どうなる?日本の子供達の将来

2011年3月、私は4歳の息子(リオ)を連れて、親子二人でフィリピンセブ島に移住しました。

2016年12月末、東進ハイスクール元カリスマ講師達の息子の命を脅かす脅迫や会社ハイジャック等の事件最中、私はリオの安全を確保するために、冬休みバケーションという名目にて彼一人で日本の実家に送りました。

そして、私も脅威から逃げるように、2017年2月日本に帰国しました。

リオは、ママが迎えに来た。セブ島の学校に戻れると思ったのです。もう、セブ島には、二度と帰れないと説明してもリオには納得できませんでした。

リオが4歳の物心がついた時から8年間生活していたフィリピン セブ島は、リオにとってもう一つの母国だったのです。多くの友達がいました。フィリピンセブ島には彼の夢があったのです。 リオのセブ島

また、リオの母国語は英語となっていたのです。日本語を話すことはできましたが、読み書きは、ひらがな、カタカナ程度だったのです。

8年間過ごしたフィリピン、セブ島でのお友達ともお別れを言うことも出来ず、心の整理もつかないまま、突然、日本の学校へ転校したのです。何よりも、学校の授業は日本語で行われます。先生の言っている意味もわからないのです。当時、彼をインターナショナルスクールに入れる資金もありませんでした。

当時、リオは荒れていました。学校に行きたくない。アテネオ(フィリピン、セブ島の彼の学校)に戻りたいと毎日泣いていました。学校も多く休みました。

 

私は、リオと約束しました。

ママに1年間、時間を下さい。ママは1年間でリオがアテネオ(セブにリオの通っていた学校)に戻れるように準備してリオを迎えにくると約束しました。リオは1年間、日本に留学したと思って日本語をしっかり勉強しなさいと、、、

そして、2017年6月、リオの誕生日を終えて、リオと離れてひとりフィリピンセブ島に戻ったのです。

リオの日本

リオが生まれてから、私たち親子は生活も仕事の時も常に一緒でした。離れ離れに暮らすことは、私達にとって初めての経験だったのです。

 

私がセブ島に立ってから、リオは1日も休まず学校に行くようになりました。

リオの通う日本の公立小学校は、少人数のクラスで成り立っている田舎の学校です。

80才近い父親と学校の先生達と連携してリオの日本語サポートが行われました。放課後には、教頭先生がリオのために漢字の個別授業を行ってくれました。そして、先生達は、リオのテストやプリント全ての漢字にひらがなをつけてくれたのです。リオが6年生になるまでの1年間以上もです。

両親や小学校の先生達の温かい大きなサポートのおかげもあり、段々と彼は自信を取り戻すことが出来ました。友達も多く出来ました。

そして、2018年4月リオは中学生となったのです。

私のセブ島

傷つき荒れたリオを、ひとり日本に置いて来た当初、毎日、毎日考えるのはリオの事ばかりでした。そして、私には1年間しか時間がないと言う焦りでいっぱいでした。東進ハイスクール元カリスマ講師達への告訴とリオをセブ島に戻すたの資金作りから始めました。自宅や車等の資産を資金に変えることから開始したのです。

特に、資金調達に時間を費やしてしまったのです。あっという間にリオとの約束の1年は来てしまいました。東進ハイスクール元カリスマ講師達への刑事告訴の目処が付いた頃でした。

2018年6月、リオとの1年の約束の時、日本に帰国しました。

約束の時

2018年6月、日本に帰国。リオは私がセブに渡った時とは違う生き生きした顔をしていました。

そして、中間テストの結果を私に自慢げに見せたのです。5科目の総合360点、平均点より少し高い点数でした。国語が20点だった事を考えると他の教科は、まずまず着いていけるようになったのです。

小学校5年生で、日本の学校に転校した時点では、ひらがな、カタカナくらいしかない日本語力だった事を考えると彼なりに、かなり努力したと言うことが伝わってきました。

また、野球部の先生を慕って野球部に入ったとユニフォームを見せてくれました。

彼は言いました。“ママ、日本もええで。ママ、フィリピンなんか危ないから日本に帰ってきたらいい。日本で一緒に住もうよ” と、、、

嬉しいやら、悲しいやら、、、やっぱり、嬉しい気持ちになりました。

そして、リオの頑張ったご褒美と誕生日のプレゼントに、リオから再三お願いされていたauの携帯電話をプレゼントしたのです。

そのことが、後に大きな問題となったのです。

リオに、もう少しだけ待って、、、とお願いし、私はセブ島に戻りました。

フィリピンの子供達と日本の子供達

セブでのリオは、多くの友達がいました。高級下の住宅地にあった私達の家には多くの子供達が集まっていました。小学校低学年から高校生まで年齢も様々なお友達が集まりました。殆どの子供達はスマートフォンの携帯を持っていました。しかし、彼らにとってのスマートフォンは、両親や友どちとの連絡手段や調べ物をする手段しかなかったのです。子供達同士で遊ぶ時には、プールや公園、自宅でお話をするのです。

日本では、フィリピンで購入したスマートフォンは自宅のwifiを使って、ママとの連絡手段や、リオにとって母国語となっていた英語での映画等を見る為に使っていたのです。

リオが6年生になったばかりの時、ゲーム機を買って欲しいと私に連絡が入りました。彼曰く、ゲーム機がなければ友どちと遊べないと言うのです。みんなで集まった時に、みんなゲーム機をコネクションして遊んでいる。僕はいつも見ているだけと言うのです。

ゲーム機がなければ、お友達と遊べないなんて、、、そんなバカな事あるはずがありません。“あなたにはスマートフォンがあるでしょう”と返信したのです。

すると、みんなスマートフォンを持っていないから、僕ひとりしか遊べないと言うのです。

8年間、セブ島で生活していた私には日本の小学生事情はわかりません。

“友達と遊ぶのにスマートフォンもゲーム機もいらないでしょう” と却下したのです。

 

そして、中学1年生になったリオは言いました。

みんな、日本のスマートフォンの携帯を持っているから、誕生日に買ってと。

 

現在、私はフィリピンの田舎町に住んでいます。

私の自宅には田舎に住むの多くの子供達が集まります。彼らの自宅にはテレビもガスコンロさえもありません。しかし、彼らは、一家に一台のスマートフォンを持っているのです。WIFIは、町役場で開放されています。子供達は、家の農家や漁業のお手伝いをしながら、時間を作っては町役場で、インターネットと英語を使って多くの情報を手に入れ勉強するのです。将来、家族の家計を助ける為に勉強するのです。

そんなフィリピンの子供達を見ていた事もあり、auスマートフォンをリオに誕生日プレゼントしたのです。

どうなる日本の子供達

2018年10月、つい最近、東進ハイスクール元カリスマ講師達の起訴が決定し、ひと段落付いたこともあり日本に帰国しました。

私は、帰国と同時に両親から苦情を聞かされる事になったのです。

リオは、学校や塾から帰ってきて殆どの時間をスマートフォンを見て過ごしている、、、そのせいで成績も落ちてきたと言うのです。

リオの幼稚園時代のママ友たちと集まりました。リオの同級生5人の子供達も一緒です。ママ達がお話をしている間、子供達はそれぞれスマートフォンを見ているのです。そして、面白い動画を見つけるとその情報を交換するのです。子供達の会話はスマートフォンを通してなのです。子供たちは、みんな下を向いてスマートフォンを見ているのです。それも何時間もです。

レストランでも、同世代の他の子供達の間でも同じ光景が見られるのです。

 

日本事情に疎い私はびっくりです。

ママ友に “これ普通なの?” と聞きました。

ママ友によると、今の子供達の普通だと言うのです。

ママ友たちも子供達のスマホ依存症に手を焼いているとの事でした。

あるママは、夜10時になるとスマホを取り上げるようです。しかし、夜中まで永遠にラインの着信音は鳴っているとの事でした。

リオのスマートフォンのラインの着信音も、夜中まで鳴っているのです。

 

ママ友たちによると、子供達はラインで多くのグループを作っているのです。

友達のグループ、クラブのグループ、塾のグループ等、様々なグループ会話をするのです。

グループの子の中には、母親におやすみなさいと自分のお部屋に入って隠れてずっとラインをしていると言うのです。その為、夜中までラインの着信音がなると言うのです。

ママ達によると、子供達はスマホで連絡を取り合っているのでスマホがなければ遊びのお誘いもなくなると言うのです。

現に子供達の間で “あいつスマホ持ってないから面白くないから誘わんとこ” と言う会話がなされていると言うのです。

 

私の小さな世界の中だけかも知れませんが、、、

何かが間違ってると考えるのは私だけでしょうか?

さて、どうしたらいいものか、、、真剣に考えないといけません。

フィリピンセブ島 日本人社会の光と闇

(私の狭い世界の中での小さな見解)

セブ島の発展と共に変わり行く日本人社会

2011年3月、私は当時4歳の息子と共にフィリピンセブ島に親子移住してきました。そして、2012年8月に語学学校BAYSIDE ENGLISH CEBUを設立、2016年1月17日までの5年間、会社経営に携わってきました。

息子は2016年12月に彼の安全のために、先立って日本へ帰国しましたが、私は現在も尚セブ島の田舎町で暮らしています。

すでに私がセブ島で生活して8年以上が経過しています。

 

この8年間で、セブ島は大きく変わりました。

現在、フィリピン経済の成長に伴い、自家用車を持つ人が増え道路は渋滞しています。8年前、私たち親子がが住むマクタン島から、30分ほど車を走らせると、セブ市街まで出ることができました。今では2時間もかかってしまいます。

ローカルだったマクタン島にも、おしゃれなショッピングモールやレストランが立ち並び、あちこちでビルの建設が行われています。

 

2011年当時、セブ島に在住するほとんどの外国人は韓国人でありました。そして、中高齢の方を中心に少数の日本人がセブ島に在住していました。

当時4歳の息子は日本人の生活を守るコミュニティである日本人会が運営する日本人補習校に日本語の勉強の為に通っていました。

毎週土曜日、私達が住むマクタン島から、30分程、車を走らせてセブ市街に位置する日本補習校に息子を送り届け、息子が授業を受けている間、そのビルの1階にあったマニラ新聞社が経営する喫茶店でネット上での仕事をしながら時間を潰すことが、その当時の週末の私の日課でした。

当時、セブ日本人補習校の同じ敷地内にセブ日本人会が併設されていました。いつも、お昼時になると、日本会の役員や職員達がマニラ新聞内の喫茶店に集まっていました。

私は、聞き耳を立てていたわけではありませんが、小さな喫茶店内で彼らの話は私の耳に入ってきます。

若い奥様のお惚気話、家族の幸せ話、セブ島でのニュース等の話など、まるで老人ホームでの会話のような、耳に入る彼らのホンノリした会話内容にホッコリしていたのを思い出します。

時には、毎週末、喫茶店で顔を合わせる私に、セブ島に何十年も暮らしている前日本人会会長や役員の方より、セブで暮らすための助言をいただいたりすることもありました。

当時の私にとってのセブ日本人会とは、小さい街のコミュニティを感じる暖かい空間であったのです。

 

