17. フイリピン親子移住:女の館ガレージにアラビア人

退屈な女の館

2011年夏、私たちは親子はブラックアメリカン、ドミニク家族と別れ、女だけの館に引っ越しました。

そこで、豪華な暮らしをすることができたのです。

ただ、時間の経過と共に、ジンジン家族たちとの生活は、私もリオにとっても退屈なものになっていきました。

ジンジンの0歳児の双子の息子達はリオと同等に遊ぶには幼すぎたのです。

19歳の長女のジョアニーも11歳の次女のリサも当時6歳のリオと遊ぶにはお姉さんすぎたのです。

また、彼女達は海で遊ぶよりオシャレに興味を持っていました。日焼けの事をいつも気にしていました。

そして、彼女達の生活は、とにかく派手でパーティ好きであったのです。

ジンジンは、収入が入るたびに日中は自宅にマッサージやエステシャンを呼び、夜になるとパーティもしくは、夜のドマゲッティの街に繰り出していきました。

私もパーティにも、夜の街にも彼女達に誘われ1、2回参加しました。

パーティには、セブランやドマゲッティのフィリピン人富裕層達が集まります。

ジンジンは、とにかく富裕層達を私に紹介するのです。OOのスパーマーケットのオーナーであるとか、OO会社のオーナーであると紹介されるのですが、フィリピンの会社なんて知らない。そして、フィリピンでビジネスをするわけでもなく富裕層と繋がる意味もないのです。

それに大人のパーティにリオも興味がないのです。

夜も街もジンジンと彼女の富裕層の友人達と一度だけ参加しましたが、自宅に残しているリオのことが気になって楽しめないのです。また、酔えば彼女達は現地の言葉で話します。それは、私にとって意味もわからなく退屈な時間だったのです。

ドマゲッティの街はオシャレですが小さな街であります。1週間も滞在すれば、ほとんどを回ることができるのです。リオの学校の時間帯に毎日ドマゲッティに行くのも飽きてきたのです。

 

ガレージにアラビア人

そんな時に面白い出会いがありました。

アラビア人ヨセフです。

 

ブラックアメリカン講師ドミニク達とビーチに遊びに行った際に2歳の可愛い女の子を連れたアラビア人と若いフィリピン人のカップルに何度か出会いました。

彼らも毎日のように夕方になるとビーチに子供を連れて来ていたのです。

アラビア人は、リオや子供達に砂浜から、こぶし大くらいのカニを捕まえてくれました。リオも子供達は大はしゃぎで喜びました。そして、ビーチででアラビア人に会うたびにリオはカニを捕まえて欲しいとねだっていました。

私は、時々しかビーチに行きませんでした。リオは毎日のように自宅近くのビーチでアラビア人と遊んでもらっていたらしいです。

その後、リオが入院したこともあり名前も知らないアラビア人の事はすっかり忘れていました。

 

ある日、いつものようにリオを学校に迎えに行った際、リオの学校付近であのアラビア人が歩いていました。

リオが窓を開けて話しかけたのです。

彼は私とドミニクを探して2時間かけて、ドマゲッティのパブリックマーケット(公共マーケット)から歩いてやってきたと言います。お金も持っていない。3日間、何も食べていない。助けて欲しいと。

服はボロボロ、片足はパンパンに腫れ、傷がありました。とにかく、私は、住宅地の中にあるポンコポンコ呼ばれるフィリピンの庶民料理を食べさせ、家に連れて帰ってもいいかを確認するためにジンジンに電話をしました。

ジンジンは、ほっといたほうがいいが、綾子次第だと言うのです。

リオは、かわいそうだからの家に連れて帰ろうと言いました。

私は迷いましたが、家に連れて帰ることにしました。

 

家には、ジンジンのほか、セブラン市長トニーのボディガードも待機していたのです。

ボディガードの男性は筋肉質の肩にタツーが入って強面の顔をしていました。そして、アラビア人への事情聴取が始まりました。ジンジンもボディガードもアラビア人に対する口調は厳しかったのです。

アラビア人の名前はヨセフ、年は私とジンジンと同じ年でした。1年前に仕事でヨルダンからマニラにやって来たのです。

マニラに滞在中にドマゲッティに旅行したのです。その際にドマゲッティのKTB(クラブ)の20歳のフィリピン人女性ジョイに恋をしたのです。

そして、そのまま彼女ジョイの家に移り住んだのです。ジョイには、すでにフランス人との間に子供がいました。しかしフランス人はジョイが妊娠してすぐにフランスに帰国し、一人で子供を育てていました。

ヨセフは、ジョイと彼女の娘、そしてジョイの母親と暮らしていました。ヨセフの持参した資金はほとんどジョイの家族のために使ってしまったのです。

そして2週間前、置き手紙を残し突然家からジョイもジョイの娘も母親もいなくなったのです。

ジョイは、残り少ないヨセフの全財産もヨセフのパスポートまでも持って行ってしまいました。

ヨセフは、仕事を探すためにドマゲッティに移りました。

しかし、お金もパスポートもない。仕事は見つからない。ドマゲッティのマーケットで物乞いをしながら2週間過ごしたのです。

そして、アメリカ人のドミニクもしくは日本人の私に助けを求めるためにドマゲッティより2時間かけて私達が住んでいた隣町まで歩いてやってきたのです。

しかし、すでにドミニクはセブ島に移り住み、自宅はもぬけの殻であったのです。途方にくれてとぼとぼ歩いているところに、リオから声をかけられたということでありました。

足の傷はリオと同じように虫に噛まれたか小さな傷からばい菌が侵入し蜂窩織炎になったのでしょう。リオの蜂窩織炎より酷く悪化していました。

ジンジンと私はヒソヒソと相談しました。

私は傷が治るまでだけでも面倒を見てあげたいと訴えました。ジンジンは見知らぬアラビア人を家に入れたくないが、家賃を払っている私の意見は無視できないという感じでした。

