15. 女の館での新生活:フィリピン親子移住 ドマゲッティでの生活Part 2

フィリピンドマゲッティ新天地に向けて

大切な息子リオは、虫に刺された足を、不潔な手で掻き毟ったため蜂窩織炎となり、高熱を出して入院しました。リオの症状も3日で回復しましたが、ホテルのように居心地の良いシリマン大学病院の特別室で2週間以上も滞在したのです。

ブラックアメリカン講師ドミニクは病院が居心地いいとは、何て不健康な、子供は外でドロドロになって外で遊ぶものだと言言いました。本当にその通りであります。

ただ、リオの衛星管理を怠ったため蜂窩織炎となってしまったのです。それは、私の責任であります。私のコンビニ食材での料理も限界があります。リオの栄養管理も考えると、ドミニク家族との生活には無理がありました。私は家を出ることをリオの入院中に決めました。

 

そんな時に、リオの主治医が彼の家族が経営するドマゲッティのホテル、マリアルイサのパーティに招待してくれました。誰の主催で何の目的のパーティか覚えていません。上流階級のフィリピン人達のパーティであったことは間違いありません。

そんなパーティに日本人親子が出席していることが珍しいのか多くの人に声をかけてもらいました。その中で私たちが住むドマゲッティの隣町セブラン市の市長トニーと知り合ったのです。

そして、私は家探しの相談をしました。セブラン市長トニーより、私たちがよく遊びに行くセブランのビーチの目の前の家を紹介してもらいました。

 

リオの退院後、私たちはそのビーチ前の家を訪れました。

家は5LDK裏には大きな庭がありました。ガレージには車が2台止まっていました。オーナーの女性が家の前で待っていてくれていました。

家具付きで2万ペソ(約4万円)で賃貸したいとのことでした。

海の目の前で庭付き5LDKの家が4万円、日本人金銭感覚で考えると激安であります。しかし、都会から離れた港町の当時の物価では相当額であります。ちなみに当時私たちが住んでいた2LDK小さな庭とガレージ付の家の家賃は三千五百ペソ日本円で7千円でした。

 

オーナーの女性の名前はジンジン。年齢が私と同じ年ということもあり話は盛り上がりました。彼女は、私達に料理とビールまで出してくれました。彼女は4人の子供達と、3、4人のヘルパーさん達と暮していました。

 

一番年上の長女は、日本人もしくは中国人系の顔をした美人です。当時19歳でシリマン大学で勉強していました。

2番目の次女は白人系の美人です。当時11歳。

下の二人の子供はまだオムツをした双子のフィリピン人顔の男の子達です。

ジンジンによると、長女の父親は中国人。次女の父親はスイス人。そして、双子の男の子達はセブラン市長トニーとの間の子供たちだというのです。

ジンジンは、セブラン市長の愛人であったのです。

この奇妙な家族形態に私は興味津々でした。昼間から夕方近くまでビールを飲みながら、ジンジンと彼女の長女ジョワニーと話が盛り上りました。

彼女達はヘルパーさんも含め女性ばかりと双子の男の子で生活していました。市長トニー以外の男性を家に入れることはトニーに禁止されているとのことでした。

 

女性だけの館。まるで大奥のような家です。

 

彼女達の生計はそれぞれの子供達の父親からの養育費の仕送りで成り立っています。

しかし、次女の父親スイス人からの仕送りが滞り、市長トニーの正妻からの嫌がらせでトニーからの仕送りも減ってき他たとのことで生活が苦しくなり、家を賃貸に出して実家に引っ越さないと生計が厳しくなってきたというのです。

家の中も見せてもらいまいた。すべての部屋にエアコンが設置されています。大きな冷蔵庫が2台もありました。温水シャワーもあります。バスタブまでもあります。車も2台、バイクもあるのです。ヘルパーさんの作る料理も美味しいのです。

 

