フィリピン田舎生活! 山の食材を使ったスイーツ

スイートポテト

フィリピン  セブ島南部の田舎は、山と海の自然に囲まれています。山からの幸と海からの幸を楽しむ事ができるのです。

食材には全く苦労しないのです^^V

いつも、遊びにくる唯一の村の小さな友達アロナが、山で取れたサツマイモを持ってきてくれました。

フィリピン田舎の子供達は、学校が終わった後や休日は、農家のお手伝いをするのです。

彼女が収穫したサツマイモを使ってスイートポテトを作る事にしました。

てきとうスイートポテト

材料

サツマイモ10個くらい

はちみつ 適当

コンデンスミルク 適当

牛乳 適当

メープルシロップ 適当

 

  1. サツマイモを茹でます。固めだと芋の食感が残る歯ごたえがある感じに仕上がります。やらかめだとしっとりした感じになります。
  2. 茹でたサツマイモを、ビニール袋に入れます。(ボールでもいいです)
  3. サツマイモを潰していきます。
  4. ある程度サツマイモがつぶれたらコンデンスミルク、ハチミツ、香りつけにメープルシロップをお好きな甘さに調整しながら入れます。コンデンスミルクやハチミツの変わりに砂糖でも大丈夫です。 ↑現地で取れたてハチミツ 130php(300円くらい) ハチミツの変わりにお砂糖でも オッケーです。↑フィリピンのスーパーではどこでも置いてあるコンデンスミルク(練乳)別に入れなくても大丈夫です。
  5. 牛乳を入れて混ぜやらかさを調整します。生クリームがあれば生クリームでもいいです。牛乳だとさっぱりした味、生クリームだとしっとりした味となります。柔らかさはしっとりぼってりが目安です。牛乳が少なすぎると出来上がりがボソボソに。柔らかすぎると成形しにくいです。
  6. 手のひらで形を整えオーブン天板に並べていきます。天板のにアルミホイルやクッキングシートを敷くと焦げ付かないです。(アルミホイルの場合、薄く油を塗っておくとへばりつきにくいです)
  7. 卵黄を塗ります。
  8.  160-170度くらいで卵黄に軽く焦げ目がつく程度に焼きます。トースターでもオッケーです。

 

 

このくらいの色が目安です。

出来上がり💞

いただきます。

私の田舎の息子ゴイ君も💞

海からは、こんな収穫も^^v

 

 

 

 

フィリピン親子移住:ドマゲッティでの生活 Part 1

約8年前の2011年、4歳の息子リオ(ニックネーム)と私の親子二人での新天地としてフィリピンへの移住

ドマゲッティでの生活 Part 1

ブラックアメリカン家族との生活

2010年夏、語学留学先のブラックアメリカン講師ドミニクに、私とリオのドマゲッティ移住のための環境作りとシリマン大学付属小学校の入学準備を依頼しました。

その後、日本帰国後も、2011年3月セブ語学学校Regent Pacific College(RPC)滞在中にもドミニクとは、SKYPE で連絡を取り合いました。

セブ滞在中には状況確認のためセブ島より飛行機で25分、私とリオは何度かドマゲッティを訪問しました。

 

ドミニクと私の契約は、

  1. 私たちの生活の世話(安全確保、掃除、洗濯、食事)
  2. シリマン大学付属小学校までの送迎と各種手続き
  3. リオの学校の時間帯に2−3時間私の英語個人レッスン
  4. 学校よりの帰宅後の子供達の学習(リオとドミニクの息子ジャジャの宿題と予習の授業)
  5. 1〜4 1ヶ月60,000php(約12万円)そして、住居に必要な家具等の資金は送金する
  6. また、リオとリオと同じ年のドミニクの息子ジャジャのシリマン大学付属小学校の学費は私が支払う

日本の金銭感覚で考えると、ネイティブ講師によるマンツーマン英語授業、その上、すべての生活も含めたったの12万円なんて、考えられないくらいの格安です。

しかし、当時の韓国資本の語学学校がほとんどであったフィリピンセブ留学では、セキュリティが整い3食、食事、掃除、洗濯、その上1日6時間のマンツーマン授業の1ヶ月の学費は10万円未満だったのです。現在は日本人留学生増加に伴い日本資本語学学校の進出にて語学学校学費の価格は上昇しています。

個人ビジネスで、それもセブよりさらに物価の安いネグロス島ドマゲッティの金銭感覚では、十分でした。

当時、有名校シリマン大学付属小学校の授業費は、1ヶ月たったの1万円弱でした。

私とドミニクの契約は、日本人金銭感覚である私も、フィリピン人金銭感覚であるブラックアメリカン講師ドミニクも満足するものでした。

2011年6月初め、リオと私はドマゲッティ、実際には、ドマゲッティより20分ほど離れたドマゲッティの隣町セブランと言う港と海岸の町に移住しました。

ドミニクは、その町の住宅地に小さくも新築で可愛い家を準備してくれいました。ドミニクの自宅から徒歩1分もかからなところでした。

 

ドマゲッティでの生活 Part 1

 

 

家の中には、小さなテーブルとマットレスのみが設置されていました。

 

エアコンも扇風機もない。ドマゲッティは予想以上に暑かったのです。セブより暑かったのです。

 

ドミニクの奥さんは、私たちが到着する1週間ほど前に第3子を出産したばかりでした。生活必需品の購入のために私がセブから送金した資金は、出産費用と食べるためにつかってしまったと、奥さんは涙をためて謝りました。

 

私とリオの自宅から徒歩30秒くらい離れたドミニクの家もそうでした。大きなリビングルームに小さなテーブルとベットルームがあるだけ。エアコンも冷蔵庫もない。そして、その空間にドミニクと妻と彼らの3人の子供達、そして妻の親戚の子供達15人くらいで生活をしていました。

ドミニクのみがテーブルでフォークとナイフを使用して食事を取っていました。他の家族たちは好きな床にバラバラにヤンキー坐りをして、一つのお皿にご飯もおかずもスープもごちゃまぜにして手をつかって食べていたのです。

 

フィリピンで生活して8年目となる今の私であれば、これがごく一般の中流家庭の家族形態であり食事風景であると理解できたでしょう。

 

しかし、日本から移住してきたばかりの私には、かなりのカルチャーショックでした。

セブでもドマゲッティでも、白人が大勢のフィリピン人の家族を連れているのをレストランでよく見かけます。同じです。ドミニクは、貧困層のフィリピン人女性と結婚し、フィリピン人大家族を養っているのです。

 

そんな、私のカルチャーショックをよそに、リオは同じ年のドミニクの長男ジャジャとすぐに意気投合しました。また、他のお兄ちゃんたちも底抜けに明るいのです。リオはすぐに仲間に入っていきました。