2013年頃より、格安でマンツーマン英語授業が得られるセブ島語学学校の日本ブームや、IT企業などの多くの日系企業のフィリピンセブ島参入が始まったのです。

その頃より、フィリピンセブ島の小さなコミュニティであった日本人社会は大きく変わっていきました。

小さなコミュニティの中の、小さなセブ島の窓口である日本人会、そしてセブ島の小さなコミュティ雑誌の窓口に、日本からフィリピンセブ島でビジネス参入を計画するビジネスマン達が殺到するのです。

すなわち、突然、多くのビジネス案件が、ローカルセブの小さな窓口に殺到するのです。

そして次第に、ホッコリした老人会のような日本人会は、ビジネスマン達によって運営されるようになって行ったのです。また、もう一つの小さな窓口であったコミュニティ雑誌と共に大きな勢力に変わって行ったのです。

更に日本から新規参入してきたビジネスマン達は、その大きな勢力の一員となろうと、ビジネスの繋がりを求めてその勢力に群がって行くのです。

次第にその勢力は拡大し、フィリピンセブ島に住む日本人達とって、最大権力をもつグループへと成長していったのです。

素晴らしい日本のビジネスマン達によって運営される日本人会は、セブ島での日本人会主催の盆踊り大会でも伺えるように、3万人以上の日本人観光客を呼び込み、そして、成功を収めるほどまでの力を発揮するのです。

 

発展するセブ島日本人社会に潜む闇

セブ島最大勢力の拡大と共に、セブ島に暮らす日本人達にとって、フィリピン最大勢力を支配する権力を持つ者の存在も言葉も大きな力を持つものになって行くのです。

フィリピンセブ島の日本人社会での情報は軽いです。情報の信憑生や根拠、証拠を確認することもなく、権力の持つ者から発信される情報のみを信じ、その情報に皆が流れるという傾向が現れるのです。

そして、権力のあるものは神様のように称えられるのです。

 

それは、日本でも同じことが言えるかもしれません。

しかしながら、日本では多くの権力のある人(著名人)から、多くの情報が発信されます。 どの人から発信される、どの情報を信じるのか選択し判断することができるのです。

フィリピンセブ島という小さなコミュニティの中では、巨大な一大勢力しかないのです。

そして、小さなコミュニティの中での日本人対象にしたビジネスは、それぞれ繋がりあっているのです。

セブ島でビジネスを展開する日本人たちは、生活の為にも、彼らのビジネスを守らなくてはいけません。その為には、有権者とは違う意見があっても、大きな声を出して言う事ができない環境が作られていったのです。

大きな勢力から干されないように、言動に注意をしながら暮らしていくのです。

 

まるで、剛健政治のように…

 

セブ日本人会に求める事

セブ日本人会主催により、毎年、素晴らしい盆踊り大会が開催されます。

私は、参加した事はありませんが、3万人以上の観客を集める盛大な夏祭りです。

セブ日本人会の役員であった、東進ハイスクール元カリスマ講師より、その盆踊りの度に一口5万ペソ(約12万円)の寄付をするように毎年勧められていました。

東進ハイスクール元カリスマ講師によると、“セブで生きていく為には、セブの日本人のつながりは大切である” とのことでした。

セブに住む日本人と全く接点がなかった、私もセブのしがらみの為に、セブで干されないために寄付をしていました。

また、セブ日本人会役員であるという事は、東進ハイスクール元カリスマ講師の権力を増強させ、そして、それは私への脅迫にも使われました。

刑事告訴状に対しての、東進ハイスクール元カリスマ講師の反論陳述書にも、セブ日本人会の名前は記されています。

 

セブ日本人会の役員である事をアピールする事が、検察が起訴、不起訴を決定するにあたり、どういう影響があるのか?どういう意味があるのか?私にはわかりません。

 

いったい日本人会とは何なのでしょう?

 

日本人会 – Wikipedia

日本人会(にほんじんかい)とは、世界(日本国外)に長期在住する日本人の交流会である“

 

今後、更にセブ島は発展して行くでしょう。

セブ島に移住する日本人の人口も増加するでしょう。

セブ日本人会が、セブ島で暮らす日本人にとって、安心できる自由に意見を発言できる交流の場になって欲しいものです。

 

いい人、悪い人、普通の人

最近、誰かが私にそっと教えてくれました。

フィリピンセブ島の日本人は、いい人10%、悪い人50%、普通の人40%だと。

私は、確かにその通りだと思いました。

 

そして私は、日本に住む日本人で例えると、

いい人50%、悪い人10%、普通の人40%だと思いました。

私の認識での、いい人、悪い人、普通の人は…

 

いい人: 自己の持つ価値観と道徳に従って表現、行動ができる人。

普通の人:自己の生活に被害がないように、自己の価値観や道徳と違っても上手く渡っていく人、または、利害関係社会に繋がらない人。

悪い人:利害関係のみで動く人。

悪い人の中には、犯罪に関連した極悪人も数%含まれます。それは特殊な人でしょう。

フィリピン人を卑下する日本人

 

私は、普通の人です。

私は、利害関係で繋がった日本人社会の中に極力入り込むことを避けました。

その理由のひとつは、私はフィリピン人社会の中で、フィリピン人達と語学学校を設立し育てあげてきました。私たちのビジネスの顧客は、日本、韓国、台湾等の外国であり、フィリピンセブ島に住む日本人の利害関係と繋がる事に必要性を感じなかった為であります。

そして、一番の大きな理由として、私自身に権力を持つ者に媚を売り、上手く立ち回るノウハウや、滑舌にビジネストークをする能力も自信もなかったからです。

それでも、セブでの日本人社会との唯一のつながりであった(元友人と思っていた)東進ハイスクール元カリスマ講師や、セブ島にて営業する同業者や関係者達と時間を共にしなければいけない機会が幾度かありました。

しかしながら、悲しいかな、彼らとの会話からは、私にとって何も得られるものはなかったのです。

自己のビジネス自慢と派手な売り込み、フィリピン人に対しては、頭が悪い、手癖が悪い、仕事が遅い、自己中心的だ、育ちが悪いと散々バカにして、あたかも上から見下げた視点での話しかないのです。

東進ハイスクール元カリスマ講師は、フィリピン人を犬と表現しました。また、セブ島に住む日本人の中には、ブログやFBなどの公開される場所にてまでも、フィリピン人を猿と表現した投稿も目にします。

SNS大国フィリピンでは、翻訳機能を使ってフィリピン人達はちゃんと見ています。私の日本語のブログも読んで、適切なコメントやアドバイスをくれているのです。

彼らを卑下する日本人の態度や言動に、地元人から見る日本人のイメージは地に落ちて行くのです。そして、彼らからの信頼を失って行くのです。

フィリピンという国で、フィリピン人を卑下する前に、フィリピン人が信じられないと愚痴こぼす前に、あなた達のフィリピン人に対する考え方や見方をまず、考え直すべきではないでしょうか?

そうすると、彼らとの距離も必然的に近くなって来るでしょう。信頼関係が生まれて来るでしょう。

私が、5年間フィリピンでフィリピン人達と仕事をした中で、フィリピン人職員に騙された経験は一度もないのです。

最終的には、私は信用していた日本人に裏切られ全てを失い、フィリピン人職員達までをも不幸にさせてしまいました。

しかし、それでも、私を立ち上がらせてくれたのはフィリピン人達です。今、私が闘えるのもフィリピン人達が支えてくれているからなのです。

そういうフィリピン人達は、意外にも何の報酬を求めないのです。

 

セブ島日本人社会の新たな出会い

私は、フィリピン語学学校経営者という立場でセブ島でビジネスを展開するビジネスマン達との関係の中、利害関係でつなるセブ島の日本人とあえて繋がる必要はないという判断をしました。

そして、予想通りに利害関係のみで繋がったセブ島のビジネスマン達や、利害関係で近づいて来ていた人たちは、私のセブ島でのビジネス社会撤退と共に離れて行きました。

ところが、全て何もなくなった裸同然になった私に、仕事上であまり良い関係ではなかった方や、意外な方からの励ましやアドバイスに、今まで全く気づかなかった人の優しさや思いやりに気づくことも多いあったのです。

また、私はこの事件を多くの人に知ってもらうために、セブ島に住む日本人の皆さまや日本の教育関係の方々にfbにて友達申請させていただきました。

そして、私のブログを読んでいただいた多くの方々より、多くの心温まる励ましのメッセージやアドバイスを頂きました。

セブ島に住む日本人の方の中に、私とよく似た価値観を持っていた人達とも出会う事ができました。もっと、以前からこういう人たちと繋がっていればよかったのにと思うばかりです。

何もなくなった時にこそ、人の本当の心、暖かさも冷たさも見えるものなのですね。

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フィリピンビジネス光と闇:詐欺師が横行するセブ島

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36. リオのセブ島

リオのセブ島

約8年前息子リオが4歳の時に、リオと私はセブ島に移住してきました。

彼の4歳から11歳までの7年間の成長も生活も夢もセブ島にあったのです。

彼はセブの彼の社会の中で輝いていました。

リオは、アテネオと言う名のフィリピン人社会の中では、有名私立学校に通っていました。

有名だからリオを通わせたのではなく、リオと私が暮らす住宅街の子供達の多くがアテネオに通っていました。友達と同じ学校に行きたいとのことからであります。

セキュリティの整った住宅街に住み有名校に通うことができる子供達は上流階級の子供達もしくは外国人であります。

何の根拠を持って上流階級というのか一般階級というのかははよくわかりませんが、私の中では月収2万円から5万円のBAYSIDE ENGLISH CEBUの大学を卒業した講師たちの家庭が一般階級と位置付けています。

そして、月収30万円以上、セキュリティの整ったビレッジに住み子供を有名私立学校に通わせることができる家庭を上流階級と位置付けているのです。

上流階級のごく一握りに富裕層がいます。富裕層の家庭は日本のお金持ちとは桁が違う豪華な暮らしをしているのです。

リオにとって、住宅街(ビレッジ)やアテネオは居心地は良かったのです。

それは、言語にもあります。フィリピンには、80以上の言語があります。地域によって言語が違うのです。例えば、マニラではタガログ語が話され、セブではビサヤ語が話されているのです。

以前、リオが通っていた学校Regent Pacific Collegeには地域の子供達が通っていました。授業は英語で行われます。しかし、子供達は現地語を使う方が意思表示しやすく楽なのです。

休み時間には現地語で話すのです。リオも現地ビサヤ語は話せるも堪能ではないのです。

英語の方が彼にとって楽でした。

有名私立学校には、フィリピン各所からの学生が在籍しています。

父親の転勤でマニラからセブに移り住んだ子供も多いのです。そして、ヨーロッパ人、アメリカ人、韓国人を中心とした外国人も多いのです。

そして富裕層の家庭では、英語が彼らの言語になっているのです。

富裕層の子供達の中には、現地語がわからない子供も多くなってきています。

その為、必然的にビレッジや、有名私立学校での全ての会話は英語となるのです。

それは、外国人学生にとって居心地が良い環境であるのです。

 