私はヒラメキました。

ダメもとで、提案してみました。

私とリオに一部屋だけ貸して欲しい。そして、ヘルパーさんもみんなまとめて一緒に住まないかと

家賃は倍の月4万ペソ(8万円)を支払う。その代わりに、食事、掃除、洗濯をして欲しい。そして、車とバイクを使わせてほしいと…

彼女達は私の提案に驚いた様子でした。しかし、私とリオの親子を受け入れるだけで家を出なくてもいいのです。そして彼女たちの生活も変わらないのです。その上4万ペソの収入が入るのです。彼女達にとっても私にとっても一石二鳥だったのです。

 

その場で商談は成立しました。

 

ドミニクもドマゲッティでの生活に経済的に限界を感じていました。経験豊かなネイティブ講師であればセブであれば十分働き口があります。家族を養うこともできます。また、韓国人から一緒に仕事しないかと誘われているとのこともあり、ドミニク家族はセブに帰ることとなりました。

 

女の館での生活

そして、女性だけの城、大奥でリオと私の新しい生活が始まりました。

 

車があるだけで同じ町でも世界が変わるのです。

 

リオはそのまま、ドミニク家族と私達の住んでいた住宅地の小学校に通いました。

朝起きると、ヘルパーさん達によって、すでに美味しい朝食ができているのです。

毎日、朝食後に車でリオを学校まで送り、私は一人でドマゲッティの街まで車を走らせるのです。ボリバーでゆっくり本を読み、ショッピングモールで買い物を楽しみました。夕方にはリオを車で学校まで迎えに行き、リオの学校より少し車を走らせると、海辺のレストランがあります。毎日そこでマンゴジュースを飲んで帰るのが日課となっていました。

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

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16. 日本の外から見る日本の歴史


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12. フィリピン親子移住:ドマゲッティ繁華街ボリバーでの週末

西洋を感じさせるボリバー

ドマゲッティの中心部海岸沿いに、ボリバーと呼ばれる場所があります。

海岸沿いに、おしゃれなレストラン、バー、ホテルが立ち並んでいます。

 

フィリピンには、300年以上にも渡るスペインの植民地下であった歴史があります。各地にスペイン建築の跡が残されています。

 

まさに、ドマゲッティの街はスペイン植民地時代の建物が多く残され、西洋を感じさせるおしゃれな街であります。

そして、老後を楽しむ西洋人、欧米人たちで街は賑わっていました。

 

週末はドマゲッティのホテルで過ごそうと決めました。

リオと私の1週間分の洗濯物を持って街のコインランドリーに行くのです。そして、ボリバーのレストランでおいしいものを食べお気に入りのホテルで過ごすのです。

 

ドマゲッティ、ボリバーには、私たちのお気に入りのホテルが数件ありました。

 

第一に、海岸中央部に位置するハネコーン。

 

建物は古いですが木造の風情のあるホテルです。1階には深夜まで開店しているレストランバーがあります。週末の夜の9時を過ぎるとバンドやバヨリニストのミニコンサートが開催されるのです。

リオと私のドマゲッティ滞在は、週末はほとんどそこで過ごしました。

 

ホテルの受付嬢とも仲良くなりよく話をしました。

彼女の弟は教師になることを目的に大学で勉強していると言います。彼女は弟の学費を支えるために働いているのでした。

そして、その後、彼女の弟は私が起業することとなる語学学校BAYSIDE ENGLISH CEBU の講師となったのです。2014頃より、BAYSIDE ENGLISH CEBUは、多くの日本大企業のビジネス研修に使われるようになりました。彼女の弟はビジネス英語の中心核講師へと成長していったのです。

 

10. フィリピン移住への第一歩:セブ島親子留学Ⅱ Regent Pacific College(RPC)

RPC崩壊

16年間、緊急医療の看護師として医療業界を走り続け、病院のお局様であった私は35歳にて人生最大の宝物(息子)を授かる事ができました。しかし、私の結婚生活は1年も続かず破局。私達親子の人生の再起として、8年前の2011年3月、私と3歳の息子リオはフィリピンのセブ島に渡りました。