案の定、シリマン大学付属小学校の入学手続きもしていませんでした。その代わり、自宅より徒歩3分範囲にある住宅地の中にある私立小学校の入学手続きをしてくれていました。

私たちが住むドマゲッティの隣町セブランから、シリマン大学まで車で20分かかります。車もありません。ドミニクがバイクで毎日送迎するとなると毎日心配で落ち着いて生活できなかったでしょう。

私の目の届く範囲に学校があるというのは安全面でも安心できます。送金した生活準備資金は、出産祝い金ということにしました。

とりあえず、エアコンのない生活は耐えれません。すぐに、エアコン、カセットコンロ、クーラーボックス…生活必需品を購入し新生活に入っていきました。食事は、私が作ることにしました。手洗いでの洗濯もです。

 

ドマゲッティの隣町セブランの自宅は、バイクで10分、ライスフィールド(田んぼ畑)を通り徒歩30分で砂浜のビーチに行くことができます。

自然豊かでした。しかし、生活するには便利とは言えなかったのです。

いや、日本人の私には不便すぎたのです。

 

毎朝、リオとジャジャを徒歩3分の学校に送りとどけ、手洗いで洗濯物をするのです。生後まもない赤ん坊の世話しているドミニクの妻には到底頼めなかったからです。

近くにコインランドリーもありません。ボタンを一回押すのみの全自動洗濯機とはわけが違うのです。手洗いだとリオと私二人だけの衣服でも、外の暑い小さなガレージの洗面台で1時間以上はかかるのです。

洗濯が終わった後、買い物に行きます。ドミニクの家で食事は用意するとは言ってくれましたが、リオに、ごちゃまぜご飯を床で食べさせるわけにはいきません。

自炊することに決めました。

 

ドマゲッティには、ほとんどタクシーがないのです。トラシカルという自転車にサイドカーがついた乗り物に15分くらい乗りメインの道路に出ます。それは、歩いた方が早いくらいの速度です。

とにかく暑い。屋根のあるトラシカルでも死にそうに暑いのだから、炎天下の中を歩いたら熱中症で死んでしまうでしょう。

メイン道路には、夜7時になると閉まるコンビニストアーがありました。コンビニストアーにはエアコンが設置してあります。まずは、そこで涼むのです。

そこから、トラシクルというバイクにサイドカーがついた乗り物に乗り20分でドマゲッティの街の中心部に到着します。そこには、ショッピングモールがああります。

しかし、日中の時間帯にドマゲッティまで行くトラシクルを捕まえるのも困難でした。時には、炎天下の中で1時間以上もトラシクルが通るのを道路際で待たないといけないのです。

大半、私はメイン道路のコンビニまででギブアップしました。コンビニで、ラーメンや缶詰、卵にパン、ドミニクの家にも私の家にも冷蔵庫がないので、クーラーボックスの氷と氷が溶けるまでに食べきれる食材を購入し自宅に帰るのです。

 

それだけで、もうクタクタです。

 

昼過ぎにはドミニクが子供達を学校に迎えに行き、バイクや自転車で多くの子供達を海や自然の中に連れて行ってくれます。

 

夕方、リオは子供達とドロドロになって遊んで帰ってきます。リオの笑顔が全ての疲れを癒してくれました。

 


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フイリピン親子移住:女の館ガレージにアラビア人

ドマゲッティの生活part 2

退屈な女の館

2011年夏、フィリピンネグロス島ドマゲッティに移住した私たちは女だけの館に引っ越しました。

そこで、豪華な暮らしをすることができました。

ただ、時間の経過と共に、女の館での生活は、私もリオにとっても退屈なものになっていきました。

屋敷のオーナーであるジンジンの0歳児の双子の息子達はリオと同等に遊ぶには幼すぎました。

19歳の長女のジョアニーも11歳の次女のリサも当時6歳のリオと遊ぶにはお姉さんすぎたのです。

また、彼女達は海で遊ぶよりオシャレに興味を持っていました。日焼けの事をいつも気にしていました。

そして、彼女達の生活は、とにかく派手でパーティ好きだったのです。

ジンジンは、収入が入るたびに日中は自宅にマッサージやエステシャンを呼び、夜になるとパーティもしくは、夜のドマゲッティの街に繰り出していきました。

私もパーティにも、夜の街にも彼女達に誘われ2回程参加しました。

パーティには、フィリピン人富裕層達が集まります。

ジンジンは、とにかく富裕層達を私に紹介するのです。OOのスパーマーケットのオーナーであるとか、OO会社のオーナーであると紹介されるのですが、フィリピンの会社なんて知らない。そして、フィリピンでビジネスをするわけでもなく富裕層と繋がる意味もないのです。

それに大人のパーティにリオも興味がありません。

夜も街もジンジンと彼女の富裕層の友人達と一度だけ参加しましたが、自宅に残しているリオのことが気になって楽しめません。また、酔えば彼女達は現地の言葉で話します。それは、私にとって意味もわからなく退屈な時間でした。

ドマゲッティの街はオシャレですが小さな街です。1週間も滞在すれば、ほとんどを回ることができます。リオの学校の時間帯に毎日ドマゲッティに行くのも飽きてきたのです。

 

ガレージにアラビア人

そんな時に面白い出会いがありました。

アラビア人ヨセフです。

 

ブラックアメリカン講師ドミニク達とビーチに遊びに行った際に2歳の可愛い女の子を連れたアラビア人と若いフィリピン人のカップルに何度か出会いました。

彼らも毎日のように夕方になるとビーチに子供を連れて来ていました。

アラビア人は、リオや子供達に砂浜から、こぶし大くらいのカニを捕まえてくれました。リオも子供達も大はしゃぎで喜びました。そして、ビーチででアラビア人に会うたびにリオはカニを捕まえて欲しいとねだっていました。

私は、時々しかビーチに行きませんでした。リオは毎日のように自宅近くのビーチでアラビア人と遊んでもらっていたらしいです。

その後、リオが入院したこともあり名前も知らないアラビア人の事はすっかり忘れていました。

 

ある日、いつものようにリオを学校に迎えに行った際、リオの学校付近であのアラビア人が歩いていました。

リオが窓を開けて話しかけたのです。

彼は私とドミニクを探して2時間かけて、ドマゲッティのパブリックマーケット(公共マーケット)から歩いてやってきたと言います。お金も持っていない。3日間、何も食べていない。助けて欲しいと。

服はボロボロ、片足はパンパンに腫れ、傷がありました。とにかく、私は、住宅地の中にあるポンコポンコ呼ばれるフィリピンの庶民料理を食べさせ、家に連れて帰ってもいいかを確認するためにジンジンに電話をしました。

ジンジンは、ほっといたほうがいいが、私次第だと言うのです。

リオは、かわいそうだからの家に連れて帰ろうと言いました。

私は迷いましたが、家に連れて帰ることにしました。

 