余談ではありますが、マニラやセブ等の都市部を中心に英語が共用語になっている中で、特に富裕層をの子供達の中で、母国語を知らない子が増えています。

その事に、フィリピン文化や母国語文化が退化するのではないかと危機感を持ったフィリピン教育省(DepED)は、2015年導入開始したK12のカリュキュラムに母国語の授業を必須科目として導入したのです。母国語の授業とは、英語でもなくタガログ語でもない、地域の言語です。セブではビサヤ語となります。それくらい、現在フィリピンの富裕層の間では英語が母国語になりつつあるのです。

K12というのは、日本の6−3−3年制度のようなものであります。フィリピンでは小学校から高校までの過程が10年間でありました。しかし2015年より、日本やアメリカと同じように12年間となったのです。

 

リオには、学校でも住宅街でも国籍関係なしに多くの友達がいました。

週末には多くの子供達が自宅に集りました。リオと子供達のために料理を作ること、そして、子供達と庭でバーベーキューをすることが私にとっての唯一の楽しみであったのです。

リオは私と似て、家族で学校等の彼の世界のことはあまり話さないのです。彼らの会話を聞いてることで、リオの学校生活や思考をイメージし微笑ましい気持ちになれるのです。

生まれて4年しか経験のない日本文化であってもリオにとっての日本は母国であり、また憧れの国でもあったのです。

何かとつけて日本の事を自慢するのです。

セブには、電車がない。日本に電車が走っている事でさえ彼にとって自慢であったのです。

知ってる?日本にはどこ行くにも電車で行けるんだよ。それも道路の下に走ってるだよ。と自慢するのです。

すると、スエーデン人の友人ジミーが、スエーデンにも地下鉄はあると自慢します。

そこからはインターネットで、みんなで色々な国の電車の検索が始まるのです。

 

特に、ドイツ人のマークとマイケル兄弟は、家族のように、週末にはどちらかの家に泊まり行動を共にしていました。

彼らの父は、彼らの母親と離婚し、フィリピンで父親ひとりで彼らを育てていました。

もちろん、子供達の世話をするシッターさんやヘルパーさんはいます。そして、ガールフレンドも。

彼らのホテルのような豪邸には、そこには大きなプールがあります。リオはプールで彼らと遊ぶ事を楽しみに週末には彼らの家に泊まりに行くのです。そして、彼らの父親が仕事でドイツに帰国する際は、彼らは私たちの家に泊まりに来ていました。

子供の教育や進学の事で彼らの父親とよく話をしました。

マクタン島には、マクタンニュータウンという大きなコンドミニアムがあります。一つの小さな町のようになっているのです。

2017年に、そのコンドミニアム街にラサールという有名校の開校が予定されていました。

彼は、コンドミニアムを3ユニット購入しました。彼によるとコンドミニアムを購入するとラサールに入学しやすくなるらしいのです。

そして、2017年の6月、彼のコンドミニアム購入名義を使って、リオ、マーク、マイケルの3人を入学させる計画を彼らの父親と立てていました。

マクタン島の自宅からセブ市街アテネオまで、朝の渋滞時間には2時間以上かかるのです。スクールバスの送迎はあるものの往復5時間ほどかけて通っていたのです。

同じように英語が主要言語で話せる学校が近くに開校すれば、それに越したことはないのです。

子供達も楽しみにしていました。

フィリピンの富裕層やフィリピンに住む外国人の多くは、子供達を高校もしくは大学よりアメリカ、イギリス等の海外の学校に入学させるのです。

ドイツ人のマーク、マイケルも、スエーデン人のジミーの両親も海外の学校への進学を考えていました。

子供達の間でもそのことは話されます。

どこの国がいいとか悪いとかの会話で子供達は盛り上がっていたのです。

リオの将来はリオが決めるでしょう。

しかし、彼らと同じように海外の学校に行きたいと決めた時のために準備しておかないといけません。

 

そして、リオを一人でアメリカなどに心配で到底出せません。

BAYSIDE ENGLISH CEBUの建設作業員や家具職人の雇用を行うセブの田舎町アレグレアより、14歳の男の子を引き取って世話をすることを決めました。

リオには兄弟がいません。

リオのお兄ちゃんとしてリオを守って欲しいからです。

名前はカイル。生活と私立学校の学費の援助、そしてリオと一緒に家庭教師をつけるのです。

カイルには、大学を出るまで援助をします。

そして、リオがアメリカやイギリスの学校に入学することになれば、リオと共に海外留学しリオを守ってほしいとお願いしていました。

フィリピンの田舎では、ほとんどが高校までの学歴なのです。それは、経済的な状況が大きいのです。高校卒業後、大工や工事作業員もしくは、農家の仕事に就き家計を支えるのです。

カイルにとっても、私の提案は彼の将来にとって大きなチャンスでもありました。

2017年2月、私が東進ハイスクール元カリスマ講師 山中博にフィリピンを追放されるまでの2年間カイルは必死で勉強しました。

リオの数倍も勉強していました。リオが眠った後から朝方まで勉強していた事を私は知っています。

カイルも、将来に大きな夢を抱いていたのです。

また、彼はリオにとっても、最も信頼出来るお兄ちゃんとなっていきました。リオは眠る時は私もしくは彼の信用する人の耳を触りながら眠りにつくのです。その一つの耳はカイルでした。

 

2016年、10月からのBAYSIDE ENGLISH CEBUの多くの出来事による私の不安はリオにすぐに伝りました。

そして、12月始めより、東進ハイスクール元カリスマ講師 山中博と彼の率いる松井元輝、土原弘人によるリオの将来や命を脅かす脅迫が繰り返されました。

私の恐怖に怯えて潰れていく精神状態にリオはどうしたらいいのか不安だったに違いありません。

その頃から、リオは部屋に閉じこもるようになったのです。以前のような万遍の笑みを見せなくなりました。

そして、一人部屋に閉じこもり携帯でゲームばかりするようになったのです。

私にはわかります。

彼は不安の気持ちの持って行く場所がわからなかったのです。ゲームに集中することで不安な気持ちを回避していたのです。

2016年12月末には、東進ハイスクール元カリスマ講師 山中博と松井元輝はBAYSIDE ENGLSISH CEBU のフィリピン人職員を集め、私にBAYSIDE ENGLISH CEBUは倒産した発表させ、新経営者として東進ハイスクール元カリスマ講師 山中博が名乗りを上げました。

この時、私はリオにBAYSIDEは、ママではなくヒロがオーナーになったと告げました。

リオもBAYSIDE ENGLISH CEBUと共に歩んできたのです。

リオは泣きました。

そして、それからお部屋のクーラーをつけなくなったのです。

彼なりに節約を考えたのかもしれません。

 

私の頭の中にはリオの将来は潰される。私は生きていけないという思いと、リオだけは守らなければという思いでいっぱいでした。

 

リオの学校が冬休みに入ってすぐにリオを一人で日本に帰国させたのです。

この時、私はリオと会うのは最後になるかもしれないと思っていました。

 

リオを日本に送った時より私の精神はすごいスピードで壊れていったのです。

そして、日本でひとりリオも私と同じように荒れていったのです。

 

現在、私はリオに輝きを取り戻すために、東進ハイスクール元カリスマ講師 山中博と戦うためにリオと離れて一人フィリピンの田舎町で暮らしています。

リオと離れてすでに半年以上が経過しました。

私の考える事は、毎日、毎日、リオの事しかありません。

私は、必ず東進ハイスクール元カリスマ講師 山中博を法的、社会的に打ち倒し、リオと私が安全な状況を作り経済的に自立しリオを迎えに行ける状況を作ります。

もちろん、リオの人生の決定権は常にリオにあります。リオの意思が最優先であります。

ただ、リオの輝いていたセブ島での7年間を恐怖で封印させたくありません。彼の人生に7年間の空白は絶対に作らせる事はできません。

リオ、あなたがいるからママは頑張れるのです。

リオ、あなたは何も重みに感じる事はありません。

あなたのためだけではないのです。

あなたがいる事によって、ママが立ち上がる事ができるのです、歩く事ができるのです。あなたが生き甲斐となっているのです。

寂しい思いをさせてごめんね。

 


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37.フィリピン医療現場の真実


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54. 再起をかけた闘い

極悪東進ハイスクール元カリスマ講師山中博との闘いと再起の準備

私が、外界からかけ離れた山奥での生活をしている間に、セブ市街では、BAYSIDE ENGLISH CEBU創立以来から経営を支えてくれた元フィリピン人職員たちは、邪悪な東進ハイスクール元カリスマ講師 山中博と、山中博に魅せられる金と名声に狂った愚かな若者 松井元輝、土原裕人を刑事告訴するための告訴状の作成等の準備、そして戦いと再起のための資金調達に動いてくれました。

 

また、ボディガードのドイは、アレグレアの町長(元市長)と、大工達と連携し、私が購入したビーチ沿いの土地建設と建設手続きに当たりました。

 

ドイが建設の指揮を取るのは、すでに5回目となります。

2013年、BAYSIDE ENGLISH CEBU  プレミアムキャンパスの改装と学生寮、そして、2016年にはプレミアムキャンパス海辺の新学生寮。そして、私達が購入した土地の学校建設をの新学校の建設指揮も彼がとったのです。

また、彼は、2005年に開校したBAYSIDE ENGLISH CEBU  の基となるRegent Pacific College の建設の指揮もとっていたのです。

知識もコネクションも豊富なのです。

建物は全て、アレグレアの山の木を使って建てる事にしました。そして、アレグレアのマンパワーを使うのです。

 

ドイの祖母は、多くの山の土地を持っています。

足を切断しなくてよくなったお礼に山の木をプレゼントしてくれたのです。

参照:フィリピン医療の真実

 

そして、私もドイの祖母より山をひとつ購入しました。山奥の土地は約1000坪の土地が10万ペソ、約22万円で購入できるのです。

彼らは、土地や山からの恵は多くありますが現金がないのです。そして、彼らの自然の恵豊かな生活には多くの現金を必要としないのです。

 

RIO BEACH CLUBの建設

 

木を切る道具、トラックのレンタル、タイルとセメントと大工さん達の給与以外の支出はほどんどなくドイの祖母の山と私が購入した山の材料を使って建物が立っていくのです。

Rio Beach Club です。

リオと約束しました。

1年間で、ママは自立してリオを迎えにいくと。

 

トイレ、シャワールームと家の屋根が完成した時点で私は、山を降りビーチ沿いの建設中の Rio Beach Club に移り住みました。

そして、戦いと再起のための資金が調達できた状態となった時点で本格的に現場で私がデザイン等の指揮を取り工事が開始したのです。

 

私たちの合言葉はリオ

今から8年前、息子リオが4歳の時に私たち親子は、BAYSIDE ENGLISH CEBUの基盤となる韓国系語学学校Regent Pacific College に親子留学としてセブに出会いました。そして、2012年リオが7歳になる時にフィリピン、セブ島に移住、BAYSIDE ENGLISH CEBUを開校。 創立時からBAYSIDE ENGLISH CEBUの経営を支えてくれた彼らは、BAYSIDE ENGLISH CEBUと共に成長していくリオと共に過ごしたのです。

