏には大きな庭がありました。ガレージには車が2台止まっていました。オーナーの女性が家の前で待っていてくれていました。
家具付きで2万ペソ(約4万円)で賃貸したいとのことでした。
海の目の前で庭付き5LDKの家が4万円、日本人金銭感覚で考えると激安であります。しかし、都会から離れた港町の当時の物価では相当額であります。ちなみに当時私たちが住んでいた2LDK小さな庭とガレージ付の家の家賃は三千五百ペソ日本円で7千円でした。
オーナーの女性の名前はジンジン。年齢が私と同じということもあってか話が盛り上がりました。
彼女は、私達に料理とビールまで出してくれました。彼女は4人の子供達と、3、4人のヘルパーさん達と暮していました。
一番年上の長女は、日本人もしくは中国人系の顔をした美人です。当時19歳でシリマン大学で勉強していました。
2番目の次女は白人系の美人です。当時11歳。
下の二人の子供はまだオムツをした双子のフィリピン人顔の男の子達です。
ジンジンによると、長女の父親は中国人。次女の父親はスイス人。そして、双子の男の子達はセブラン市長トニーとの間の子供たちだというのです。
ジンジンは、セブラン市長の愛人だったのです。
この奇妙な家族形態に私は興味津々でした。昼間から夕方近くまでビールを飲みながら、ジンジンと彼女の長女ジョワニーと話が盛り上りました。
彼女達はヘルパーさんも含め女性ばかりと双子の男の子で生活していました。市長トニー以外の男性を家に入れることはトニーに禁止されているとのことでした。
女性だけの館。まるで大奥のような家です。
彼女達の生計はそれぞれの子供達の父親からの養育費の仕送りで成り立っています。
しかし、次女の父親スイス人からの仕送りが滞り、市長トニーの正妻からの嫌がらせでトニーからの仕送りも減ってきたとのことで生活が苦しくなり、家を賃貸に出して実家に引っ越さないと生計が厳しくなってきたというのです。
家の中も見せてもらいまいた。すべての部屋にエアコンが設置されています。大きな冷蔵庫が2台もありました。温水シャワーもあります。バスタブまでもあります。車も2台、バイクもあるのです。ヘルパーさんの作る料理も美味しいのです。
私はヒラメキました。
ダメもとで、提案してみました。
私とリオに一部屋だけ貸して欲しい。そして、ヘルパーさんもみんなまとめて一緒に住まないかと。
家賃は倍の月4万ペソ(8万円)を支払う。その代わりに、食事、掃除、洗濯をして欲しい。そして、車とバイクを使わせてほしいと…
彼女達は私の提案に驚いた様子でした。しかし、私とリオの親子を受け入れるだけで家を出なくてもいいのです。そして彼女たちの生活も変わらないのです。その上に4万ペソの収入が入るのです。彼女達にとっても私にとっても一石二鳥だったのです。
その場で商談は成立しました。
ドミニクもドマゲッティでの生活に経済的に限界を感じていました。経験豊かなネイティブ講師であればセブであれば十分働き口があります。家族を養うこともできます。また、韓国人から一緒に仕事しないかと誘われているとのこともあり、ドミニク家族はセブに帰ることとなりました。
女の館での生活
そして、女性だけの城、大奥でリオと私の新しい生活が始まりました。
車があるだけで同じ町でも世界が変わります。
リオはそのまま、ドミニク家族と私達の住んでいた住宅地の小学校に通いました。
朝起きると、ヘルパーさん達によって、すでに美味しい朝食ができているのです。
毎日、朝食後に車でリオを学校まで送り、私は一人でドマゲッティの街まで車を走らせました。ボリバーでゆっくり本を読み、ショッピングモールで買い物を楽しみました。夕方にはリオを車で学校まで迎えに行き、リオの学校より少し車を走らせると、海辺のレストランがあります。毎日そこでマンゴジュースを飲んで帰るのが日課となっていました。