 

フィリピン移住への第一歩:語学学校

2010年夏42日間のセブ島留学を終え日本に帰国後、私はパートタイムで町の一般病院で勤務しながらフィリピン移住の準備を進めました。

その間に離婚も確定しました。

移住先フィリピンの生活準備は、2010年の留学中に友人となった、ブラックアメリカン講師ドミニク家族に依頼しました。私達親子の移住先はフィリピン南部のネグロス島ドマゲッティです。移住前の3ヶ月、英語力と環境に慣れるために、フィリピンセブ島の語学学校に滞在する事に決めました。

ほとんどのフィリピンの語学学校では、英語学習のみならず敷地内に学生寮が整備され、食事、掃除、洗濯がて提供されるのです。また、安全も確保されるのです。突然何も知らない海外に飛び立つのは危険が多すぎます。安全と最低限度の生活が守られたフィリピン語学学校は、ゆっくり海外移住の環境を整える準備にふさわしい環境であるのです。

 

そして、2011年3月、東北地方太平洋沖地震から約1週間後にフィリピンセブのマクタン島に位置する韓国資本の語学学校Regent Pacific College(現在のBAYSIDE ENGLISH CEBU RPC CAMPUS) に到着しました。

当時、春の大学生バケーションシーズンということもあり韓国人大学生たちで学校は賑わっていました。RPC

3ヶ月間のRegent Pacific College での学生生活、とにかく人との出会いを楽しみました。リオの英会話は、初めの2−3か月はインプットの時期でありました。2−3か月後、突然アウトプットに変わる時期があるのです。

ちょうどその時期にドマゲッティに移りブラックアメリカン家族と生活をともにしたこともあり、当時5歳のリオの英語は完全にブラックアメリカンイントネーションとなっていきました。

フィリピンへの移住の前日 同僚たちが送別会を開いてくれました。これが、私の最後の日本社会であります。

RPC

 

Regen Pacific Collage (RPC) での3ヶ月

 

RPC

RPC

授業がどうだったか勉強は、ということはあまり覚えていなませんが、とにかく楽しんみました。

 

そして、2011年6月初めフィリピンセブより飛行機で25分。バスと船で5時間南下した私たち親子の移住先であるネグロス島ドマゲッティに移ったのです。

 


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11. フィリピン親子移住:ドマゲッティでの生活 PART 1


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9. 海外進出の第一歩:フィリピン・セブ島親子留学

リオと私のセブ島親子留学

2010年の夏、私たちの親子の42日間のセブ留学が始まりました。

 

私たちの留学先は、セブ市のマクタン島に位置した、ほとんどの講師がネイティブということを売りにしている語学学校でした。

夏休みということもあってなのか、韓国人、台湾人、ロシア人、日本人と多国籍な学生達で賑わっていました。当時、日本人学生は全学生の20%以下でした。

 

授業はどうだったのかは、あまり覚えていません。

 

私達のセブ島留学の目的は、英語の勉強だけではなく、人生の転換期としてこれからの人生の方向性を考えることでありました。

 

そして、そこでの出会いが私たちの人生の方向生を大きく変えたのは間違いありません。

 

国籍、年齢に関係なく私は多くの学生や講師から子供の教育の事、生活の事あらゆる情報を集めました。授業時間はほとんどプライベート会話と情報収集へと変わっていきました。

夏休み時期ということもあり、各国からの親子留学の学生も少なくなかったのです。

日本からお母さんの話では、2年間以上、海外の認可された学校に留学すれば帰国子女枠として、日本の有名私立小学校に編入しやすくなるというのです。

 