私たちの中では「リオのため」と言うのが合言葉になっています。私たちの考える事は、リオを迎え入れる事、リオの輝きを取り戻す事だけなのです。

私たちが、脅迫される事も、攻撃される事もなく安全に生活できるように、邪悪な東進ハイスクール元カリスマ講師 山中博と彼の駒である愚かな日本人 松井元輝、土原裕人を法的、社会的に成敗するのです。そして、彼らが奪った私とリオの、そして両親のお金を返してもらいます。

2017年2月9日、東進ハイスクール元カリスマ講師 山中博と彼らの駒である松井元輝、土原裕人の脅迫により日本に帰国した際に、リオと私が飼っていた4匹の犬達はフィリピン人の家庭に譲ってしまいました。

BAYSIDE ENGLISH CEBUを支えてくれた彼らは、リオが帰ってきた時に、犬達がいなくては寂しいだろうと、犬を譲った家を一軒一軒周り、謝罪とお願いをし、3匹の犬を返してもらったのです。

 

工事は着々と進んで行きました。

リオを迎える準備もです。

東進ハイスクール元カリスマ講師 山中博と彼に洗脳された愚かな若者 松井元輝と土原弘人を法的、社会的に成敗する準備もです。

戦いは長くなるでしょう。調達した資金はいずれ底をつく事になるでしょう。戦いに備えて、フィリピンでの継続した収入が必要になってくるのです。

そして、敵はセブの日本人社会での有権者であります。

フィリピン、セブ島の日本人社会の中は私たち親子にとって危険なのであります。

セブの日本人社会とかけ離れて行う事ができるビジネスが必要なのです。

 

 

Rio Beach Club  は、闘いの資金調達だけのではなく、私のフィリピンでの再起を掛けたビジネスなのです。

そして、リオが封印してしまった7年間の彼が輝いていたセブ島での思い出を輝かしいものにするための再起でもあります。

語学学校 BAYSIDE ENGLISH CEBUと比べると、現地フィリピン人やダイビング観光客のヨーロッパ人を対象にした小さなローカルなビジネスであります。

それは、私にはちょうどいい規模なのです。

最愛の息子リオを迎え入れ、暖かいフィリピンで、暖かい地元の人達と大切にビジネスを育てていくのです。

 

私の闘いは、これから始まります。

これからは、現在進行形の記録となるでしょう。



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55. 卑劣な詐欺師東進ハイスクール元カリスマ講師への刑事告訴確定


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11. フィリピン親子移住:ドマゲッティでの生活 Part 1

約8年前、2011年、3歳の息子リオ(ニックネーム)と私の親子二人での新天地としてフィリピンへの移住

ドマゲッティでの生活 Part 1

ブラックアメリカン家族との生活

2010年夏のセブ親子留学で、ブラックアメリカンドミニクに私とリオのドマゲッティ移住のための環境作りとシリマン大学付属小学校の入学準備を依頼しました。

その後、日本に帰国後も2011年3月セブ マクタン島の語学学校Regent Pacific College(RPC)滞在中にもドミニクとは、SKYPE で連絡を取り合いました。

セブ滞在中には状況確認のためセブ島より飛行機で25分、私とリオは何度かドマゲッティを訪問しました。

 

ドミニクと私の契約は、

  1. 私たちの生活の世話(安全確保、掃除、洗濯、食事)
  2. シリマン大学付属小学校までの送迎と各種手続き
  3. リオの学校の時間帯に2−3時間私の英語個人レッスン
  4. 学校よりの帰宅後の子供達の学習(リオとドミニクの息子ジャジャの宿題と予習の授業)
  5. 1〜4 1ヶ月60,000php(約12万円)そして、住居に必要な家具等の資金は送金する
  6. また、リオとリオと同じ年のドミニクの息子ジャジャのシリマン大学付属小学校の学費は私が支払う

日本の金銭感覚で考えると、ネイティブ講師によるマンツーマン英語授業、その上、すべての生活も含めたったの12万円なんて、考えられないくらいの格安であります。

しかし、当時、韓国資本の語学学校がほとんどであったフィリピンセブ留学では、セキュリティが整い3食、食事、掃除、洗濯、その上1日6時間のマンツーマン授業の1は月間の学費が10万円未満と言う語学学校はざらにあったのです。現在は日本人の増加に伴い日本資本語学学校の進出で価格は上昇しています。

個人ビジネスで、それもセブよりさらに物価の安いネグロス島ドマゲッティの金銭感覚では、十分すぎるくらいでありました。

当時、有名校シリマン大学付属小学校の授業費は、1ヶ月たったの1万円弱でした。

私とドミニクの契約は、日本人金銭感覚である私もフィリピン人金銭感覚であるブラックアメリカン講師ドミニクも満足するものでありました。

2011年6月初め、リオと私はドマゲッティ、実際には、ドマゲッティより20分ほど離れたドマゲッティの隣町セブランと言う港と海岸の町に移住しました。

ドミニクは、その町の住宅地に小さくも新築で可愛い家を準備してくれいました。ドミニクの自宅から徒歩1分もかからなところでした。

 

ドマゲッティでの生活 Part 1

 

 

家の中には、小さなテーブルとマットレスのみが設置されていました。

 

エアコンも扇風機もない。ドマゲッティは、予想以上に暑かったのです。セブより暑かったのです。

 

ドミニクの奥さんは、私たちが到着する1週間ほど前に第3子を出産したばかりでした。生活必需品の購入のために私がセブから送金した資金は、出産費用と食べるためにつかってしまったと、奥さんは涙をためて謝りました。

 

私とリオの自宅から徒歩30秒くらい離れたドミニクの家もそうでした。大きなリビングルームに小さなテーブルとベットルームがあるだけでした。エアコンも冷蔵庫もない。そして、その空間にドミニクと妻3人の子供達、そして妻の親戚の子供達15人くらいで生活していました。

ドミニクのみがテーブルでフォークとナイフを使用して食事を取っていました。他の家族たちは好きな床にバラバラにヤンキー坐りをして、一つのお皿にご飯もおかずもスープもごちゃまぜにして手をつかって食べていたのです。

 

フィリピンで生活して8年目となる今の私であれば、これがごく一般の中流家庭の家族形態であり食事風景であると理解できたでしょう。

 

しかし、日本から移住してきたばかりの私には、かなりのカルチャーショックでした。セブでもドマゲッティでも、白人が大勢のフィリピン人の家族を連れているのをレストランでよく見かけます。同じです。ドミニクは、貧困層のフィリピン人女性と結婚し、フィリピン人大家族を養っているのでありました。

現在、私はセブの田舎でフィリピン人たちと暮らしています。そのには、この時のドミニク家とよく似た風景があります。私のみ、自分で料理した一人分の料理をテーブルでお箸をつかって食べています。フィリピン人たちは、彼ら独自の料理を、ドミニクの家族と同じように好きな場所に座って、ごちゃまぜご飯を手で食べているのです。

 

そんな、私のカルチャーショックをよそに、リオは同じ年のドミニクの長男ジャジャとすぐに意気投合しました。また、他のお兄ちゃんたちも底抜けに明るいのです。リオはすぐに仲間に入っていきました。

案の定、シリマン大学付属小学校の入学手続きもしていませせんでした。その代わり、自宅より徒歩3分範囲にある住宅地の中にある私立小学校の入学手続きをしてくれていました。

私たちが住むドマゲッティの隣町セブランから、シリマン大学まで車で20分かかります。車もありません。ドミニクがバイクで毎日送迎するとなると毎日心配で落ち着いて生活できなかったでしょう。

私の目の届く範囲に学校があるというのは安全面でも安心できます。送金した生活準備資金は、出産祝い金ということにしました。

とりあえず、エアコンのない生活は耐えれません。すぐに、エアコン、カセットコンロ、クーラーボックス…生活必需品を購入し新生活に入っていきました。食事は、私が作ることにしました。手洗いでの洗濯もです。

 

ドマゲッティの隣町セブランの自宅は、バイクで10分、ライスフィールド(田んぼ畑)を通り徒歩30分で砂浜のビーチに行くことができます。

自然豊かでした。しかし、生活するには便利とは言えなかったのです。日本人の私には不便すぎたのです。

 

毎朝、リオとジャジャを徒歩3分の学校に送りとどけ、手洗いで洗濯物をするのです。生後まもない赤ん坊の世話しているドミニクの妻には到底頼めなかったからです。

近くにコインランドリーもありません。ボタンを一回押すのみの全自動洗濯機とはわけが違うのです。手洗いだとリオと私二人だけの衣服でも、外の暑い小さなガレージの洗面台で1時間以上はかかるのです。

洗濯が終わった後、買い物に行きます。ドミニクの家で食事は用意するとは言ってくれましたが、リオに、ごちゃまぜご飯を床で食べさせるわけにはいきません。

自炊することに決めました。

 

ドマゲッティには、ほとんどタクシーがないのです。トラシカルという自転車にサイドカーがついた乗り物に15分くらい乗りメインの道路に出ます。それは、歩いた方が早いくらいの速度です。

とにかく暑い。屋根のあるトラシカルでも死にそうに暑いのだから、炎天下の中を歩いたら熱中症で死んでしまうでしょう。

メイン道路には、夜7時になると閉まるコンビニストアーがありました。コンビニストアーにはエアコンが設置してあります。まずは、そこで涼むのです。

そこから、トラシクルというバイクにサイドカーがついた乗り物に乗り20分でドマゲッティの街の中心部に到着します。そこには、ショッピングモールがあるのです。

しかし、日中の時間帯にドマゲッティまで行くトラシクルを捕まえるのも困難でありました。時には、炎天下の中1時間以上もトラシクルが通るのを道路際で待たないといけなかったのです。

大半、私はメイン道路のコンビニまででギブアップしました。コンビニで、ラーメンや缶詰、卵にパン、ドミニクの家にも私の家にも冷蔵庫がないので、クーラーボックスの氷と氷が溶けるまでに食べきれるお肉、ハム類を購入し自宅に帰るのです。

 

それだけで、もうクタクタです。

 

昼過ぎにはドミニクが子供達を学校に迎えに行き、バイクや自転車で多くの子供達を海や自然の中に連れて行ってくれます。

 

夕方、リオは子供達とドロドロになって遊んで帰ってきます。リオの笑顔が全ての疲れを癒してくれました。

 


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12. フィリピン親子移住:ドマゲッティ繁華街ボリバーでの週末


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24. 劣等感の塊だった私

劣等生

私は、幼い頃から劣等生でした。

 

私は4人兄弟の長女です。私の幼少期から高校生までの学生時代には、ほとんどと言っていいほど女の子の友達はいませんでした。

男の子の友達とばかりと遊んでいました。女の子達はおママごとやお人形で遊日ます。私は男の子達と外で泥々に遊んでいたのです。

 

幼児期の私の宝物は仮面ライダーのベルトと変身セットでした。小学校高学年になると女の子は家庭科の授業、男の子は技術の授業に分かれます。私は、どうしても男友達と大工作業がしたく、先生に頼み技術の授業に入れてもらいました。

