24. 劣等感の塊だった私

劣等生

私は、幼い頃から劣等生でした。

 

私は4人兄弟の長女です。私の幼少期から高校生までの学生時代には、ほとんどと言っていいほど女の子の友達はいませんでした。

男の子の友達とばかりと遊んでいました。女の子達はおママごとやお人形で遊日ます。私は男の子達と外で泥々に遊んでいたのです。

 

幼児期の私の宝物は仮面ライダーのベルトと変身セットでした。小学校高学年になると女の子は家庭科の授業、男の子は技術の授業に分かれます。私は、どうしても男友達と大工作業がしたく、先生に頼み技術の授業に入れてもらいました。

母は、教育熱心でした。母曰く、母は幼い頃から美人で優等生でした。そして、エリートの父と結婚したことが母にとって誇りだったのです。

母は、子供たちにピアノに算数教室、そろばん、公文、家庭教師、スイミング…英語以外のあらゆる習い事をさせました。なぜ英語以外かというと母は英語ができなかったからだでしょう。

スイミング以外は、すべて私は落ちぶれていました。

そして、30年前、40年前の小学校、中学校では学校の成績順位は公表されていました。私の成績順位は後ろから数えたほうが断然早かったのです

小学校時代、4人の子供を持つ母親は、授業参観日になると子供達のクラスをハシゴして回らなくてはいけません。

私より2歳下の妹の教室では、母はいつも誇らしかったのです。妹は授業中にはピンっとまっすぐ伸ばした手を挙げ、先生に当てられるとはっきり大きな声で答えるのです。

私にとって、授業参観で母が教室の後ろに立つことが恐怖でした。手を挙げなくては母に叱られる。手を挙げて万が一にも先生に当てられたら答えられない。すると母にもっと恥をかかせることになる。先生に見つからないように工夫しながら小さくそっと手を挙げなければいけません。

そして、ピアノのレッスンほど私にとって苦痛なものはなかったのです。

自宅には大きなグランドピアノがありました。ピアノ教室はピアノの先生を私たちの自宅に招き、そこにレッスンを受けるために子供たちが集まりました。母親たちがお茶や会話を楽しんでいる間にピアノのレッスンが開かれるのです。

私は、ピアノの椅子に座ると回転性のめまいがしました。ピアノの椅子に座ると、ピアノを中心に天井から壁から全てがゆっくり回転するのです。母親がピアノの椅子の横に立とうものなら、回転速度は急速に早くなり目が回るのです。

クラシックピアノは、最初に幼児ピアノから、次にバイエルンというレッスンテキスト、次にソナタかソプラノというテキストに進んでいきます。

ソナタが先だったのか、ソプラノが先だったのか忘れました。そこまで、進んでいないから覚えていないのです。

半年に1回、ピアノの発表会がありました。母親は私と妹をドレスアップさせ発表会に臨むのです。私は、小学校4年生から6年生まで3年間も発表会で同じ曲を弾きました。

作曲者は忘れましたが「アラベスク」という曲、もしくはベートーベン「のエリーゼのために」どちらかです。2曲とも初級であるバイエルンのテキスト曲であります。それも音を外しまくりながら弾くのです。妹は小学校3年生の時には、モーツァルトの「トルコ行進曲」を一つも音を外さず弾くのです。

妹の演奏の後は拍手喝采となります。母親の誇らしい顔で妹を見つめ、そして私を睨むのです。

参観日やピアノの発表会の後には、妹がどのくらい誇らしかったのか父に自慢げに話し、そして私の授業参観やピアノの発表会でどれほど恥ずかしい思いをしたのかも父に話すのです。

ただ、スイミングだけは違いました。週に1回のスイミングスクールと、夏休みの間には、私たちの住む大阪堺にある浜寺水連学校学校という軍隊のような水泳学校に毎日通っていました。

当時、浜寺水連学校は、オリンピックに出るくらいシンクロナイトスイミングが有名でした。私は小学校六年生でスイミングインストラクターの資格習得まで進み、シンクロナイトスイミングのメンバーに選ばれたのです。