また、韓国からのお母さんは、子供の教育のために長期計画を立てセブ島に来ていました。フィリピンの語学学校で基礎英語を3ヶ月間勉強した後、授業費が安いフィリピンで私立小学校に子供を通わせるのです。フィリピンの私立学校での授業は英語で行われるのです。英語をマスターした後、親子でオーストラリアに移住する計画でありました。オーストラリアで3年以上移住すると永住ビザが取れるらしいのです。永住ビザを取得できればオーストラリアの高校、大学の学費は外国人価格ではなく現地価格となるというのです。

 

各国のお母さんたちの子供の将来計画に、私は、『私の世界はなんて狭いんだ』衝撃を受けました。

 

そして、お母さん達の情報の信憑性をインターネットで調べるとともに、講師たちからは、フィリピンの私立学校の情報を集めました。

 

黒人アメリカ人講師ドミニクのフィリピン人妻はフィリピンネグロス島ドマゲッティ出身であり、そこにはフィリピンで有名大学であるシリマン大学、そしてシリマン大学付属小学校があります。

彼自身も家族と一緒にセブ島よりドマゲッティに移り住み、リオと同じ年の息子をシリマン大学付属小学校に入学させたいとのことでした。

ドマゲッティはダイビングでも有名な街であります。私は看護師時代に同僚たちとダイビングで3回訪れています。海沿いの街並みは西洋を感じさせるおしゃれなレストランが立ち並ぶ素敵な街です。実際に多くの西洋人たちが滞在していました。

 

私たち親子の方向性は決まりました。

来年2011年の6月にリオとドマゲッティに移り住む。

 

そして、シリマン大学付属小学校に入れる。

2年後には、日本の私立小学校に帰国子女として編入もしくは、韓国のお母さんの計画のように他の国に出るという手もあるのです。

2年後の方向性はその時に考えればいいのです。

 

がむしゃらに働き続けた看護師時代の蓄えも十分にありました。

離婚後、養育費として月20万円くらいの収入は入るだろう(実際には18万弱でした)が、日本でリオを私立小学校や習い事に通わせるには十分ではありません。

しかし、フィリピンであれば、リオの教育も含め親子二人で十分暮らしていけるのです。

私の頭の中に、シミュレーションは描かれました。

あとは、環境を整えるのみです。

 

ドミニクにドマゲッティでの住居と家具等の購入等の移住するにあたっての環境作り、そしてリオのシリマン大学付属小学校の入学準備を依頼しました。

安全確認のために実際にドミニクの家族と子供たちとも会いました。

リオを連れていくためには十分な環境を整えてから移住先のドマゲティに移る必要があるからです。

 

ドマゲッティに移るまでの3ヶ月間、授業、食事、掃除、洗濯その上セキュリティが確保されているセブ島の語学学校に滞在することを決めました。

 

2010年夏のセブ滞在中に約7か月後の2011年3月に入学を決めた語学学校の入学手続きを済ました。

 

その留学先の語学学校が、後に私が起業することになるBAYSIDE ENGLISH CEBU RPC キャンパスであります。

当時は韓国人が経営する語学学校Regent Pacific College(RPC)でありました。

 

その当時は、そこで起業する事になるとは夢にも思わなかったのです。

 

この2010年夏のセブ島留学は、多くの素晴らしい人たち、後ほどの私のビジネスに大きく関わってくる人達との出会いがありました。

 

私のグループクラスのクラスメイトでスタッフでもあった韓国人のレイナ、ロシアに10年以上暮らしロシア語を流暢に話す彼女は、セブ島の語学学校にロシア人を連れてきた一人者と言っても過言がありません。彼女は後ほどBAYSIDE ENGLISH CEBUの韓国人マネージャーとして韓国、ロシアマーケットに大きく貢献していくことになっていくのです。

そして、日本語、中国語を流暢に話す韓国人ジャスリン。彼女も後にBAYSIDE ENGLISH CEBU の韓国マネージャーとなり韓国、台湾、中国マーケットに貢献することになるのです。

当時は、そんなことになるとは、夢にも思わなかったのです。

 

