孤独最前線日本医療
フィリピンの医療現場では、命までもお金で買わなくてはいけない現状があるのです。
だからと言って日本の医療が絶対にいいとは言えないのです。
私は16年の看護師経験からの視点で述べます。
日本には医療が進みすぎたための悲劇、時間や規則に縛られ忙しさの中での見失ったもの、心がつぶれることによる悲劇が病院の中で多く見られるのです。
医療が進みすぎたため、死に向かう運命の人が生かされる現状があります。呼吸不全になれば、家族が望めば人工呼吸器に繋がれ腎不全になれば透析を回して生かされるのです。
時には患者の目は死にたいと訴えます。
そして、苦しい人工呼吸器を自己で外そうとするのです。そうなると医療事故となってしまいます。医療関係者は患者が人工呼吸器を自己で取り払わないように両手をベッドに固定するのです。
患者は顔が痒くても掻くこともできないのです。痛くても声を出して伝えることも、手も体も動かすこともできないのです。
そんな状態が何年も続く患者も多くいるのです。
脳梗塞や腎不全で入退院を繰り返す患者の家族は、病気が長くなるにつれて病院に来なくなっていきます。患者は、ずっと病院のベッドの上で一人寂しく過ごすのです。
死に逝く人がいます。
心電図モニターが装着されます。だんだんと心拍が弱くなってくきます。
看護師は「お父さん、今晩危ないですよ」と家族に電話をかけるのです。
家族が病院に駆けつけます。
すると家族の声を耳にした途端に患者の心拍が戻るのです。
危篤状態で意思表示できませんが、患者は家族の声を耳にした途端に死にたくない。生きたい。家族の声をもっと聞きたいと言う心理がそうさせるのだと私は信じています。
しかし、それが繰り返されると家族は「仕事で忙しいので死んでから連絡して欲しい」と言うのです。
ひどい場合には、「お父さん亡くなりました」と連絡をすれば、どうしても大切な出張があるので3日間預かってくれないかと耳を疑う返答が返ってくるのです。
老人病院では、若い看護師に排泄の世話をしてもらわなければいけない老人がいます。
彼らは現在の私たちの日本を築き上げてきた人達です。
プライドも羞恥心もあるのです。
そんな中、若い看護師の「また、うんこしたの!!!クサい」等の心無い言葉に彼らの心はつぶれていくのです。そして、自分を失っていくのです。
ICUでは、大量の消化管出血(胃や腸から出血)で運ばれてくるサラリーマンが多くいます。
命が危険にさらされているというのに、どうしても大切な取引先に電話しないといけないと駄々をこねるのです。
救急救命外来では、一人暮らしの老人が餓死直前の状態で運ばれてきます。
20代、30代の若者が自殺未遂で運ばれてきます。特に、クリスマスイブや誕生日の特別な日に自殺未遂をするのです。特別な日に自分は一人ぼっちだとふと気がつき命を絶とうとするのです。
もちろん、病院の中では、素晴らしい家族愛に心が打たれる場面も多くあります。
しかし、悲しいかな、最新医療が受けられるはずの日本の病院の中には日本人の心の歪みの方が多く見られるのでず。
病院の中で見た日本人の心の歪みについて述べると100時間は話せます。
医療関係者は、病院の中の人間の心の歪むに失望しながらも、たまにある美しい人間愛、家族愛に励まされ癒されそれを活力にして働いているのです。
人の幸せにするのも、不幸にするのも、その人の置かれている状況やお金ではなく、心が全てを左右すると私は考えます。
フィリピンセブ島の路上で物売りをする子供達の万遍の笑顔が物語っています。彼らには、スリッパさえも買うことができなく裸足の子供も多いのです。しかし、彼らの笑顔には一片の哀れさも感じられないのです。幸福感に満ち溢れた表情であるのです。
インフラが整い、欲しいものが簡単に手に入る日本で、特別の日にひとりであることに気づき、ふと自殺をする若者の方が哀れであります。
BAYSIDE ENGLSIH CEBUに滞在していた日本の子供達の中には、パニック障害の持つ子供や過換気症候群を起こす子供が多く見られフィリピン人講師達を驚かせました。
子供留学の多い夏休みや春休みのピーク時期には、私は学校看護師として頻回にその処置にあたりました。
また、ストレスによる日本や韓国で自殺が多いこともフィリピン人には信じられないのです。
フィリピンではほとんど自殺はないのです。あるとしたら恋愛に敗れて自殺をするという感情の国フィリピンらしいです。
フィリピン人に言わせれば、死ぬくらいなら、学校に行かなければいい。会社を辞めればいいのに、の一言で済むのです。