妹は幼稚園から小学校を卒業するまで、私と一緒にスイミングスクールも浜寺水連学校にも通っていましたが未だにカナヅチであります。

中学校に入って、部活は水泳部に入りました。中学一年の夏の大会では、私達の住む町の大会ではブレスト競技(平泳ぎ)で私は2位となり表彰台に立ちました。そして、堺の大会では、表彰台には立てなかったが高タイムで予選通過し大阪大会に進んだのです。あいにく大阪大会では予選落ちし全国大会には進むことはできませんでした。

水泳だけが唯一私の誇れるものでありました。

しかし、夏の大会の私の成果に母親は、勉強もできないくせに泳ぎだけできてどうするのと嘆いたのです。

そして、夏の水泳大会が終わった後、私は両親に「私はあなた達の飼い犬ではない」とメモを残して家出をしたのです。

 

ガキ大将

私は、近所のマーケットに、いつもたむろしていた世の中では不良と呼ばれる同級生達とマーケットの駐車場で過ごしました。

その間に、髪の毛にはオキシドールという消毒薬をつけました。オキシドールは髪の毛の色を抜いて茶色にするためです。ところが、オキシドールをつけすぎたのか、私の髪の色は茶色を通り越し金髪になってしまったのです。

また、安全ピンをライターで熱し熱消毒した後、安全ピンで両方の耳に3箇所ずつピアスを開けました。煙草も吸ってみました。

私の家出は、一日中、私を探し回った両親により深夜に連れ戻されました。

私の突然の変化に両親は動揺したのです。

そして、中学校三年生になる年の4月、私たちは大阪和泉市の田舎に引っ越しました。理由は、弟の小児喘息が悪化したため、空気の良い環境に引っ越すということでした。

隣には祖母の家も建て祖母も一緒に引越しをしました。

私にとって祖母が一緒だということが唯一の幸せでした。私が劣等生でも、髪の毛が金髪でも、祖母の私に対する態度は変わらないからです。

いつでもどんな時でも私を大切にしてくれました。

また、体が小さく、玉ねぎのように髪の毛を頭のてっぺんにまとめた祖母は私にとって可愛いい存在でもあったのです。

私は家族の住む隣の家、祖母の家に住みました。

新しい学校に転校するにあたり、父親により私の髪は黒く染められ耳のピアスは外されました。

転校先の和泉市の田舎の学校は、規則として男の子は全員坊主頭、女の子はオカッパでした。

ダサすぎる。

堺の学校では、男の子たちは当時はやりのチェッカーズの藤井フミヤや直之の髪型を真似ていました。女の子たちは、松田聖子や中森明菜の髪型を真似ていまいた。私は当時、不良の間で流行りだったサーファーカットをしていました。

堺の中学校はお弁当でしたが、和泉市は給食でした。

当時、私は牛乳が大嫌いでした。牛乳のせいで給食を食べるのが遅かったのです。

給食の時間の後は掃除時間となります。掃除時間には机を移動させるなければいけません。しかし、私が給食を食べるのが遅いため、掃除時間の開始が遅くなるのです。給食を食べるのが遅いのは、いつも私と背の低いケンでした。

田舎の学校の番長的存在であった酒屋のきよしくんが、「アホとチビは給食を食べるのが遅いなー」と言ったのです。どう考えてもチビはケンです。ということは、アホは私です。