日本には、本音と建前の文化が定着しています。日本社会ではストレスや問題等を心の奥底に閉じ込め装飾した顔を表に出していかなければならないのです。

しかし、日本でのしがらみから解放される海外では心も解放されるのです。殻をかぶせて心の奥にしまっていた悩みなども打ち明けることもできるのです。

 

私より3歳年上で7歳の娘と親子留学に来たエステシャンの優子さんに(仮名)、私は離婚するにあたっての不安を打ち明けました。彼女もまた、旦那さまの浮気に悩んでいました。

彼女はセブ留学後、離婚カウンセラーとして、そして現在、夫婦円満カウンセラーとしてテレビ、雑誌にも登場する有名人となっています。

 

お母さんと弟とともに親子留学に来たサナギちゃん(仮名)彼女はお母さんに内緒にねっとそっと私に話しました。

彼女はアフリカに旅行した時にアフリカに恋をしたのです。セブで英語を学んだ後、アフリカに写真を撮りに行くのだと。

彼女とは、それ以来交流がありませんが、後日、アフリカで少数民族を撮影する写真家としてテレビ、新聞、雑誌で彼女の姿を多く拝見することになるのです。

 

そして、当時18歳大学生のイッシー、彼は2012年8月のBAYSIDE ENGLISH CEBU 開校時に50人近くの大学サークルの学生達を引き連れ開校を盛り上げてくれる事になるのです。

 

また、彼の同期であった大学生二人、ハルとマルと共に私はBAYSIDE ENGLISH CEBU を立ち上げることとなるのです。

 

20歳の青年タカ、彼はこのセブ島留学より、セブ島に永住することになります。

現在、すべてを失った私がリオとは離れフィリピンの田舎でフィリピン人達と暮らしていることを知る3人だけの日本人のひとりであります。

彼は、私の住むフィリピンの田舎にフィリピン人妻と娘を連れて時々遊びきてくれます。彼は28歳になりました。

 

彼は、いつものように軽い口調で言いました。

「綾子さんが金持ちでも貧乏でも犯罪者でも僕と綾子さんが友達ってことは変わんないっすよ。ただ、死なないでくださいよ」と。

 

 

そして、何よりも私が、リオとフィリピン移住を決めた決定的な理由は、フィリピン人の人柄であります。

私のセブ留学は、ほとんどと言っていいほど勉強しませんでした。とにかく講師達とプライベートの会話を楽しみました。

フィリピン人講師達は22歳前後です。彼らの給料は日本円にして月2万円程度しかありません。そして彼らは、給料のほとんどを家族に仕送り稼ぎ頭となっているのです。

また、リオと同じくらい、もしくはリオより幼い子供たちは路上でネックレスなどの民芸品を売り家族の生活を助けています。

一見かわいそうと思いますが、そうではありません。それは、彼らの笑顔を見ればすぐにわかります。どうしてそんなに楽しいのだというくらいの万遍の笑顔には幸福感が満ち溢れているからなのです。日本であんな笑顔を見たことがありません。

 

インフラが整い生活に何不自由がなく規則ただしく時間に縛られて生活している日本人が忘れかけていたもの置き去りにしてきたものが彼らにはあるのです。

 

留学をきっかけにフィリピンに移住する若者が多くなってきています。

フィリピン人達の幸福感が満ち溢れた笑顔に人生観が変わったという人も少なくないでしょう。

 

リオのセブ島留学は、日本で3年近くホストファミリーとして、多くの外国人達と生活を共にしていたこともあってか、国籍が違う友達でもリオには全く抵抗はありませんでした。

 

40日だけの英語学習でどのくらい英会話力が上達したかはわからないですが、とにかくリオは楽しんだようでした。

 

セブ島との出会い

韓国人スタッフたちとも

 

韓国人スタッフたちとも

フィリピン人講師とも

 

セブ島との出会い

休憩時間も

 

休憩時間も

ネイティブ講師とも

 