母は、教育熱心でした。母曰く、母は幼い頃から美人で優等生でした。そして、エリートの父と結婚したことが母にとって誇りだったのです。

母は、子供たちにピアノに算数教室、そろばん、公文、家庭教師、スイミング…英語以外のあらゆる習い事をさせました。なぜ英語以外かというと母は英語ができなかったからだでしょう。

スイミング以外は、すべて私は落ちぶれていました。

そして、30年前、40年前の小学校、中学校では学校の成績順位は公表されていました。私の成績順位は後ろから数えたほうが断然早かったのです

小学校時代、4人の子供を持つ母親は、授業参観日になると子供達のクラスをハシゴして回らなくてはいけません。

私より2歳下の妹の教室では、母はいつも誇らしかったのです。妹は授業中にはピンっとまっすぐ伸ばした手を挙げ、先生に当てられるとはっきり大きな声で答えるのです。

私にとって、授業参観で母が教室の後ろに立つことが恐怖でした。手を挙げなくては母に叱られる。手を挙げて万が一にも先生に当てられたら答えられない。すると母にもっと恥をかかせることになる。先生に見つからないように工夫しながら小さくそっと手を挙げなければいけません。

そして、ピアノのレッスンほど私にとって苦痛なものはなかったのです。

自宅には大きなグランドピアノがありました。ピアノ教室はピアノの先生を私たちの自宅に招き、そこにレッスンを受けるために子供たちが集まりました。母親たちがお茶や会話を楽しんでいる間にピアノのレッスンが開かれるのです。

私は、ピアノの椅子に座ると回転性のめまいがしました。ピアノの椅子に座ると、ピアノを中心に天井から壁から全てがゆっくり回転するのです。母親がピアノの椅子の横に立とうものなら、回転速度は急速に早くなり目が回るのです。

クラシックピアノは、最初に幼児ピアノから、次にバイエルンというレッスンテキスト、次にソナタかソプラノというテキストに進んでいきます。

ソナタが先だったのか、ソプラノが先だったのか忘れました。そこまで、進んでいないから覚えていないのです。

半年に1回、ピアノの発表会がありました。母親は私と妹をドレスアップさせ発表会に臨むのです。私は、小学校4年生から6年生まで3年間も発表会で同じ曲を弾きました。

作曲者は忘れましたが「アラベスク」という曲、もしくはベートーベン「のエリーゼのために」どちらかです。2曲とも初級であるバイエルンのテキスト曲であります。それも音を外しまくりながら弾くのです。妹は小学校3年生の時には、モーツァルトの「トルコ行進曲」を一つも音を外さず弾くのです。

妹の演奏の後は拍手喝采となります。母親の誇らしい顔で妹を見つめ、そして私を睨むのです。

参観日やピアノの発表会の後には、妹がどのくらい誇らしかったのか父に自慢げに話し、そして私の授業参観やピアノの発表会でどれほど恥ずかしい思いをしたのかも父に話すのです。

ただ、スイミングだけは違いました。週に1回のスイミングスクールと、夏休みの間には、私たちの住む大阪堺にある浜寺水連学校学校という軍隊のような水泳学校に毎日通っていました。

当時、浜寺水連学校は、オリンピックに出るくらいシンクロナイトスイミングが有名でした。私は小学校六年生でスイミングインストラクターの資格習得まで進み、シンクロナイトスイミングのメンバーに選ばれたのです。

妹は幼稚園から小学校を卒業するまで、私と一緒にスイミングスクールも浜寺水連学校にも通っていましたが未だにカナヅチであります。

中学校に入って、部活は水泳部に入りました。中学一年の夏の大会では、私達の住む町の大会ではブレスト競技(平泳ぎ)で私は2位となり表彰台に立ちました。そして、堺の大会では、表彰台には立てなかったが高タイムで予選通過し大阪大会に進んだのです。あいにく大阪大会では予選落ちし全国大会には進むことはできませんでした。

水泳だけが唯一私の誇れるものでありました。

しかし、夏の大会の私の成果に母親は、勉強もできないくせに泳ぎだけできてどうするのと嘆いたのです。

そして、夏の水泳大会が終わった後、私は両親に「私はあなた達の飼い犬ではない」とメモを残して家出をしたのです。

 

ガキ大将

私は、近所のマーケットに、いつもたむろしていた世の中では不良と呼ばれる同級生達とマーケットの駐車場で過ごしました。

その間に、髪の毛にはオキシドールという消毒薬をつけました。オキシドールは髪の毛の色を抜いて茶色にするためです。ところが、オキシドールをつけすぎたのか、私の髪の色は茶色を通り越し金髪になってしまったのです。

また、安全ピンをライターで熱し熱消毒した後、安全ピンで両方の耳に3箇所ずつピアスを開けました。煙草も吸ってみました。

私の家出は、一日中、私を探し回った両親により深夜に連れ戻されました。

私の突然の変化に両親は動揺したのです。

そして、中学校三年生になる年の4月、私たちは大阪和泉市の田舎に引っ越しました。理由は、弟の小児喘息が悪化したため、空気の良い環境に引っ越すということでした。

隣には祖母の家も建て祖母も一緒に引越しをしました。

私にとって祖母が一緒だということが唯一の幸せでした。私が劣等生でも、髪の毛が金髪でも、祖母の私に対する態度は変わらないからです。

いつでもどんな時でも私を大切にしてくれました。

また、体が小さく、玉ねぎのように髪の毛を頭のてっぺんにまとめた祖母は私にとって可愛いい存在でもあったのです。

私は家族の住む隣の家、祖母の家に住みました。

新しい学校に転校するにあたり、父親により私の髪は黒く染められ耳のピアスは外されました。

転校先の和泉市の田舎の学校は、規則として男の子は全員坊主頭、女の子はオカッパでした。

ダサすぎる。

堺の学校では、男の子たちは当時はやりのチェッカーズの藤井フミヤや直之の髪型を真似ていました。女の子たちは、松田聖子や中森明菜の髪型を真似ていまいた。私は当時、不良の間で流行りだったサーファーカットをしていました。

堺の中学校はお弁当でしたが、和泉市は給食でした。

当時、私は牛乳が大嫌いでした。牛乳のせいで給食を食べるのが遅かったのです。

給食の時間の後は掃除時間となります。掃除時間には机を移動させるなければいけません。しかし、私が給食を食べるのが遅いため、掃除時間の開始が遅くなるのです。給食を食べるのが遅いのは、いつも私と背の低いケンでした。

田舎の学校の番長的存在であった酒屋のきよしくんが、「アホとチビは給食を食べるのが遅いなー」と言ったのです。どう考えてもチビはケンです。ということは、アホは私です。

私は泣きながら、私より体の大きいきよしくんに殴りかかっていったのです。

きよしくんは、男の子です。女の子には手を出せません。防御していました。

そして、家に帰った私は、こんなダサい学校には二度と行かないと親に告げました。

ところが、その晩にきよし君は男友達を引き連れて私の家に謝りに来たのです。

それから、きよしくんと私は親友となりました。

そして、ケンは私の舎弟(子分)となったのです。

私か、きよしくんの号令で、田舎の同級生の男の子たちは、家を抜け出して夜中のお寺に集まったのです。

田舎の夜中の集会は堺の集会とは違いタバコを吸ったりはしません。

度胸試しをするのです。

近くに丘の斜面にお墓があります。夜中に、一人ずつ丘の一番てっぺんのお墓に石を置くのです。

また、暗い暗い山道を30分ほど歩くと阿弥陀寺というお化けが出てきそうな古いお寺があります。途中には、お墓もあるのです。夜中に阿弥陀寺まで一人ずつ歩く度胸試をするのです。

いつも、一番に行くのは、きよしくん、次に一人ではお墓にも、山を越えることもできない弱虫のケンを連れて私が行きます。そして、次から来る子たちを待つのです。時には先に到着した私ときよしくんで次から来る友達を脅かしては、驚いた顔を見て大笑いしました。

もう30年以上も前のことです。私は、堺の友達とは引っ越ししてから交流はありません。田舎の中学校の男友達とは、今でも年に一回のだんぢり祭りに集まります。

あれから、30年、みんな家庭を持ち、おじさんになっています。30年間、年に一度、同じ話題で盛り上がるのです。

話題は中学3年生の私達の夜中の度胸試しです。

高校は、名前が書ければ合格できると言われていた通称「バカ太高校」と呼ばれる公立高校に入学しました。

他の兄弟は皆、お嬢様、お坊ちゃん私立高校を卒業しました。公立高校に通ったのは私だけです。

私は高校に入っても勉強をしませんでした。

 

看護師への道

私が高校二年の時、祖母が病気で入退院を繰り返しました。

私は、学校帰りには毎日祖母の入院する病院に通いました。両親には私が優しいところがあると思われるのは癪にさわります。祖母には私が病院に来たことは内緒にしてねとお願いしました。

自宅では祖母は、赤ちゃんのようにハイハイをしてトイレに行くようになったのです。トイレの中には、壁の突起部分を支えに立ち上がろうした祖母の爪痕がたくさん残されました。祖母の、排泄の世話だけは家族にさせたくないという意地が見えたのです。

バカな不良娘の私は祖母を助けるために看護師になろうと決めました。

それから必死で勉強しました。

当時は、看護師には准看護師という看護師の下で働く看護師免許が存在していました。

そして、私は准看護師学校に入学しました。なぜならば、働きながら自分の力で学校に行けるからです。

両親に話せば両親は学費を出してくれたでしょう。しかし、両親が介入することで干渉されます。そして、両親に干渉されると私のやる気は一気に失せることは目に見えてました。だから、自分の働いたお金で自分の力で准看護師学校に行くと決めたのです。

准看護学校でも必死に勉強しました。

30年ほど前には常に成績順位は公表されていました。200人以上の学生の中で私の成績順位はいつも3番以内でした。

成績順位が発表されるたびにすごい!!と同級生たちにもてはやされました。

私の人生で初めての経験でした。

成績で褒められた私は調子に乗ってさらに勉強しました。

私は、准看護師の次の進路として、授業費用が私立看護学校の10分の1であった国立病院附属看護師学校を受験しました。学費を親に頼りたくなかったからです。国立の看護学校であれば、私の働いた蓄えで補うことができます。

その後に、小泉潤一郎総理大臣の民営化対策でほとんどの国立病院は大学病院や民間病院に買収され姿を消すことになります。

しかし、看護大学もほとんどなかった25年以上前の当時では、国立病院附属看護学校は看護師のエリートコースであっりました。受験倍率は6倍でした。

国立の看護学校の受験科目には英語の試験科目はありませんでした。もし、英語の試験科目があれば合格することはなかったでしょうが、おかげで国立病院附属看護学校に合格できました。

祖母は私が国立の看護学校に入学して1年目、91歳で亡くなりました。

祖母がいなくなった家に滞在する意味もなく、私は家を出て独立しました。

それでも、私は勉強を続けました。「歩く看護辞典」と同僚達に呼ばれさらに調子に乗っていきました。

仕事の休みを医療、看護に関連した勉強会やセミナーの日に調整しました。

20年、30年前には、救急救命士という独立した資格はなかった。看護師が認定試験で所得できる資格に位置付けられていました。私は、救急救命士も、医療に関してのあらゆる資格や認定証を取得していったのです。