家には、ジンジンのほか、セブラン市長トニーのボディガードも待機していたのです。

ボディガードの男性は筋肉質の肩にタツーが入って強面の顔をしていました。そして、アラビア人への事情聴取が始まりました。ジンジンもボディガードもアラビア人に対する口調は厳しかったのです。

アラビア人の名前はヨセフ、年は私とジンジンと同じ年。1年前に仕事でヨルダンからマニラにやって来ました。

マニラに滞在中にドマゲッティに旅行し、その際にドマゲッティのKTB(クラブ)の20歳のフィリピン人女性ジョイに恋をしました。

そして、そのまま彼女ジョイの家に移り住んだのです。ジョイには、すでにフランス人との間に子供がいました。しかしフランス人はジョイが妊娠してすぐにフランスに帰国し、一人で子供を育てていました。

ヨセフは、ジョイと彼女の娘、そしてジョイの母親と暮らしていました。ヨセフの持参した資金はほとんどジョイの家族のために使い果たしてしまいました。

そして2週間前、置き手紙を残し突然家からジョイもジョイの娘も母親もいなくなったのです。

ジョイは、残り少ないヨセフの全財産もヨセフのパスポートまでも持って行ってしまいました。

ヨセフは、仕事を探すためにドマゲッティに移りました。

しかし、お金もパスポートもない。仕事は見つからない。ドマゲッティのマーケットで物乞いをしながら2週間過ごしたのです。

そして、アメリカ人のドミニクもしくは日本人の私に助けを求めるためにドマゲッティより2時間かけて私達が住んでいた隣町まで歩いてやってきたのです。

しかし、すでにドミニクはセブ島に移り住み、自宅はもぬけの殻だったのです。途方にくれてとぼとぼ歩いているところに、リオから声をかけられたということでした。

足の傷はリオと同じように虫に噛まれたか小さな傷からばい菌が侵入し蜂窩織炎になったのでしょう。リオの蜂窩織炎より酷く悪化していました。

ジンジンと私はヒソヒソと相談しました。

私は傷が治るまでだけでも面倒を見てあげたいと訴えました。ジンジンは見知らぬアラビア人を家に入れたくないが、家賃を払っている私の意見は無視できないという感じでした。

ところが、アラビア人がイスラム教徒でなくカトリック教徒だということを知った時にジンジンの心が動きました。

セブラン市長トニーと電話で相談し、家の中では住む事は許せないが、ガレージでなら住んでもいいということになったのです。

そして、ヨセフはセブラン市のプロジェクトである道路工事の仕事を市長トニーから与えられました。道路工事はジンジンの自宅横で行われていました。日給は百五十ペソ(三百円)お金が貯まった時点で出て行く約束をしたのです。

ヨセフがカレージに住むことに、リオは大喜びでした。

 

そして、女性と子供の家とガレージにアラビア人という奇妙な生活がスタートしたのです。

 

リオを連れてフィリピンに移り住むにあたり、日本から私はあらゆる薬を持参してきました。看護師であった私は薬を調達することは容易かったのです。もちろん抗生物質も軟膏も包帯もです。それをヨセフに投与し、ヨセフの傷はすぐに完治しました。

そして、ヨセフはセブラン市の道路工事現場で働きました。ヨセフは仕事が終わるとリオと一緒に釣りに行ったりカニを捕まえたりと遊んでくれました。

時間の合間には、車の修理や家の修理、とにかくよく働いたのです。女性だけの家に男性が一人いるだけで便利なのです。そして、彼の人柄も良かったのです。

ジンジンファミリーも町の人達もセブラン市長までもヨセフを認めるようになっていったのです。

市長トニーは、裏の方法でフィリピン人になれるようにしようと言ったくらいです。国籍までも変える裏の方法があるとは、さすがフィリピンです。

だが、ヨセフはフィリピン人になりたくなかったのです。ヨルダンに帰りたかったのです。

私はヨセフがヨルダンに帰ることができる方法を考えました。

ヨセフは、フェイスブックも持っていなかったのです。私のパソコンを使ってヨセフにフェイスブックを作成させ、そこからアラビア人の友人を探すことを勧めました。

ヨセフは毎晩、芋ずる式に友人検索をしていったのです。また、スカイプも作成しアラビア人の友人を検索して行ったのです。

 

リオは、学校から帰るとヨセフの道路工事現場に直行しました。カニ取り名人のヨセフの周りには多くの近所の子供達も集まりました。リオはヨセフを通じて多くの友達ができたのです。

道路工事は、セブラン市のプロジェクトということもあり工事現場のおじさんたちは町の人達です。リオにとっては、工事現場の人たちは友達だったのです。

道路から、”ママ〜” と大声で呼び声がしたことがあります。リオは工事現場で働くロードローラーカーの助手席から手を振っていました。

外でドロドロになって遊んだ後は、湯船にゆっくり浸かって、ヘルパーさん達の作った美味しい夕食をいただく衛生管理も健康管理も問題なく楽しみました。

ジンジン達が夜のドマゲッティの街にくりだすのを見計らっては、リオと私、ヘルパーさん達、市長トニーが私達の警備のために送ったボディガードまでもヨセフのガレージ前に集まり会話を楽しんだのです。

ジンジンの富裕層パーティよりずっとリオも私も楽しみました。

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ヨセフとリオ、近所の子供達で収穫されたカニは、ヘルパーさん達、市長トニーのボディーガードによって美味しく料理されました。

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

 

ヨセフが、ガレージに住んでから1ヶ月ほどが経った頃、フェイスブックを介してマニラに住むアラビア人の知り合いと連絡が取れたという報告が入りました。

マニラに行けばどうにかアラビア人達の助けが得られるといいます。私はお祝いにマニラまでの船のチケットをプレゼントしました。

 

そして、ヨセフはマニラへと旅立ったのです。

 

ガレージのアラビア人の今

しばらくして、ヨセフから連絡が入りました。

彼を捨てた彼女ジョイが帰ってきたのです。マニラで働いてお金を貯めて、彼女とフランス人のハーフの娘を連れてヨルダンに帰ると。

 

それから、半年後くらい後にヨセフはジョイと娘を連れてヨルダンに帰って行ったのです。

 

あれから既に7年以上経ちます。

ヨセフは、リオと私の誕生日、クリスマス、ニューイヤー特別記念日には欠かさずメッセージを送ってくれます。

時には、家族写真やボイスレコードもつけてくれるのです。また、毎年のように、子供が生まれたと連絡が入るのです。

現在、彼は4人の子供のお父さんです。

2017年6月ヨセフがリオの誕生日に送ってくれた家族写真です。

ドマゲッティの生活part 2  ドマゲッティの生活part 2

 