セブ島との出会い

アクティビティも

 

ネイティブ講師とも

ママとも

 

セブ島との出会い

卒業式の発表会でも

 

現地路上で物売りの子供たちとも

セブ島との出会い

セブ島との出会い

セブ島との出会い

セブ島との出会い

セブ島との出会い

物売りの子供たち1

 


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10.フィリピン移住への第一歩:セブ島親子留学 ⅡRPC


 

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8.フィリピン・セブ島との出会い

セブ島との出会い

私たち親子とセブ島との出会いは今から約8年前、2010年夏、42日間の親子留学でした。

 

私の5年間の学校経営の中で、多くの学生や日本人スタッフ達との交流や経験の中で、日本人30代40代、特に女性が海外留学を決める理由は、日本社会に疲れ、英語が話せれば世界は変わるのでは…人生の転機として、…自分さがしに海外へ…という学生が少なくないと思っています。

 

また、セブ留学で人生が変わった。セブ留学をきっかけにセブに移住する人、セブで起業する人、世界に飛び立つ人も少なくありません。

 

フィリピン、セブ留学では、個室でのマンツーマンのプライベートレッスンを受けることができるのです。

マンツーマンでのプレイベートレッスンは、濃厚な授業だけではなく講師と学生の距離が近くなるのです。

時には恋や生活の悩みなども相談できるのです。また、講師より相談を受ける場面もあるのです。(学校としては、個人的な会話は禁止していましたが、私は学生が望むならそれもいいと思っていました)

そんな中で講師も学生もお互いのカルチャーに触れることができるのです。ストレス日本社会に疲れた学生は、フィリピン人講師との交流の中に、私たち日本人が忘れたかけたものを見つけるのです。

それは、幸福感の違いであったり、家族愛であったり、楽天的思考であったり…人によって色々あるでしょう。

もちろん、すべての学生がそうではありません。TOIECの点数を上げるためキャリアアップのため、脱段は許さない。楽天思考のフィリピン人にストレスを持つ学生もいます。

 

私は、まさにフィリピン人講師たちの中に私たちが忘れていたものを見つけたのです。そして、私によって人生の転機でもあったのです。

 

2010年、当時 息子リオ3歳、夫との3年近い別居生活にピリオドをつけ離婚に向けての協議をしていました。

私とリオとの生活は、今まで通りとはいかなくなるでしょう。その頃、幼稚園のお母さんたちはどこの小学校に受験するのかという話で持ちきりでした。

ホストファミリーとして外国人学生さん達との生活を楽しんでいる余裕もなくなるでしょう。

仕事も復帰しなくてはいけなくなるでしょう。

 

私は狭い狭い世界の井の中の蛙でした。

 

離婚、幼稚園のお母さん達の目。華々しく結婚退職をして3年後に離婚、同僚たちの目。

これから、どうしよう…とにかく、状況から離れて考えよう。

ちょうど、幼稚園も夏休みに入る前でした。

 

夏休み期間を利用して息子と海外に短期留学。

決めたら即実行。2週間以内の出国を目標にインターネットで検索を始めました。2010年当時は、短期の英語留学は、グァム、ハワイ、フィジーが主流でした。

色々問い合わせをしましたが2週間以内の渡航は難しかったのです。

 

そこで、目に止まったのがフィリピン留学でした。

現在でこそ、フィリピン留学の認知度は上がっていますが、その当時はほとんどの人が知らなかったのです。

フィリピンといえばフィリピンパブのイメージしかなかったのです。

そして、価格を見てびっくり安すぎるのです。

3食付き。1日6時間授業。ホテル滞在。欧米への留学に比べて三分の一以下の価格であります。

ありえない。怪しすぎます。

留学斡旋会社のホームページのお問い合わせをすると、2週間後でも1週間後でも入学は大丈夫ですと… ますます怪しい。

フィリピンには、看護師時代にダイビングで3回旅行しています。

 