 

そして、気がつけば34歳となってしまっていた。

 

私は、物心ついてから高校を卒業するまで劣等感の塊でしたた。そして、両親や兄弟たちとも距離を置いていました。

リオが生まれたことで、やっと両親とも兄弟とも笑って話せるようになったのです。やっと「家族はいいものだな」と思えるようになったのです。

リオが家族を一つにしてくれたのです。

そして、ピアノの椅子に座っても目眩を起こさなくなりました。

 

現在、私はフィリピンの田舎に隠れ住みながら、時折、母に電話しリオの状況を聞きます。

母は、リオはあんたと同じで勉強嫌いやけど、夏の水泳大会では背泳ぎで一番になったと報告してくれました。

私は、母に勉強しないことを指摘しないで水泳大会で一番になったことを褒めてあげてとお願いしました。

 

劣等感の再発

BAYSIDE ENGLISH CEBU が開校して半年くらい後に、同じセブ、マクタン島に日本人経営の語学学校が開校されました。そして、日本で学習塾チェーンを経営するその語学学校オーナー元田氏(仮名)より、キッチンマネージャーのキクちゃんと一緒に夕食に招待されました。

元田氏は色々な国でビジネスをするビジネス仲間の友人と一緒でした。

彼らはビジネスの勉強会で知り合った仲間らしくビジネストークに花を咲かせていました。

彼らは、先に開校していたBAYSIDE ENGLISH CEBUのビジネスに興味を持って私に色々な質問をしてきました。

綾子さんのビジネスビジョンを聞かせて欲しいとかです。

ビジネスビジョン??ビジョンの言葉の意味がわかりません。

「特にないです」と返答しました。

また、BAYSIDE ENGLISH CEBU設立の意図なども質問してくるのです。

「なりゆきです」と、会話は続かないのです。

もしも、その場で綾子さんの看護観や死生観について、今後の日本の医療の展望をどう考えるか等を質問されたなら、私は1時間でも5時間でも話し続けることができたでしょう。

私は、彼らの質問の意味もビジネス用語さえもわからなかったのです。

私の子供の頃からの劣等感が再発しました。

元田氏は、「綾子さんすごいですねーさすがですねー」と連発していました。

すごいわけがない。何がさすがだ。建前である本音は馬鹿にしているのです。

この状態では足を引っ張られると思いました。

実際には、元田氏は私に気をつかい、話を繋げるために「すごい。さすが」と連発してくれたのでしょう。しかし、私の心の奥底にある子供の頃の劣等感が私にそう思わせたのです。

私はセブで滞在する日本人、特に同業者と接することは極力避けるようになりました。

本音と建前をうまく使い分け饒舌に話すことができないからです。まそして、ビジネスに関する経験も知識も自信もないからです。

そして、何よりも私の頭の中が、過去の私のように劣等感でいっぱいになってしまうのが怖かったのです。

 

リオと歩いたBAYSIDE ENGLISH CEBU

そして、BAYSIDE ENGLISH CEBU は、韓国系の語学学校協会に加入しました。

理由は、一つに韓国人経営の語学学校は10年以上にわたる歴史があります。そこから学ぶことが多いのです。

もう一つに本音と建前を使い分けなくてもいいからです。同じ言語を使わない分恥をかいたとして気付かないのです。

また、わからないことはわからないと聞くことが容易かったのです。

間違ったことを言えば、あなたは間違っていると教えてくれるのです。

そして、日本人に比べ子供に寛容的でありました。

営業にリオを連れて行くことができる環境であったのです。韓国系の語学学校合同での海外営業には、必ずリオを連れて行きました。

 

劣等感の私

劣等感の私

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25. フィリピン治安の真実


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20.フィリピン日系語学学校 BAYSIDE ENGLISH CEBU開校

犯罪者か経営者の選択

2012年6月リオの7歳誕生日 兼RPC独占留学斡旋ビジネスの開始を祝ったパーティの数日後、私はRPCオーナー、ミスター金に予約状況を報告しました。

2012年夏には、すでに100人以上の日本人学生の予約があること。スージーを通じて韓国からの入学も見込まれること。夏に向けて準備が必要であったのです。

 

しかし、ミスター金から耳を疑う言葉が返ってきたのです

 

「I cannot accept your students because RPC is going to bankrupt」

 

Regent Pacific College (RPC)は、倒産するのであなたの学生を受け入れることはできない!!!

 

夏のバケーションシーズンまで1ヶ月ほどしか時間はありません。すでに50人以上の学生の学費は私のフィリピンの銀行口座に振り込まれているのです。

私は、目の前が真っ暗になりました。

学生や留学斡旋会社はすでに授業料を振り込んでいるのにもかかわらず留学先の語学学校が倒産し留学できないということになれば大事件です。

すぐにリオと両親の顔が浮かびました。

1ミリオンペソ(約200万円)支払って独占留学斡旋契約をしたではないかと必死でミスター金に抗議をしました。

ミスター金の返答は

「NO MONEY,BANKRUP, NO CHOICE」

お金がない。倒産する。仕方ないの一点張りです。

 

昼時の韓国レストランで涙を流し韓国人妻との思い出やRPCの歴史を話していたミスター金の哀れな顔はそこにはなかったのです。

 

そして、ミスター金は、あなたには方法が一つあると話しを続けました。

 

韓国のフィリピン留学ブームの時代はすぐに終わりが来る。これからは日本のフィリピン留学時代が来る。

ここRegent Pacific College(RPC)を賃貸し日本経営の学校を作るのだと。

 

会社設立についてはミスター金が助ける。

賃貸費用は月に1、5ミリオンペソ(約300万円/月)

最初の立ち上げの3ヶ月の家賃は70万ぺソ(約140万円)でいい。

頭金として最初に3ミリオンペソ(約600万円)をミスター金に支払えというのです。

そして、併設する私立学校はミスター金が引き続き経営していくと。

 

私には選択肢は二つしかなかったのです。

ミスター金に大金を支払い会社設立するか、日本で大事件になり逮捕されワイドショーに私の顔が出るのかの。

どちらかを選択するしかないのです。

突然闇の中に突き落とされたのです。ワイドショーにインタビューされるリオと両親の夢を何度も見ては飛びおきる夜が続くのです。

お金の問題ではないのです。

私の16年以上の社会経験は病院の中でしかないのです。事務職さえもしたことがないのです。ビジネスのビの字も知らないのです。

学校を紹介して紹介料をもらうのとはわけが違うのです。

雇用者を雇い学校を運営するのです。

それも海外で…できるわけがない。

しかし、しなければ逮捕される…頭の中は堂々めぐりのようにグルグル回っていました。

 

確かに、2012年、ミスター金の言う通り日本のフィリピン留学ブームは勢いに乗っていました。

 

ビジネスド素人の私であっても数ヶ月で100人以上の学生を集めることができるのだから、、、

きっと、ビジネス経験がありフィリピンセブ島で学校経営したい人がいるはずであります。

 

私はミスター金の賃貸条件を、当時Regent Pacific College(RPC)に学生を紹介くれていた何件かの留学斡旋会社に提示し学校経営を持ちかけました。

その会社の一つにオーストラリアに事務所を持つオーストラリア留学を主流にビジネスを展開している留学斡旋会社、石田社長(仮名)が語学学校経営に興味を持ったのでした。

 

石田社長はすぐにオーストラリアからセブ島に飛んできました。

石田社長は60歳、オーストラリアでオーストラリア人の妻と結婚しオーストラリアに移住していました。オーストラリア人の妻は英語の教師であります。

石田社長の英語は流暢で人柄も豪快でユーモアもあり、フィリピン講師たちともすぐに打ち解けました。

商談はすぐに成立しました。

石田社長がRegent pacific College を賃貸し、日本人経営の語学学校を設立するのです。

 

そして、私はミスター金に報告しました。

ミスター金は、また予想外のことを言うのです。

「私は、あなたにチャンスをあげた。どうして私が知らない日本人に私の学校を渡さなければいけないのか」と激怒したのです。

 

 結局、私と石田社長の共同経営としてRegent Pacific College(RPC)を賃貸し会社設立するということで話はまとまりました。

 

BAYSIDE ENGLISH CEBU 開校

石田社長は、オーストラリアから、フィリピンの弁護士や各種学校設立に必要な認定機関とメールでやりとり会社設立と学校開校の書類手続きを進めました。

フィリピンでの会社経営は、一部の特定地区を除き外国人は40%の株券しか持つ事が出来ない法律となっています。

60%はフィリピン国籍の株主としなくてはいけないのです。したがって、通常外国人がフィリピンで起業する際には60%の株券を持つフィリピン人をダミーとして登録するのです。

資本金として石田社長は日本円で1000万円強、私は、Regent Pacific College(RPC)独占留学斡旋ビジネスの蓄えと100人以上の学生の入金、ミスター金に独占契約として支払った200万円そしてさらに私の個人資金の200万円を投資しました。

 

そして、私は現場で人材集結とシステム作りに当たりました。

2012年当時は、フィリピンセブ島での語学学校はほとんど韓国人経営の語学学校でありました。

セブ島で認定を受け開校していた日本経営の語学学校は3〜4校しかなかったのです。

韓国系語学学校の歴史は10年以上にも及んでいます。ちなみにRegent Pacific College は2005年に開校されました。

韓国系の語学学校には長い歴史の中で学校運営のシステムは成立されていたのです。

韓国系の語学学校のシステムを引き継ぎ日本人に適応するようにアレンジするのです。

韓国系語学学校で経験のある5人のフィリピン人を集め経営チームを設定しました。

そして、日本人経営の語学学校として日本への窓口を開くためには日本人の口にあった食事を提供する必要もありました。

主婦歴が長く雑誌クックパットに取り上げられるくらいの料理の達人であったキッチンマネージャーのキクちゃん(仮名)と日本食レストランで勤務経験のあるシェフたちを集めました。

また、自衛隊の特殊部隊で勤務していたという異例の経歴を持つ片田さんを日本人マネージャーに雇用。

RPC韓国学生であった韓国で英語教師していたジェイを韓国人マネージャーとして雇用。

そして、インターンスタッフとしてハル。

カリュキュラムについては、韓国系の語学学校で経験のあるフィリピン人講師たちで作成され、オーストラリア人英語講師の石田社長の妻によってアレンジされていきました。

 

すべての準備が整いました。

 

 2012年8月15日、すでに、韓国、日本から150人近い学生が留学していた中、BAYSIDE ENGLISH CEBUは、学生たちにも盛り上げられ華々しく開校したのです。

https://youtu.be/T99wBCFRTC4


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20. 東進ハイスクール元カリスマ講師との出会い山中博との出会いい


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18. セブ島留学業界時代の変化:韓国系語学学校の崩壊

RPC崩壊

再びセブのマクタン島、Regent Pacific College(RPC)