ところが、アラビア人がイスラム教徒でなくカトリック教徒だということを知った時にジンジンの心が動いたのです。

セブラン市長トニーとも電話で相談し、家の中では住めないがガレージでなら住んでもいいということになったのです。

そして、ヨセフはセブラン市のプロジェクトである道路工事の仕事を市長トニーから与えられました。道路工事はジンジンの自宅横で行われていました。日給は百五十ペソ(三百円)お金が貯まった時点で出て行く約束をしたのです。

ヨセフがカレージに住むことに、リオは大喜びでした。

 

そして、女性と子供の家とガレージにアラビア人という奇妙な生活がスタートしたのです。

 

リオを連れてフィリピンに移り住むにあたり、日本から私はあらゆる薬を持参してきました。看護師であった私は薬を調達することは容易かったのです。もちろん抗生物質も軟膏も包帯もです。それをヨセフに投与し、ヨセフの傷はすぐに完治しました。

そして、ヨセフはセブラン市の道路工事現場で働きました。ヨセフは仕事が終わるとリオと一緒に釣りに行ったりカニを捕まえたりと遊んでくれました。

時間の合間には、車の修理や家の修理、とにかくよく働いたのです。女性だけの家に男性が一人いるだけで便利なのです。そして、彼の人柄も良かったのです。

ジンジンファミリーも町の人達もセブラン市長までもヨセフを認めるようになっていったのです。

市長トニーは、裏の方法でフィリピン人になれるようにしようと言ったくらいです。国籍までも変える裏の方法があるとは、さすがフィリピンです。

だが、ヨセフはフィリピン人になりたくなかったのです。ヨルダンに帰りたかったのです。

私はヨセフがヨルダンに帰ることができる方法を考えました。

ヨセフは、フェイスブックも持っていなかったのです。私のパソコンを使ってヨセフにフェイスブックを作成させ、そこからアラビア人の友人を探すことを勧めました。

ヨセフは毎晩、芋ずる式に友人検索をしていったのです。また、スカイプも作成しアラビア人の友人を検索して行ったのです。

 

リオは、学校から帰るとヨセフの道路工事現場に直行しました。カニ取り名人のヨセフの周りには多くの近所の子供達も集まりました。リオはヨセフを通じて多くの友達ができたのです。

道路工事は、セブラン市のプロジェクトということもあり工事現場のおじさんたちは町の人達です。リオにとっては、工事現場の人たちは友達だったのです。

道路から、ママ〜と大声で呼び声がしたことがあります。リオは工事現場で働くロードローラーカーの助手席から手を振っていたのです。

外でドロドロになって遊んだ後は、湯船にゆっくり浸かって、ヘルパーさん達の作った美味しい夕食をいただく衛生管理も健康管理も問題なく楽しみました。

ジンジン達が夜のドマゲッティの街にくりだすのを見計らっては、リオと私、ヘルパーさん達、市長トニーが私達の警備のために送ったボディガードまでもヨセフのガレージ前に集まり会話を楽しんだのです。

ジンジンの富裕層パーティよりずっとリオも私も楽しめました。

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ヨセフとリオ、近所の子供達で収穫されたカニは、ヘルパーさん達、市長トニーのボディーガードによって美味しく料理されました。

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

 

ヨセフが、ガレージに住んでから1ヶ月ほどが経った頃、フェイスブックを介してマニラに住むアラビア人の知り合いと連絡が取れたという報告が入りました。

マニラに行けばどうにかアラビア人達の助けが得られるといいます。私はお祝いにマニラまでの船のチケットをプレゼントしました。

 

そして、ヨセフはマニラへと旅立ったのです。

 

ガレージのアラビア人の今

しばらくして、ヨセフから連絡が入りました。

彼を捨てた彼女が帰ってきたのです。マニラで働いてお金を貯めて、彼女とフランス人のハーフの娘を連れてヨルダンに帰ると。

 

それから、半年後くらい後にヨセフはジョイと娘を連れてヨルダンに帰って行ったのです。

 

あれから既に7年以上経ちます。

ヨセフは、リオと私の誕生日、クリスマス、ニューイヤー特別記念日には欠かさずメッセージを送ってくれます。

時には、家族写真やボイスレコードもつけてくれるのです。また、毎年のように、子供が生まれたと連絡が入るのです。

現在、彼は4人の子供のお父さんであります。

2017年6月ヨセフがリオの誕生日に送ってくれた家族写真です。

ドマゲッティの生活part 2  ドマゲッティの生活part 2

 

 ヨセフがマニラに旅立った1週間後リオと私は女の館を後にし、セブの語学学校Regent Pacific College に戻りました。

それから、私たちはジンジン家族には会っていません。

2013年、BAYSIDE ENGLISH CEBUの雇用者試験をドマゲッティで開催した際に、私とリオが約2ヶ月間過ごしたジンジンの家を訪れました。

そこにはアメリカ人家族が住んでいました。

ジンジンファミリーも私達の世話をしてくれたヘルパーさんたちの姿もなかったのです。

 

近所の人の話によると、セブラン市長トニーは市長選挙に負けました。

フィリピンでは、大統領選でもそうでありますが、選挙に負けると犯罪者として裁判にかけられるもしくは暗殺されることが多々あるのです。

トニーも裁判にかけられ姿を消しました。そして、ジンジンファミリーもどこかへ引っ越してしまったと。


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