 ヨセフがマニラに旅立った1週間後リオと私は女の館を後にし、セブの語学学校Regent Pacific College に戻りました。

それから、私たちはジンジン家族には会っていません。

2013年、BAYSIDE ENGLISH CEBUの雇用者試験をドマゲッティで開催した際に、私とリオが約2ヶ月間過ごしたジンジンの家を訪れました。

そこにはアメリカ人家族が住んでいました。

ジンジンファミリーも私達の世話をしてくれたヘルパーさんたちの姿もありませんでした。

近所の人の話によると、セブラン市長トニーは市長選挙に負けました。

フィリピンでは、大統領選でもそうでありますが、選挙に負けると犯罪者として裁判にかけられるもしくは暗殺されることが多々あるのです。

トニーも裁判にかけられ姿を消しました。そして、ジンジンファミリーもどこかへ引っ越してしまったと。


フィリピン親子移住 ドマゲッティでの生活Part 2: 女の館での新生活

フィリピンドマゲッティ新天地に向けて

 

フィリピンネグロス島ドマゲッティへの親子移住より2ヶ月後、息子リオは、虫に刺された足を、不潔な手で掻き毟ったため蜂窩織炎となり、高熱を出して入院しました。リオの症状も3日で回復しましたが、ホテルのように居心地の良いシリマン大学病院の特別室で2週間以上も滞在したのです。

私たちと共に生活するブラックアメリカン講師ドミニクは病院が居心地いいとは、何て不健康な、子供は外でドロドロになって外で遊ぶものだと言いました。本当にその通りです。

ただ、リオの衛星管理を怠ったため蜂窩織炎となってしまったのです。それは、私の責任であります。私のコンビニ食材での料理も限界がありました。

リオの栄養管理も考えると、ドミニク家族との生活には無理がありました。私はドミニク家を出ることをリオの入院中に決めました。

 

そんな時に、リオの主治医が彼の家族が経営するドマゲッティのホテル、マリアルイサのパーティに招待してくれました。誰の主催で何の目的のパーティかは覚えていませんが、上流階級のフィリピン人達のパーティであったことは間違いありません。

そんなパーティに日本人親子が出席していることが珍しいのか多くの人に声をかけてもらいました。その中で私たちが住むドマゲッティの隣町セブラン市の市長トニーと知り合ったのです。

そして、私は家探しの相談をしました。セブラン市長トニーより、私たちがよく遊びに行くセブランのビーチ前の家を紹介してもらいました。

 

リオの退院後、私たちはそのビーチ前の家を訪れました。

家は5LDK、裏には大きな庭がありました。ガレージには車が2台止まっていました。オーナーの女性が家の前で待っていてくれていました。

家具付きで2万ペソ(約4万円)で賃貸したいとのことでした。

海の目の前で庭付き5LDKの家が4万円、日本人金銭感覚で考えると激安であります。しかし、都会から離れた港町の当時の物価では相当額であります。ちなみに当時私たちが住んでいた2LDK小さな庭とガレージ付の家の家賃は三千五百ペソ日本円で7千円でした。

 

オーナーの女性の名前はジンジン。年齢が私と同じということもあってか話が盛り上がりました。

彼女は、私達に料理とビールまで出してくれました。彼女は4人の子供達と、3、4人のヘルパーさん達と暮していました。

 

一番年上の長女は、日本人もしくは中国人系の顔をした美人です。当時19歳でシリマン大学で勉強していました。

2番目の次女は白人系の美人です。当時11歳。

下の二人の子供はまだオムツをした双子のフィリピン人顔の男の子達です。

ジンジンによると、長女の父親は中国人。次女の父親はスイス人。そして、双子の男の子達はセブラン市長トニーとの間の子供たちだというのです。

ジンジンは、セブラン市長の愛人だったのです。

この奇妙な家族形態に私は興味津々でした。昼間から夕方近くまでビールを飲みながら、ジンジンと彼女の長女ジョワニーと話が盛り上りました。

彼女達はヘルパーさんも含め女性ばかりと双子の男の子で生活していました。市長トニー以外の男性を家に入れることはトニーに禁止されているとのことでした。

 

女性だけの館。まるで大奥のような家です。

 

彼女達の生計はそれぞれの子供達の父親からの養育費の仕送りで成り立っています。

しかし、次女の父親スイス人からの仕送りが滞り、市長トニーの正妻からの嫌がらせでトニーからの仕送りも減ってきたとのことで生活が苦しくなり、家を賃貸に出して実家に引っ越さないと生計が厳しくなってきたというのです。

家の中も見せてもらいまいた。すべての部屋にエアコンが設置されています。大きな冷蔵庫が2台もありました。温水シャワーもあります。バスタブまでもあります。車も2台、バイクもあるのです。ヘルパーさんの作る料理も美味しいのです。

 

私はヒラメキました。

ダメもとで、提案してみました。

私とリオに一部屋だけ貸して欲しい。そして、ヘルパーさんもみんなまとめて一緒に住まないかと

家賃は倍の月4万ペソ(8万円)を支払う。その代わりに、食事、掃除、洗濯をして欲しい。そして、車とバイクを使わせてほしいと…

彼女達は私の提案に驚いた様子でした。しかし、私とリオの親子を受け入れるだけで家を出なくてもいいのです。そして彼女たちの生活も変わらないのです。その上に4万ペソの収入が入るのです。彼女達にとっても私にとっても一石二鳥だったのです。

 

その場で商談は成立しました。

 

ドミニクもドマゲッティでの生活に経済的に限界を感じていました。経験豊かなネイティブ講師であればセブであれば十分働き口があります。家族を養うこともできます。また、韓国人から一緒に仕事しないかと誘われているとのこともあり、ドミニク家族はセブに帰ることとなりました。

 

女の館での生活

そして、女性だけの城、大奥でリオと私の新しい生活が始まりました。

 

車があるだけで同じ町でも世界が変わります。

 

リオはそのまま、ドミニク家族と私達の住んでいた住宅地の小学校に通いました。

朝起きると、ヘルパーさん達によって、すでに美味しい朝食ができているのです。

毎日、朝食後に車でリオを学校まで送り、私は一人でドマゲッティの街まで車を走らせました。ボリバーでゆっくり本を読み、ショッピングモールで買い物を楽しみました。夕方にはリオを車で学校まで迎えに行き、リオの学校より少し車を走らせると、海辺のレストランがあります。毎日そこでマンゴジュースを飲んで帰るのが日課となっていました。

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2


 

フィリピン親子移住:ドマゲッティ繁華街ボリバーでの週末

西洋を感じさせるボリバー

ドマゲッティの中心部海岸沿いに、ボリバーと呼ばれる場所があります。

海岸沿いに、おしゃれなレストラン、バー、ホテルが立ち並んでいます。

 