リオと私たちが、女性と子供ガレージにアラビア人と生活していた間に、私達が2011年3月より3ヶ月間留学していた語学学校Regent Pacific College(RPC) の韓国人職員やフィリピン人講師より連絡が幾度か入っていました。

当時、Regent Pacific College(RPC)は、韓国人経営の語学学校でした。

韓国人職員やフィリピン人講師からの連絡は、その韓国人オーナー、ミスター金(仮名)からのオファーでありました。

Regent Pacific College(RPC)で、日本の留学斡旋会社の対応と学校紹介を手伝って欲しいとのことでした。

Regent Pacific College(RPC)には、外国人対象の語学学校だけではなく、現地の私立幼稚園、小学校、高校も併設しています。リオの小学校編入も勧められました。

 ヨセフがマニラに旅立った1週間後リオと私はセブの語学学校Regent Pacific College に戻りました。

崩壊していたRegent Pacific College

リオと私が滞在していた4ヶ月前には、Regent Pacific College には韓国人を中心100人近い学生が滞在し校内は賑わっていました。

しかし、そこには以前のような活気はありませんでした。学生は私とリオを合わせてたったの6人だけだったのです。

停電の際に稼働するジェネレーター(自家発電機)で電気は確保されていました。

毎日、夜中にはジェネレーターの電源は切られ、朝になれば電源が入れられるのです。夜間は停電しているのと同じ状態です。

朝になるとお部屋に設置してある冷蔵庫の氷は溶け、床は水浸しになるのです。

学校の休日は、夕方6時から夜10時頃までのみ自家発電により電気は確保されるのです。それ以外は停電中と同じ状態であります。学校や学生寮の照明だけではないのです。もちろん、エアコンも含め全ての電気が遮断されるのです。

学校職員によると2ヶ月間、電気代を支払っていないため電力会社が電気の配給を停止したとのこと。そのために自家発電機により電気が供給されているのであります。

自家発電機のオーバーヒートを防止するために、夜間と休日は電源を切るのです。そのために、停電状態となるのです。

 

2011年夏のバケーション時期、Regent Pacific College(RPC)には、200人近い学生が滞在していたそうです。しかし、経営困難のため講師への給料が支払うことができず、講師たちは授業をボイコットしたのです。夏の韓国人経営のRegent Pacific College(RPC)は破壊状態であったのでした。

夏のバケーションも終了し、学生たちは各自国に帰国もしくは転校していったのです。

そして、4人の学生を残した状況で電気代金の支払いが停滞したのです。

ちょうど、電気が止められた時期にリオと私はRegent Pacific College(RPC)に再入学したというわけでありました。

日本の留学斡旋会社の訪問なんてありません。学校紹介なんてできる状況ではなかったのです。

オーナーミスター金によると、彼の韓国人妻に騙され全てを失ったとのことでした。

フィリピン講師達によるとミスター金がカジノで学校の資金を使い果たしてしまったと。そして呆れた妻はミスター金を捨てて韓国に帰ったのだとか…いろいろな噂が飛び交っていました。

そんな学校の敷地内には、講師寮に住む10人くらいのフィリピン人講師達と学生6人が住んでいました。

 

天井や壁、部屋中やトイレあらゆる場所に英単語の書かれたメモを張っている45歳くらいの独身日本人男性トニー(ニックネーム)は停電学校にギブアップし静かに他の学校に移っていきました。

韓国人親子、母親シャロンとその息子トム。シャロンは、学校内でミスター金を見つけては苦情を訴え続けていました。

そして、30代独身の韓国人の女性英語塾講師のスージー、リオと私はすぐに彼女と仲良くなりました。ほとんどの時間、彼女と行動を共にしました。スージーは、リオにとって、セカンドママとなっていったのです。

夜間と休日には、電気は止まるが食事とセキュリティは確保されています。洗濯もしてくれる。5分もかからないところにモールがあります。セブの街までもタクシーですぐ行くことができます。そこで涼めばいいのです。

暑いドマゲッティで、コンビニ材料で料理を作り、手洗いで洗濯していたことに比べれば、電気が遮断されることなど屁でもなかったのです。

Regent Pacific College(RPC)の敷地は6500坪もあります。そして、校内には大きなプールと中央には大きな校庭があるのです。

そして、崩壊した学校には、もはや校則もルールも何もないのです。

講師と私たち学生は休日には、大きな校庭の真ん中にテーブルを出し、バーベキューや、私が日本から持ってきたたこ焼き機でたこ焼きパーティを開きました。

講師達は、どこからかゴルフセットを持ってきて、みんなで校庭からプールに目がけてゴルフの打ちっ放し、校庭の芝生に穴を開けてパターゴルフを楽しみました。

講師たちは給料を支払ってもらえない代わりに、Regent Pacific College(RPC)を卒業した韓国人学生たちへのオンライン英会話の個人ビジネスが許されていました。そして、無料での講師寮の滞在と食事が提供されていたのです。

学生のマンツーマン授業は講師達のオンライン英会話個人ビジネスの空き時間に自由なスタイルで行われたのです。

講師に給料が払えない、学生に授業を提供できないオーナーミスター金は、学生や講師たちの自由な行動を止めることができなかったのです

シャロンのミスター金への苦情は彼女の趣味へと変わっていいきました。校庭でのバーベキューを楽しみながらも、ミスター金を見つけては「ちょっと待って、苦情を言ってくる」と笑顔で私たちに告げミスター金に苦情を言うのです。そして「すっきりした」と笑いながら私達の元に帰ってきてバーベキューパーティを楽むのです。

Regent Pacific College(RPC)敷地内に併設する私立学校の授業は通常通り行われた。リオの教育には影響はありませんでした。

停電学校の自由な暮らしは2ヶ月間も続きました。12月になると、2ヶ月間に及ぶ韓国の冬季シーズンが始まります。RPC語学学校にも、30人ほどの韓国人学生が入学してきました。電気代を支払ったのか、自家発電による電気は終了し通常の電気に戻りました。

停電生活の終了と同時に自由な学生生活は終わったのです。

独占留学斡旋ビジネス

その頃、RPCオーナーミスター金は、毎日のように私を韓国レストランの昼食に誘ってくれました。

Regent Pacific College(RPC)設立時の苦労、繁栄期のRegent Pacific College(RPC)、韓国人妻との思い出等を時には涙を流しながら話すのです。

私は、自分の事を話すことは得意ではありませんが、職業柄人の話しを聞く事は得意中の得意であります。

病院では、心身に傷を負った多くの患者の話しを聞くのです。癌告知や余命告知をされた患者。そにかく話しを聞くのです、そして、自分の感情や意見は入れないで患者の言った言葉をリピートするのです。

ミスター金も同じでした。

「この学校は妻と私の思い出が詰まっている」「そう、あなたと奥様の思い出が詰まっているのね」

「以前は、常に300人の学生がいた。学校寮では足りずに外にホテルを借りて学生を収容した」「300人も学生がいたのですね…」という会話が毎日のように昼時の韓国レストランで交わされたのです。

 

そして、ミスター金は、私に独占留学斡旋ビジネスを持ちかけたのです。

 

内容は、語学学校Regent Pacific College(RPC)を日本に紹介し日本人学生を集めて欲しいと。

方法は個人でウェブサイドを作成もしくはブログで学生を集めても、日本の留学斡旋会社を使ってもいい。学生紹介手数料として、学生の学費の50%は私に入るというものでありました。

個人で学生を集めれば授業費の50%が私の収入となる。留学斡旋会社を介せば、留学斡旋会社に紹介手数料として授業費の25%から30%支払う。そして残りの授業費の25%もしくは20%は私の収入になるという訳であります。

 

ただ独占契約金として、1ミリオンペソ(当時の為替で日本円約200万円)」をミスター金に支払うことが条件がつきました。

当時、ミスター金は、韓国冬季バケーションで30人余りの学生を受け入れたのですが、運営資金に困り独占契約の契約金と理由つけて運営資金を私から入手したかったのでした。

私は、後ほどそのことに気がつくことになりました。しかし、当時はそんなことは考えもしなかったのです。

 

私もリオも海に接し、膨大な敷地と現地私立学校が併設しているRegent Pacific College (RPC)が大好きでした。

そして、日本の親子や子供達の留学には最適な学校であります。また、フレンドリーでピュアなフィリピン人講師達は日本人の心をつかむことができると私は確信していました。

 

16年間働いた看護師時代の貯金もあります。車一台買うくらいの金額で大きなチャンスがあるのです。私は、このチャンスに賭けることを決めました。

 

そして、2012年1月、BAYSIDE ENGLISH CEBUの先駆けとなるRPC独占留学斡旋ビジネスがスタートしたのです。

RPC崩壊

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19. フィリピン日系語学学校BAYSIDE ENGLISH CEBU設立まで


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17. フイリピン親子移住:女の館ガレージにアラビア人

ドマゲッティの生活part 2

退屈な女の館

2011年夏、私たちは親子はブラックアメリカン、ドミニク家族と別れ、女だけの館に引っ越しました。

そこで、豪華な暮らしをすることができたのです。

ただ、時間の経過と共に、ジンジン家族たちとの生活は、私もリオにとっても退屈なものになっていきました。

ジンジンの0歳児の双子の息子達はリオと同等に遊ぶには幼すぎたのです。

19歳の長女のジョアニーも11歳の次女のリサも当時6歳のリオと遊ぶにはお姉さんすぎたのです。

また、彼女達は海で遊ぶよりオシャレに興味を持っていました。日焼けの事をいつも気にしていました。

そして、彼女達の生活は、とにかく派手でパーティ好きであったのです。

ジンジンは、収入が入るたびに日中は自宅にマッサージやエステシャンを呼び、夜になるとパーティもしくは、夜のドマゲッティの街に繰り出していきました。

私もパーティにも、夜の街にも彼女達に誘われ1、2回参加しました。

パーティには、セブランやドマゲッティのフィリピン人富裕層達が集まります。

ジンジンは、とにかく富裕層達を私に紹介するのです。OOのスパーマーケットのオーナーであるとか、OO会社のオーナーであると紹介されるのですが、フィリピンの会社なんて知らない。そして、フィリピンでビジネスをするわけでもなく富裕層と繋がる意味もないのです。

それに大人のパーティにリオも興味がないのです。

夜も街もジンジンと彼女の富裕層の友人達と一度だけ参加しましたが、自宅に残しているリオのことが気になって楽しめないのです。また、酔えば彼女達は現地の言葉で話します。それは、私にとって意味もわからなく退屈な時間だったのです。

ドマゲッティの街はオシャレですが小さな街であります。1週間も滞在すれば、ほとんどを回ることができるのです。リオの学校の時間帯に毎日ドマゲッティに行くのも飽きてきたのです。

 

ガレージにアラビア人

そんな時に面白い出会いがありました。

アラビア人ヨセフです。

 

ブラックアメリカン講師ドミニク達とビーチに遊びに行った際に2歳の可愛い女の子を連れたアラビア人と若いフィリピン人のカップルに何度か出会いました。

彼らも毎日のように夕方になるとビーチに子供を連れて来ていたのです。

アラビア人は、リオや子供達に砂浜から、こぶし大くらいのカニを捕まえてくれました。リオも子供達は大はしゃぎで喜びました。そして、ビーチででアラビア人に会うたびにリオはカニを捕まえて欲しいとねだっていました。