しかし、今回は3歳の息子リオを連れていくのです。安全が第一です。確認しないといけません。リオを連れて問い合わせした留学斡旋会社の事務所に直接出向きました。

 

その、留学斡旋会社の事務所は大阪難波、自宅から車で約30分。繁華街から離れた古びたビルの中でした。

 

ビルの前には、決してサラリーマンとは見えないカジュアルスタイルの26、27歳くらいの痩せた青年が私たちの訪問を待ってくれていました。

難波アメリア村の三角公園で座っている若者と大差ない青年でした。彼は、薄暗いビルの中、人ひとりがやっと通れるくらいの廊下の奥のさらに薄暗いエレベーターを上がって事務所に案内してくれました6畳くらいの事務所にフィリピン語学学校パンフレットが数枚置いていました。

 

「あの〜すみません…社長さんとお話し出来ますか?」「僕がそうです。」「えっあなたが社長さんですか?」「はい。社員はいません 僕一人でやっています。」「あ〜一人でも社長さんね。」大笑いしました。

 

その後、青年はフィリピン留学の説明。「僕もセブ島に行きますので心配しないでください。現地でお会いましょう」自宅によく来る背広を着た胡散臭いセールスマンとは違う素朴で誠実な対応にリオと私はその場で1週間後のチケットを手配。セブ留学を決定しました。

 

現在、その青年の会社は日本に数カ所事務所を構え、フィリピンセブ島で2校の語学学校を経営しています。青年は素敵な青年実業家になっています。

 

フィリピンの経済はウナギ登りに上昇しています。

 

1980年代の日本のバブル期のようにあちらこちらでビル建設ブームが見られる。語学学校だけではなく、外資系企業が次々に進出してきています。

成功のチャンスが多く転がっています。

反面、騙され足元を引っ張られ奈落の底に突き落とされる例も多くあります。私も含め、奈落の底に落とし込まれた日本人も多く知っています。

 

2010年の夏、私たちの42日間のセブ留学が始まりました。


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9. 海外進出の第一歩 フィリピン・セブ島親子留学


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19.フィリピン日系語学学校 BAYSIDE ENGLISH CEBU設立まで

留学斡旋ビジネスの成功

2012年1月、ミスター金へ、Regent Pacific College(RPC)の独占契約費用として1ミリオンペソ(約200万円)を支払い、私のRegent Pacific College (RPC) 日本人独占留学斡旋ビジネスは開始しました。

 

RPCの学生寮の一室に事務所を置き、フィリピン人事務員を一人雇用しました。フィリピンでは有名大学、サンカルロス大学新卒のジュナ。そしてインターンスタッフの日本人大学生、ハルとマルの4人でBAYSIDE ENGLISH CEBU の基盤となるRPC独占留学斡旋ビジネスがスタートしたのです。

インターンスタッフというのは、1日4時間の授業を提供し、その代わりに4時間学校業務を行うという半分学生、半分スタッフの事であります。

ハル、マルと私は、まずはRPCのPDFパンフレットとプロモーションビデオを作成、手当たり次第に留学斡旋エージェント会社のホームページお問い合わせフォームに送りました。

その当時(2012年)、バックパーカーで世界1周を果たした太田英基という青年がフィリピン留学についての著書「フィリピン「超」格安英語留学」が出版されベストセラーとなっていました。

そして、それまで全く知名度がなかったフィリピン留学は徐々に注目を浴びてきていました。

私も本を読みました。韓国人は英語が話せる。その裏にはフィリピン留学があるといったような内容でありました。

日本の留学斡旋エージェント会社は、注目が出てきたフィリピンの語学学校に日本人の留学生を送る学校を探していたのです。

数件の留学斡旋エージェントがすぐに学校見学にきてくれました。

そして、Regent Pacific College(RPC)への学生紹介を開始してくれたのです。また、2010年初めての私たちのセブ島親子留学で知り合った大学生イッシーから、夏休み1ヶ月間の大学生約50人の予約が入ったのです。