フィリピンには、300年以上にも渡るスペインの植民地であった歴史があります。各地にスペイン建築の跡が残されています。

 

まさに、ドマゲッティの街はスペイン植民地時代の建物が多く残され、西洋を感じさせるおしゃれな街です。

そして、老後を楽しむ西洋人、欧米人たちで街は賑わっていました。

 

私たち親子の週末はドマゲッティのホテルで過ごしました。

リオと私の1週間分の洗濯物を持ってドマゲッティ中心街のコインランドリーに行くのです。そして、ボリバーのレストランでおいしいものを食べ、お気に入りのホテルで過ごすのです。

 

ドマゲッティ、ボリバーには、私たちのお気に入りのホテルが数件ありました。

 

第一に、海岸中央部に位置するハネコーン。

 

建物は古いですが木造の風情のあるホテルです。1階には深夜まで開店しているレストランバーがあります。週末の夜の9時を過ぎるとバンドやバヨリニストのミニコンサートが開催されるのです。

リオと私のドマゲッティ滞在のほとんどの週末はそこで過ごしました。

 

ホテルの受付嬢とも仲良くなりよく話をしました。

彼女の弟は教師になることを目標に大学で勉強していると言います。彼女は弟の学費を支えるために働いているのでした。

そして、彼女の弟は私が起業することとなる語学学校BAYSIDE ENGLISH CEBU の講師となったのです。2014頃より、私が設立したセブ語学学校BAYSIDE ENGLISH CEBUには、多くの日本企業のビジネス研修に使われるようになりました。彼女の弟はビジネス英語の中心核講師へと成長していったのです。

 

母と子!フィリピン移住への第一歩:セブ島親子留学2

RPC崩壊

16年間、緊急医療の看護師として医療業界を走り続け、病院のお局様であった私は35歳にて人生最大の宝物(息子)を授かる事ができました。しかし、私の結婚生活は1年も続かず破局。私達親子の人生の再起として、8年前の2011年3月、私と3歳の息子リオはフィリピンのセブ島に渡りました。

 

フィリピン移住への第一歩:語学留学

2010年夏42日間のセブ島語学留学を終え日本に帰国後、私はパートタイムで町の一般病院で勤務しながらフィリピン移住の準備を進めました。

その間に離婚も成立しました。

移住先フィリピンの生活準備は、2010年の留学中に友人となった、ブラックアメリカン講師ドミニク家族に依頼しました。私達親子の移住先はフィリピン南部のネグロス島ドマゲッティです。移住前の3ヶ月、英語環境に慣れるために、フィリピンセブ島の語学学校に滞在する事に決めました。

ほとんどのフィリピン語学学校では、英語学習のみならず敷地内に学生寮が整備され、食事、掃除、洗濯が提供されるのです。また、安全も確保されているのです。

突然何も知らない海外に飛び立つのは危険が多すぎます。

安全と最低限度の生活が守られたフィリピン語学学校は、ゆっくり海外移住の環境を整える準備にふさわしい環境であるのです。

フィリピンへの移住の前日 同僚たちが送別会を開いてくれました。これが、私の最後の日本社会であります。

RPC

 

そして、2011年3月、東北地方太平洋沖地震から約1週間後にフィリピンセブのマクタン島に位置する韓国資本の語学学校Regent Pacific College(現在のBAYSIDE ENGLISH CEBU RPC CAMPUS) に到着しました。

当時、春の大学生バケーションシーズンということもあり韓国人大学生たちで学校は賑わっていました。RPC

3ヶ月間のRegent Pacific College での学生生活、とにかく人との出会いを楽しみました。4才の息子リオの英話は、初めの2−3か月はインプットの時期でした。2−3か月後に突然アウトプットに変わる時期があるのです。

ちょうど、その時期にドマゲッティに移りブラックアメリカン家族と生活をともにしたこともあり、当時5歳のリオの英語は完全にブラックアメリカンイントネーションとなっていきました。

 

Regen Pacific Collage (RPC) での3ヶ月

 

RPC

RPC

授業がどうだったか勉強は?ということはあまりよく覚えていませんが、とにかく楽しみました。

 

そして、2011年6月初めフィリピンセブより飛行機で25分。バスと船で5時間南下した私たち親子の移住先であるネグロス島ドマゲッティに移ったのです。

 

 

母と子!海外進出の第一歩:フィリピン・セブ島親子留学

リオと私のセブ島親子留学

2010年の夏、私たちの親子の42日間のセブ留学が始まりました。

 

私たちの留学先は、セブ市のマクタン島に位置した、ほとんどの講師がネイティブの語学学校でした。

夏休みということもあってか、韓国人、台湾人、ロシア人、日本人と多国籍な学生達で賑わっていました。当時、日本人学生は全学生の20%以下でした。

 

授業はどうだったのかは、あまり覚えていません。

 

私達のセブ島留学の目的は、英語の勉強だけではなく、人生の転換期としてこれからの人生の方向性を考えることでした。

 

そして、そこでの出会いが、私たちの人生の方向生を大きく変えたのは間違いありません。

 

国籍、年齢に関係なく私は多くの学生や講師から子供の教育の事、生活の事あらゆる情報を集めました。授業時間はほとんどプライベート会話と情報収集へと変わっていきました。

夏休み時期ということもあり、各国からの親子留学の学生も少なくなかったのです。

日本からお母さんの話では、2年間以上、海外の政府認可校に留学すれば帰国子女枠として、日本の有名私立小学校に編入しやすくなるというのです。

 

また、韓国からのお母さんは、子供の教育のために長期計画を立てセブ島に来ていました。

フィリピンの語学学校で基礎英語を3ヶ月間勉強した後、授業費が安いフィリピンで私立小学校に子供を通わせるのです。フィリピンの私立学校での授業は英語で行われるのです。英語をマスターした後、親子でオーストラリアに移住する計画でした。オーストラリアで3年以上移住すると永住ビザが取れるらしいのです。永住ビザを取得できればオーストラリアの高校、大学の学費は外国人価格ではなく現地価格となると言うのです。

 

各国のお母さんたちの子供の将来計画に、私は、『私の世界はなんて狭いんだ』衝撃を受けました。

 

そして、お母さん達の情報の信憑性をインターネットで調べるとともに、講師たちからは、フィリピンの私立学校の情報を集めました。

 

黒人アメリカ人講師ドミニクのフィリピン人妻はフィリピンネグロス島ドマゲッティ出身であり、そこにはフィリピンで有名大学であるシリマン大学、そしてシリマン大学付属小学校があります。

彼自身も家族と一緒にセブ島よりドマゲッティに移り住み、リオと同じ年の息子をシリマン大学付属小学校に入学させたいとのことでした。

ドマゲッティはダイビングでも有名な街であります。私は看護師時代に同僚たちとダイビングで3回訪れています。海沿いの街並みは西洋を感じさせるおしゃれなレストランが立ち並ぶ素敵な街です。実際に多くの西洋人たちが滞在していました。