私は、時々しかビーチに行きませんでした。リオは毎日のように自宅近くのビーチでアラビア人と遊んでもらっていたらしいです。

その後、リオが入院したこともあり名前も知らないアラビア人の事はすっかり忘れていました。

 

ある日、いつものようにリオを学校に迎えに行った際、リオの学校付近であのアラビア人が歩いていました。

リオが窓を開けて話しかけたのです。

彼は私とドミニクを探して2時間かけて、ドマゲッティのパブリックマーケット(公共マーケット)から歩いてやってきたと言います。お金も持っていない。3日間、何も食べていない。助けて欲しいと。

服はボロボロ、片足はパンパンに腫れ、傷がありました。とにかく、私は、住宅地の中にあるポンコポンコ呼ばれるフィリピンの庶民料理を食べさせ、家に連れて帰ってもいいかを確認するためにジンジンに電話をしました。

ジンジンは、ほっといたほうがいいが、綾子次第だと言うのです。

リオは、かわいそうだからの家に連れて帰ろうと言いました。

私は迷いましたが、家に連れて帰ることにしました。

 

家には、ジンジンのほか、セブラン市長トニーのボディガードも待機していたのです。

ボディガードの男性は筋肉質の肩にタツーが入って強面の顔をしていました。そして、アラビア人への事情聴取が始まりました。ジンジンもボディガードもアラビア人に対する口調は厳しかったのです。

アラビア人の名前はヨセフ、年は私とジンジンと同じ年でした。1年前に仕事でヨルダンからマニラにやって来たのです。

マニラに滞在中にドマゲッティに旅行したのです。その際にドマゲッティのKTB(クラブ)の20歳のフィリピン人女性ジョイに恋をしたのです。

そして、そのまま彼女ジョイの家に移り住んだのです。ジョイには、すでにフランス人との間に子供がいました。しかしフランス人はジョイが妊娠してすぐにフランスに帰国し、一人で子供を育てていました。

ヨセフは、ジョイと彼女の娘、そしてジョイの母親と暮らしていました。ヨセフの持参した資金はほとんどジョイの家族のために使ってしまったのです。

そして2週間前、置き手紙を残し突然家からジョイもジョイの娘も母親もいなくなったのです。

ジョイは、残り少ないヨセフの全財産もヨセフのパスポートまでも持って行ってしまいました。

ヨセフは、仕事を探すためにドマゲッティに移りました。

しかし、お金もパスポートもない。仕事は見つからない。ドマゲッティのマーケットで物乞いをしながら2週間過ごしたのです。

そして、アメリカ人のドミニクもしくは日本人の私に助けを求めるためにドマゲッティより2時間かけて私達が住んでいた隣町まで歩いてやってきたのです。

しかし、すでにドミニクはセブ島に移り住み、自宅はもぬけの殻であったのです。途方にくれてとぼとぼ歩いているところに、リオから声をかけられたということでありました。

足の傷はリオと同じように虫に噛まれたか小さな傷からばい菌が侵入し蜂窩織炎になったのでしょう。リオの蜂窩織炎より酷く悪化していました。

ジンジンと私はヒソヒソと相談しました。

私は傷が治るまでだけでも面倒を見てあげたいと訴えました。ジンジンは見知らぬアラビア人を家に入れたくないが、家賃を払っている私の意見は無視できないという感じでした。

ところが、アラビア人がイスラム教徒でなくカトリック教徒だということを知った時にジンジンの心が動いたのです。

セブラン市長トニーとも電話で相談し、家の中では住めないがガレージでなら住んでもいいということになったのです。

そして、ヨセフはセブラン市のプロジェクトである道路工事の仕事を市長トニーから与えられました。道路工事はジンジンの自宅横で行われていました。日給は百五十ペソ(三百円)お金が貯まった時点で出て行く約束をしたのです。

ヨセフがカレージに住むことに、リオは大喜びでした。

 

そして、女性と子供の家とガレージにアラビア人という奇妙な生活がスタートしたのです。

 

リオを連れてフィリピンに移り住むにあたり、日本から私はあらゆる薬を持参してきました。看護師であった私は薬を調達することは容易かったのです。もちろん抗生物質も軟膏も包帯もです。それをヨセフに投与し、ヨセフの傷はすぐに完治しました。

そして、ヨセフはセブラン市の道路工事現場で働きました。ヨセフは仕事が終わるとリオと一緒に釣りに行ったりカニを捕まえたりと遊んでくれました。

時間の合間には、車の修理や家の修理、とにかくよく働いたのです。女性だけの家に男性が一人いるだけで便利なのです。そして、彼の人柄も良かったのです。

ジンジンファミリーも町の人達もセブラン市長までもヨセフを認めるようになっていったのです。

市長トニーは、裏の方法でフィリピン人になれるようにしようと言ったくらいです。国籍までも変える裏の方法があるとは、さすがフィリピンです。

だが、ヨセフはフィリピン人になりたくなかったのです。ヨルダンに帰りたかったのです。

私はヨセフがヨルダンに帰ることができる方法を考えました。

ヨセフは、フェイスブックも持っていなかったのです。私のパソコンを使ってヨセフにフェイスブックを作成させ、そこからアラビア人の友人を探すことを勧めました。

ヨセフは毎晩、芋ずる式に友人検索をしていったのです。また、スカイプも作成しアラビア人の友人を検索して行ったのです。

 

リオは、学校から帰るとヨセフの道路工事現場に直行しました。カニ取り名人のヨセフの周りには多くの近所の子供達も集まりました。リオはヨセフを通じて多くの友達ができたのです。

道路工事は、セブラン市のプロジェクトということもあり工事現場のおじさんたちは町の人達です。リオにとっては、工事現場の人たちは友達だったのです。

道路から、ママ〜と大声で呼び声がしたことがあります。リオは工事現場で働くロードローラーカーの助手席から手を振っていたのです。

外でドロドロになって遊んだ後は、湯船にゆっくり浸かって、ヘルパーさん達の作った美味しい夕食をいただく衛生管理も健康管理も問題なく楽しみました。

ジンジン達が夜のドマゲッティの街にくりだすのを見計らっては、リオと私、ヘルパーさん達、市長トニーが私達の警備のために送ったボディガードまでもヨセフのガレージ前に集まり会話を楽しんだのです。

ジンジンの富裕層パーティよりずっとリオも私も楽しめました。

ドマゲッティの生活part 2

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ヨセフとリオ、近所の子供達で収穫されたカニは、ヘルパーさん達、市長トニーのボディーガードによって美味しく料理されました。

ドマゲッティの生活part 2

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ヨセフが、ガレージに住んでから1ヶ月ほどが経った頃、フェイスブックを介してマニラに住むアラビア人の知り合いと連絡が取れたという報告が入りました。

マニラに行けばどうにかアラビア人達の助けが得られるといいます。私はお祝いにマニラまでの船のチケットをプレゼントしました。

 

そして、ヨセフはマニラへと旅立ったのです。

 

ガレージのアラビア人の今

しばらくして、ヨセフから連絡が入りました。

彼を捨てた彼女が帰ってきたのです。マニラで働いてお金を貯めて、彼女とフランス人のハーフの娘を連れてヨルダンに帰ると。

 

それから、半年後くらい後にヨセフはジョイと娘を連れてヨルダンに帰って行ったのです。

 

あれから既に7年以上経ちます。

ヨセフは、リオと私の誕生日、クリスマス、ニューイヤー特別記念日には欠かさずメッセージを送ってくれます。

時には、家族写真やボイスレコードもつけてくれるのです。また、毎年のように、子供が生まれたと連絡が入るのです。

現在、彼は4人の子供のお父さんであります。

2017年6月ヨセフがリオの誕生日に送ってくれた家族写真です。

ドマゲッティの生活part 2  ドマゲッティの生活part 2

 

 ヨセフがマニラに旅立った1週間後リオと私は女の館を後にし、セブの語学学校Regent Pacific College に戻りました。

それから、私たちはジンジン家族には会っていません。

2013年、BAYSIDE ENGLISH CEBUの雇用者試験をドマゲッティで開催した際に、私とリオが約2ヶ月間過ごしたジンジンの家を訪れました。

そこにはアメリカ人家族が住んでいました。

ジンジンファミリーも私達の世話をしてくれたヘルパーさんたちの姿もなかったのです。

 

近所の人の話によると、セブラン市長トニーは市長選挙に負けました。

フィリピンでは、大統領選でもそうでありますが、選挙に負けると犯罪者として裁判にかけられるもしくは暗殺されることが多々あるのです。

トニーも裁判にかけられ姿を消しました。そして、ジンジンファミリーもどこかへ引っ越してしまったと。


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17. セブ島留学業界時代の変化:韓国系語学学校の崩壊RPC崩壊


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16. 日本の外から見る日本の歴史

シリマン大学資料館

私は日本にいた頃、第二次世界対戦時代の本をよく読みました。

そして、沖縄平和祈念館、ひめゆりの塔、広島原爆祈念館、鹿児島の知覧特攻平和会館、最近では靖国神社の資料館にも訪れました。どこの資料館でも涙なしでは直視できない悲惨な状況があります。

ドマゲッティ、シリマン大学の中にもフィリピンの歴史と共に第二次世界対戦の歴史も展示している資料館があるのです。

フィリピン側から見た日本軍の姿が展示されています。そこには、日本軍の攻撃によって焼け野原になった町、日本軍によって連行されるフィリピン人庶民達、日本軍によって処刑されようとしているフィリピン人達の写真等も展示されているのです。

年配のフィリピン人によると、現在のゼネレーションのフィリピン人は親日家であります。しかしながら、80代、90代の高齢者達は戦争経験より親日でない人も多いらしいとのことでした。

 

日本の軍人達が、フィリピン人を食べたという噂や、日本兵がフィリピン各地に金貨を隠したという黄金伝説までもあるらしいです。

 

韓国映画

2010年当時、韓国人が主流であったセブ島留学にて、私たち親子には韓国人の友人が多くいます。

一般的に感情を率直に表現する国民性は、日本の国民性とは少し違うかもしれません。しかしながら、情が深い彼らの国民性に私たち親子は幾度も助けられました。

そういう経験もあり、私は韓国の歴史に関した映画をよく見ます。その中には第二次世界大戦時代に日本人による不法労働を虐げられる韓国人(当時、朝鮮人)の場面がよく描かれています。

その場面に私は、日本で私達が住んでいた街にある池 ”光明池”を思い出します。そこは、第二次世界大戦時代に強制連行され日本に連れてこられた韓国人によって掘られた池であります。そして、そこには労働中に亡くなった韓国人の多くの名前が刻まれ祀られています。

 

私は、政治や宗教については全く興味はありません。

しかしながら、日本の外から見る日本の歴史は興味深いものであります。

 


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17. フイリピン親子移住:女の館ガレージにアラビア人21014799_1643635908988278_527366793_o (1)


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