私は泣きながら、私より体の大きいきよしくんに殴りかかっていったのです。

きよしくんは、男の子です。女の子には手を出せません。防御していました。

そして、家に帰った私は、こんなダサい学校には二度と行かないと親に告げました。

ところが、その晩にきよし君は男友達を引き連れて私の家に謝りに来たのです。

それから、きよしくんと私は親友となりました。

そして、ケンは私の舎弟(子分)となったのです。

私か、きよしくんの号令で、田舎の同級生の男の子たちは、家を抜け出して夜中のお寺に集まったのです。

田舎の夜中の集会は堺の集会とは違いタバコを吸ったりはしません。

度胸試しをするのです。

近くに丘の斜面にお墓があります。夜中に、一人ずつ丘の一番てっぺんのお墓に石を置くのです。

また、暗い暗い山道を30分ほど歩くと阿弥陀寺というお化けが出てきそうな古いお寺があります。途中には、お墓もあるのです。夜中に阿弥陀寺まで一人ずつ歩く度胸試をするのです。

いつも、一番に行くのは、きよしくん、次に一人ではお墓にも、山を越えることもできない弱虫のケンを連れて私が行きます。そして、次から来る子たちを待つのです。時には先に到着した私ときよしくんで次から来る友達を脅かしては、驚いた顔を見て大笑いしました。

もう30年以上も前のことです。私は、堺の友達とは引っ越ししてから交流はありません。田舎の中学校の男友達とは、今でも年に一回のだんぢり祭りに集まります。

あれから、30年、みんな家庭を持ち、おじさんになっています。30年間、年に一度、同じ話題で盛り上がるのです。

話題は中学3年生の私達の夜中の度胸試しです。

高校は、名前が書ければ合格できると言われていた通称「バカ太高校」と呼ばれる公立高校に入学しました。

他の兄弟は皆、お嬢様、お坊ちゃん私立高校を卒業しました。公立高校に通ったのは私だけです。

私は高校に入っても勉強をしませんでした。

 

看護師への道

私が高校二年の時、祖母が病気で入退院を繰り返しました。

私は、学校帰りには毎日祖母の入院する病院に通いました。両親には私が優しいところがあると思われるのは癪にさわります。祖母には私が病院に来たことは内緒にしてねとお願いしました。

自宅では祖母は、赤ちゃんのようにハイハイをしてトイレに行くようになったのです。トイレの中には、壁の突起部分を支えに立ち上がろうした祖母の爪痕がたくさん残されました。祖母の、排泄の世話だけは家族にさせたくないという意地が見えたのです。

バカな不良娘の私は祖母を助けるために看護師になろうと決めました。

それから必死で勉強しました。

当時は、看護師には准看護師という看護師の下で働く看護師免許が存在していました。

そして、私は准看護師学校に入学しました。なぜならば、働きながら自分の力で学校に行けるからです。

両親に話せば両親は学費を出してくれたでしょう。しかし、両親が介入することで干渉されます。そして、両親に干渉されると私のやる気は一気に失せることは目に見えてました。だから、自分の働いたお金で自分の力で准看護師学校に行くと決めたのです。

准看護学校でも必死に勉強しました。

30年ほど前には常に成績順位は公表されていました。200人以上の学生の中で私の成績順位はいつも3番以内でした。

成績順位が発表されるたびにすごい!!と同級生たちにもてはやされました。

私の人生で初めての経験でした。

成績で褒められた私は調子に乗ってさらに勉強しました。

私は、准看護師の次の進路として、授業費用が私立看護学校の10分の1であった国立病院附属看護師学校を受験しました。学費を親に頼りたくなかったからです。国立の看護学校であれば、私の働いた蓄えで補うことができます。

その後に、小泉潤一郎総理大臣の民営化対策でほとんどの国立病院は大学病院や民間病院に買収され姿を消すことになります。

しかし、看護大学もほとんどなかった25年以上前の当時では、国立病院附属看護学校は看護師のエリートコースであっりました。受験倍率は6倍でした。

国立の看護学校の受験科目には英語の試験科目はありませんでした。もし、英語の試験科目があれば合格することはなかったでしょうが、おかげで国立病院附属看護学校に合格できました。