 

私たち親子の方向性は決まりました。

来年2011年の6月にリオとドマゲッティに移り住む。

 

そして、リオをシリマン大学付属小学校に入れる。

2年後には、日本の私立小学校に帰国子女として編入もしくは、韓国のお母さんの計画のように他の国に出るという手もあります。

2年後の方向性はその時に考えればいいのです。

 

がむしゃらに働き続けた看護師時代の蓄えも十分ありました。

離婚後、養育費として月20万円くらいの収入は入るでしょうが、(実際には18万弱でした)日本でリオを私立小学校や習い事に通わせるには十分ではありません。

しかし、フィリピンであれば、リオの教育も含め親子二人で十分暮らしていけるのです。

私の頭の中に、シミュレーションは描かれました。

あとは、環境を整えるのみです。

 

ドミニクにドマゲッティでの住居と家具等の購入等の移住するにあたっての環境作り、そしてリオのシリマン大学付属小学校の入学準備を依頼しました。

安全確認のために実際にドミニクの家族と子供たちとも会いました。

リオを連れていくためには十分な環境を整えてから移住先のドマゲティに移る必要があるからです。

 

ドマゲッティに移るまでの3ヶ月間、授業、食事、掃除、洗濯その上セキュリティが確保されているセブ島の語学学校に滞在することを決めました。

 

2010年夏のセブ滞在中に約7か月後の2011年3月に入学を決めた語学学校の入学手続きを済ました。

 

その留学先の語学学校が、後に私が起業することになるBAYSIDE ENGLISH CEBU RPC キャンパスであります。

当時は韓国人が経営する語学学校Regent Pacific College(RPC)でした。

 

その当時は、そこで起業する事になるとは夢にも思わなかったのです。

 

この2010年夏、セブ島留学では多くの素晴らしい人たち、後ほどの私のビジネスに大きく関わってくる人達との出会いがありました。

 

私のグループクラスのクラスメイトでスタッフでもあった韓国人のレイナ、ロシアに10年以上暮らしロシア語を流暢に話す彼女は、セブ島の語学学校にロシア人を連れてきた一人者と言っても過言ではありません。彼女は後ほどBAYSIDE ENGLISH CEBUの韓国人マネージャーとして韓国、ロシアマーケットに大きく貢献していくことになるのです。

そして、日本語、中国語を流暢に話す韓国人ジャスリン。彼女も後にBAYSIDE ENGLISH CEBU の韓国マネージャーとして韓国、台湾、中国マーケットに貢献するのです。

当時は、そんなことになるとは、夢にも思いませんでした。

 

日本には、本音と建前を使い分ける文化が定着しています。日本社会ではストレスや問題等を心の奥底に閉じ込め装飾した顔を表に出していかなければならないのです。

しかし、日本のしがらみから解放される海外では心も解放されるのです。殻をかぶせて心の奥にしまっていた悩みなども打ち明けることもできるのです。

 

私より3歳年上で7歳の娘と親子留学に来ていたエステシャンの優子さんに(仮名)私は離婚するにあたっての不安を彼女に打ち明けました。彼女もまた、旦那さまの浮気に悩んでいました。

彼女はセブ留学後、離婚カウンセラーとして、そして現在、夫婦円満カウンセラーとしてテレビ、雑誌に登場する有名人となっています。

 

お母さんと弟と共に親子留学に来たサナギちゃん(仮名)彼女はお母さんに内緒にねっとそっと私に話しました。

彼女はアフリカに旅行した時にアフリカに恋をしたのです。セブで英語を学んだ後、アフリカに写真を撮りに行くのだと。

彼女とは、それ以来交流がありませんが、後日、アフリカで少数民族を撮影する写真家としてテレビ、新聞、雑誌で彼女の姿を多く拝見することになるのです。

 

そして、当時18歳大学生のイッシー、彼は2012年8月、私が設立した語学学校BAYSIDE ENGLISH CEBU の開校時に50人近くの大学サークルの学生達を引き連れ開校を盛り上げてくれる事になるのです。

 

また、彼の同期であった大学生二人、ハルとマルと共に私はBAYSIDE ENGLISH CEBU を立ち上げることとなるのです。

 

20歳の青年タカ、彼はこのセブ島留学より、セブ島に永住することになります。

現在、私が息子リオとは離れフィリピンの田舎でフィリピン人達と暮らしていることを知る3人だけの日本人のひとりです。

彼は、私の住むフィリピンの田舎にフィリピン人妻と娘を連れて時々遊びきてくれます。彼は28歳になりました。

 

彼は、いつものように軽い口調で言いました。

「綾子さんが金持ちでも貧乏でも犯罪者でも僕と綾子さんが友達ってことは変わんないっすよ。ただ、死なないでくださいよ」と。

 

 

そして、何よりも私が、リオとフィリピン移住を決めた決定的な理由は、フィリピン人の人柄であります。

私のセブ留学は、ほとんどと言っていいほど勉強しませんでした。とにかく講師達とプライベートの会話を楽しみました。

フィリピン人講師達は22歳前後です。彼らの給料は日本円にして月2万円程度しかありません。そして彼らは、給料のほとんどを家族に仕送り稼ぎ頭となっているのです。

また、リオと同じくらい、もしくはリオより幼い子供たちは路上でネックレスなどの民芸品を売り家族の生活を助けています。

一見かわいそうに見えますが、そうではありません。それは彼らの笑顔を見ればすぐにわかります。どうしてそんなに楽しいのだというくらいの万遍の笑顔には幸福感が満ち溢れているからです。日本であんな笑顔を見たことがありません。

 

インフラが整い生活に何不自由がなく規則ただしく時間に縛られて生活している日本人が忘れかけていたもの、置き去りにしてきたものが彼らにはあるのです。

 

留学をきっかけにフィリピンに移住する若者が多くなっています。

フィリピン人達の幸福感が満ち溢れた笑顔に人生観が変わったという人も少なくないでしょう。

 

リオのセブ島留学は、日本で3年近くホストファミリーとして、多くの外国人達と生活を共にしていたこともあってか、国籍が違う友達でもリオには全く抵抗はありませんでした。

 

40日だけの英語学習でどのくらい英会話力が上達したかはわからないですが、とにかくリオは楽しんだようでした。

 

セブ島との出会い

韓国人スタッフたちとも

 

韓国人スタッフたちとも

フィリピン人講師とも

 

セブ島との出会い

休憩時間も

 

休憩時間も

ネイティブ講師とも

 

セブ島との出会い

アクティビティも

 

ネイティブ講師とも

ママとも

 

セブ島との出会い

卒業式の発表会でも

 

現地路上で物売りの子供たちとも

セブ島との出会い

セブ島との出会い

セブ島との出会い

セブ島との出会い

セブ島との出会い

物売りの子供たち1

 

 

母と息子のセブ移住!フィリピン・セブ島との出会い

セブ島との出会い

私たち親子とセブ島との出会いは今から約8年前、2010年夏、42日間の親子留学でした。

 

私の5年間の語学学校経営の中で

日本人30代40代、特に女性が海外留学を決める理由は、日本社会に疲れ、英語が話せれば世界は変わるのでは…人生の転機として、…自分さがしに海外へ…

という意識の学生と多く出会いました。

 

セブ留学で人生が変わった。セブ留学をきっかけにセブに移住する人、セブで起業する人、世界に飛び立つ人も少なくありません。

 

フィリピン、セブ留学では、個室でのマンツーマンのプライベートレッスンを受けることができるのです。

マンツーマンでのプレイベートレッスンは、濃厚な授業だけではなく、外国人講師と学生の距離が近くなるのです。

すなわち、英語初心者が遠い目で見ていた外国人との距離が近づくのです。

時には恋や生活の悩みなども相談します。また、講師より相談を受ける場面もあるのです。(学校としては、個人的な会話は禁止していましたが、私は学生が望むならそれもいいと思っていました)

そんな中で、講師も学生もお互いのカルチャーに触れることができます。

ストレス日本社会に疲れた学生達は、フィリピン人講師との交流の中に、私たち日本人が忘れたかけたものを見つけるのです。

それは、幸福感の違いであったり、家族愛であったり、楽天的思考であったり…人によって色々あるでしょう。

もちろん、すべての学生がそうではありません。TOIECの点数を上げるためキャリアアップのため、脱段は許さない。楽天思考のフィリピン人にストレスを持つ学生もいます。

 

私は、まさにフィリピン人講師たちの中に私たちが忘れていたものを見つけたのです。そして、当時の私は人生の転機でもありました。

 

2010年、前夫との3年近くに及ぶ別居生活にピリオドをつける為に、離婚に向けての協議をしていました。

私とリオとの生活は、今まで通りとはいかなくなるでしょう。

その頃、幼稚園のお母さんたちは、子供を、どこの有名小学校に受験させるのかという話で持ちきりでした。

ホストファミリーとしての外国人学生さん達と生活を楽しんでいる余裕もなくなるでしょう。

仕事も復帰しなくてはいけなくなるでしょう。

 

私は狭い狭い世界の井の中の蛙でした。

 

華々しく結婚退職をして3年後に離婚!

同僚たちの目!

幼稚園のお母さん達の目!

 

世間帯や人の目ばかりを考え不安を募らせていました。

これから、どうしよう…

とにかく、状況から離れて考えよう。

 

 

ちょうど、息子の幼稚園も夏休みに入る前でした。

 

夏休み期間を利用して息子と海外に短期留学。

決めたら即実行。2週間以内の出国を目標にインターネットで検索を始めました。

2010年当時は、短期の英語留学は、グァム、ハワイ、フィジーが主流でした。

色々問い合わせをしましたが、2週間以内の渡航は難しかったのです。

 

そこで、目に止まったのがフィリピン留学でした。

現在でこそ、フィリピン留学の認知度は上がっていますが、その当時はほとんどの人が知らなかったのです。

フィリピンといえばフィリピンパブのイメージしかなかったのです。

そして、価格を見てびっくり安すぎるのです。

3食付き。1日6時間授業。ホテル滞在。欧米への留学に比べて三分の一以下の価格であります。

ありえない。怪しすぎます。

留学斡旋会社のホームページのお問い合わせをすると、2週間後でも1週間後でも入学は大丈夫ですと… ますます怪しい。

フィリピンには、看護師時代にダイビング目的で3回旅していました。

しかし、今回は3歳の息子リオを連れていくのです。安全が第一です。確認しないといけません。リオを連れて問い合わせした留学斡旋会社の事務所に直接出向きました。

 

その、留学斡旋会社の事務所は大阪難波、自宅から車で約30分。繁華街から離れた古びたビルの中でした。

 

ビルの前には、決してサラリーマンには見えないカジュアルスタイルの26、27歳くらいの痩せた青年が私たちの訪問を待ってくれていました。

難波アメリア村の三角公園で座っている若者と大差ない青年でした。彼は、薄暗いビルの中、人ひとりがやっと通れるくらいの廊下の奥の、さらに薄暗いエレベーターを上がって事務所に案内してくれました。6畳くらいの事務所にフィリピン語学学校パンフレットが数枚置いていました。

 

「あの〜すみません…社長さんとお話し出来ますか?」「僕がそうです。」「えっあなたが社長さんですか?」「はい。社員はいません 僕一人でやっています。」「あ〜一人でも社長さんね。」大笑いしました。

 

その後、青年はフィリピン留学の説明。「僕もセブ島に行きますので心配しないでください。現地でお会いましょう」

自宅によく来る背広を着た胡散臭いセールスマンとは違う素朴で誠実な対応にリオと私はその場で1週間後のチケットを手配。セブ留学を決定しました。

 

現在、その青年の会社は日本に数カ所事務所を構え、フィリピンセブ島で2校の語学学校を経営しています。青年は素敵な青年実業家になっています。

 

フィリピンの経済は、ウナギ登りに上昇しています。

 

1980年代の日本のバブル期のようにあちらこちらでビル建設ブームが見られる。語学学校だけではなく、外資系企業が次々に進出してきています。

成功のチャンスが多く転がっています。

反面、騙され足元を引っ張られ奈落の底に突き落とされる例も多くあります。私も含め、奈落の底に落とし込まれた日本人も多く知っています。

 

2010年の夏、私たちの42日間のセブ留学が始まりました。


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高齢出産!医療現場を走り続けた末に授かった宝物

RPC

日本での生活

医療現場を歩んできた私

私は日本で約16年間、急性期医療現場で看護師をしていました。

急性期医療というのは、救急外来、ICU、外科病棟等です。まさに命の前線での仕事です。

医療器具はどんどん進化していきます。勉強しないとついていません。

休みの日には看護協会にてセミナー、結婚や家庭に憧れてはいましたが、恋愛する時間もなく16年が経過していきました。

看護師の給料は悪くはありません。しかし、使う時間がありません。1年に2,3 回ほど、1週間ほどの長期休暇をとって海外にダイビングに行く事くらいしか。

 

それ以外、ほとんどプライベートの時間はありません。ただ、貯金だけが増えていきました。

 

それでも、救命の前線でアドレナリンを噴出して、そしてやり遂げてホッとする時間が好きでした。

 

気がつけば34歳でした。35歳になれば、四捨五入すれば40歳になります。体力勝負の急性期医療ですが体力にも限界を感じ始めていました。物覚えも悪くなっていくのです。そして、医療現場しか知らない人生を振り返って焦っていました。