祖母は私が国立の看護学校に入学して1年目、91歳で亡くなりました。

祖母がいなくなった家に滞在する意味もなく、私は家を出て独立しました。

それでも、私は勉強を続けました。「歩く看護辞典」と同僚達に呼ばれさらに調子に乗っていきました。

仕事の休みを医療、看護に関連した勉強会やセミナーの日に調整しました。

20年、30年前には、救急救命士という独立した資格はなかった。看護師が認定試験で所得できる資格に位置付けられていました。私は、救急救命士も、医療に関してのあらゆる資格や認定証を取得していったのです。

 

そして、気がつけば34歳となってしまっていた。

 

私は、物心ついてから高校を卒業するまで劣等感の塊でしたた。そして、両親や兄弟たちとも距離を置いていました。

リオが生まれたことで、やっと両親とも兄弟とも笑って話せるようになったのです。やっと「家族はいいものだな」と思えるようになったのです。

リオが家族を一つにしてくれたのです。

そして、ピアノの椅子に座っても目眩を起こさなくなりました。

 

現在、私はフィリピンの田舎に隠れ住みながら、時折、母に電話しリオの状況を聞きます。

母は、リオはあんたと同じで勉強嫌いやけど、夏の水泳大会では背泳ぎで一番になったと報告してくれました。

私は、母に勉強しないことを指摘しないで水泳大会で一番になったことを褒めてあげてとお願いしました。

 

劣等感の再発

BAYSIDE ENGLISH CEBU が開校して半年くらい後に、同じセブ、マクタン島に日本人経営の語学学校が開校されました。そして、日本で学習塾チェーンを経営するその語学学校オーナー元田氏(仮名)より、キッチンマネージャーのキクちゃんと一緒に夕食に招待されました。

元田氏は色々な国でビジネスをするビジネス仲間の友人と一緒でした。

彼らはビジネスの勉強会で知り合った仲間らしくビジネストークに花を咲かせていました。

彼らは、先に開校していたBAYSIDE ENGLISH CEBUのビジネスに興味を持って私に色々な質問をしてきました。

綾子さんのビジネスビジョンを聞かせて欲しいとかです。

ビジネスビジョン??ビジョンの言葉の意味がわかりません。

「特にないです」と返答しました。

また、BAYSIDE ENGLISH CEBU設立の意図なども質問してくるのです。

「なりゆきです」と、会話は続かないのです。

もしも、その場で綾子さんの看護観や死生観について、今後の日本の医療の展望をどう考えるか等を質問されたなら、私は1時間でも5時間でも話し続けることができたでしょう。

私は、彼らの質問の意味もビジネス用語さえもわからなかったのです。

私の子供の頃からの劣等感が再発しました。

元田氏は、「綾子さんすごいですねーさすがですねー」と連発していました。

すごいわけがない。何がさすがだ。建前である本音は馬鹿にしているのです。

この状態では足を引っ張られると思いました。

実際には、元田氏は私に気をつかい、話を繋げるために「すごい。さすが」と連発してくれたのでしょう。しかし、私の心の奥底にある子供の頃の劣等感が私にそう思わせたのです。

私はセブで滞在する日本人、特に同業者と接することは極力避けるようになりました。

本音と建前をうまく使い分け饒舌に話すことができないからです。まそして、ビジネスに関する経験も知識も自信もないからです。

そして、何よりも私の頭の中が、過去の私のように劣等感でいっぱいになってしまうのが怖かったのです。

 

リオと歩いたBAYSIDE ENGLISH CEBU

そして、BAYSIDE ENGLISH CEBU は、韓国系の語学学校協会に加入しました。

理由は、一つに韓国人経営の語学学校は10年以上にわたる歴史があります。そこから学ぶことが多いのです。

もう一つに本音と建前を使い分けなくてもいいからです。同じ言語を使わない分恥をかいたとして気付かないのです。

また、わからないことはわからないと聞くことが容易かったのです。

間違ったことを言えば、あなたは間違っていると教えてくれるのです。

そして、日本人に比べ子供に寛容的でありました。

営業にリオを連れて行くことができる環境であったのです。韓国系の語学学校合同での海外営業には、必ずリオを連れて行きました。

 

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

 


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