 

経験が長い分医療に関しての知識だけは豊富になっていきます。医者は経験、知識が豊富な中年看護師よりも、何も知らない新人看護師が好きです。新人看護師たちは次々に医者と結婚していきました。

 

私はお局様だったのです。

ナース

 

人生の宝物

そんな時、世の中ではエリートと呼ばれる男性に出会いました。彼は、私より12歳も年上でした。特にときめいたわけでもないですが、今つかまえとかないと一生お局様で病院の中だけで人生が終わってしまいます。

2004年2ヶ月間の交際でスピード結婚をし、夢の結婚退職をしました。

そして、すぐに息子リオを授りました。私が35歳の時でした。

 

リオが可愛くて可愛くてたまらないのです。

 

ところが、私の夢の結婚生活は、結婚から1年半、リオが生後10ヶ月の時にスピード別居となってしまいました。

リオには申し訳ないですが、私はそれでもよかったのです。

 

人生最大の宝物リオがいるからです。リオを私に授けてくれただけで感謝でした。

 

それから、リオと私のふたり生活の始まりました。生活には困りませんでした。別居中であっても毎月60万円くらいのの生活費は入れてくれたからです。

 

地域の中では、有名幼稚園にリオを入れ、午後は、スイミングスクール、子供英会話スクール、公文、 幼稚園のお母さんたちとの会話を楽しんでいました。

 

教育ママというわけではなくリオと二人で楽しみました。

 

そして、リオに色々な国の人達と交流してほしい。私も色々な国の人と交流したいという思いから、自宅近くの桃山大学の外国人学生のホストファミリーとなりました。

 

ほとんどの、学生はヨーロッパから日本にアニメの勉強のために留学生でした。

 

ホストファミリーは、ビジネスではありません。ボランティアです。リオと学生たちと、料理に旅行と生活を楽しみました。

 

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

 

 

 

フィリピン親子移住!フィリピンで緊急入院

フィリピンで緊急入院 in ドマゲッティ

2011年8月、突然、当時4歳のリオが高熱を出しました。そして片方の足はパンパンに腫れていました。

早速ドマゲッティのシリマン大学病院に連れて行きました。

緊急入院が決まりました。

リオをフィリピンに連れて行くにあたり、日本で1年間の海外保険、特に医療に関しては最上級の保険に加入していました。

しかし、現在こそ、ドマゲッティには日本の語学学校や日本企業が参入していますが、当時日本人はほとんどいないかったのです。

もちろん、キャッシュレス(現金の支払いないでの治療ができる)提携は日本の保険会社と締結していませんでした。

リオは緊急外来より一般病棟の狭い個室に移されました。

初めに入院保障金とお部屋代を支払います。そして医師が薬を処方してくれます。医師が処方箋を発行してくれるたびに、私が処方せんを持って薬局でお薬を買いに行き看護師に手渡すのです、それから看護師による投与が開始されるというシステムでした。

リオは高熱でぐったりしていました。

医師が処方箋を出すまでの過程も時間がかかります。リオを病室に残し病院内の薬局で薬を購入するまでも待ち時間もかかるのです。看護師が薬を点滴に調合し投与されるまで1日がかりです。

 

金銭の問題ではありません。

その間にリオの病状が悪化したらどうするのだ!!!

 

16年間、緊急医療に携わっていた私にはわかります。時間の大切さが…

私は多くの緊急場面を冷静に対応してきたという自信がありました。

しかしながら、海外で、それも大切なリオのことになると冷静さを失うのです。

早速、加入していた日本の海外保険会社に電話しました。

 

『子供の命がかかっている。どうにかしろ!!!』と。

 

日本の保険会社は素晴らしいです。

すぐに、シリマン大学付属病院とキャッシュレス提携を結んでくれました。

次の日、リオは、特別個室に移されました。

10畳くらいの病室に電動ベッドと、リビング、キッチンまであるのです。そして、温水シャワー(セブランの自宅は水シャッワーだった)大きなバスタブまでもあるのです。

 

まるで、ホテルの1室のようでした。

 

私は、もう処方箋を持って長い時間、薬局で並ばなくてもよくなりました。抗生物質の点滴投与が迅速に開始されました。医師、看護師たちは1時間おきと言ってもいいほど巡回してくれます。私のために病室にマッサージまでよんでくれるのです。(マッサージは保険適応外であります)

リオは、虫に噛まれた足を不潔な手でかきむしったため、そこからばい菌が入り蜂窩織炎になったとの診断でした。そして、高熱は蜂窩織炎によるものでした。リオの熱も足の腫れも3日後には完治しました。

しかし、医師は休養のためにとさらに1週間、そしてリオの手にできていた小さなイボまで治療してくれると、さらに1週間の入院勧められました。私とリオは2週間以上をシリマン大学付属病院のホテルのような特別室で過ごしました。

 

入院生活は快適でした。ボリバーで友達になったネグロスオリエンタル大学の学生たちが毎日病室に遊びに来てくれました。私たちは学生たちとトランプにUNO を楽しみました。時には、リオの担当医に外出許可もらい街のレストランにおいしいものを食べに行くこともできるのです。

 

シリマン大学病院の前には多くのトラシクルが待機しています。トラシクルに乗って3分で街の中心街に行けるのです。

入院中にネグロスオリエンタル大学の学生達に招待され、ボリバーで開催される大学恒例の行事ランタンパーティにも参加しました。願い事を書いたランタンをボリバーの海岸から海に流すのです。1000近くのランタンが海に流れます。また、空にも多くのランタンが飛んでいくのです。

この時の出会いがきっかけに2012年8月に開校したBAYSIDE ENGLISH CEBUに、ネグロスオリエンタル大学の数人の講師、事務員達が誕生しました。

 

そして、2013年より、BAYSIDE ENGLISH CEBUの講師採用にネグロスオリエンタル大学と提携、講師採用試験、面接をドマゲッティ、ネグロスオリエンタル大学やボリバーのホテル各所で開催、ドマゲッティより、BAYSIDE ENGLISH CEBUの多くの優秀な講師が多く誕生することになったのです。

 

ボリバーでは、時折、ドマゲッティの各大学や企業のイベントやお祭りが開催されます。そんな時は、ボリバーのホテルは、ほぼ全て満室になるのです。

そんな時は、リオと私は、ボリバーから少し外れたマリアルイサというホテルを利用しました。

そこは、シリマン大学病院のリオの主治医の家族が経営していることを知らされました。

リオの退院間近の時、リオの主治医は、私たちをマリアルイサホテルで開かれたパーティに招待してくれました。

 

その時の出会いが、私たちのドマゲッティでの第2の生活へと繋がって行ったのです。