リオと私の親友韓国人英語塾講師のスージーは、韓国の英語塾にコンタクトを取り韓国からも数件の予約が入りました。

IT関係に強かったマルは裏方となりパンフレットの作成やエクセルによる学生管理、予約システムを作成し、活発で人当たりのいいハルは外回り、ピックアップや学生ケアに回ったのです。

私は留学斡旋エージェントとメールで営業にあたりました。イッシーからの学生団体の予約もあり6月にはすでに、2012年夏の予約は100人以上となったのです。

当時、ちょうどフィリピン留学ブームの駆け出し時期であったこともあり。良いタイミングでブームに乗ったのか?ビジネスのビの字も知らない私と二人の大学生は喜びと驚きと同時に夢が広がっていったのでした。

 

リオのバースディパーティ

2012年6月、リオの誕生日パーティと留学斡旋ビジネスの開始を祝い学校近くのホテルのプールを貸し切り、RPC講師達、学生達を招き盛大なパーティを開きました。

https://youtu.be/RSX7_Rw7n0w

https://youtu.be/iR_wlyPqY3g

しかし、喜びと夢もつかの間、悪夢と変わっていったのです。

 


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20. フィリピン日系語学学校 BAYSIDE ENGLISH CEBU開校


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7. 医療現場を走り続けた末に授かった宝物

RPC

日本での生活

医療現場を歩んできた私

私は日本で約16年間、急性期医療の現場で看護師をしていました。

急性期医療というのは、救急外来、ICU、外科病棟等であります。まさに命の前線で仕事をしてきました。

医療器具はどんどん進化していきます。勉強しないとついていけないのです。

休みの日には看護協会でのセミナー、結婚や家庭に憧れていましたが恋愛する時間もなく16年が経過していきました。

看護師の給料は悪くはありません。しかし、使う時間がないのです。1年に2,3 回ほど、1週間ほどの長期休暇をとって海外にダイビングに行く事くらいしか。

 

それ以外はほとんどプライベートの時間はないのです。ただ、貯金だけが増えていきました。

 

それでも、救命の前線でアドレナリンを噴出して、そしてやり遂げてホッとする時間が好きでした。

 

気がつけば34歳でした。35歳になれば、四捨五入すれば40歳になります。体力勝負の急性期医療ですが体力にも限界を感じ始めていました。物覚えも悪くなっていくのです。そして、医療現場しか知らない人生を振り返って焦っていました。

 

経験が長い分医療に関しての知識だけは豊富になっていきます。医者は経験、知識が豊富な中年看護師よりも、何も知らない新人看護師が好きなのです。新人看護師たちは次々に医者と結婚していきました。

 

私はお局様だったのです。

ナース

 

人生の宝物

そんな時、世の中ではエリートと呼ばれる男性に出会いました。彼は、私より12歳も年上でした。特にときめいたわけでもないですが、今つかまえとかないと一生お局様で終わってしまいます。

2004年2ヶ月間の交際でスピード結婚をし、夢の結婚退職をしました。

そして、すぐに息子リオを授りました私が35歳の時でした。

 

リオが可愛くて可愛くてたまらないのです。

 

ところが、私の夢の結婚生活は、結婚から1年半、リオが生後10ヶ月の時にスピード別居となってしまいました。

リオには申し訳ないですが、私はそれでもよかったのです。

 

人生最大の宝物リオがいるからです。リオを私に授けてくれただけで感謝でした。

 

それから、リオと私のふたり生活の始まりました。生活には困りませんでした。別居中であっても毎月60万円くらいのの生活費は入れてくれたからです。

 

地域の中では、有名幼稚園にリオを入れ、午後は、スイミングスクール、子供英会話スクール、公文 幼稚園のお母さんたちとの会話を楽しんでいました。

 

教育ママというわけではなくリオと二人で楽しんだのです。

 

そして、リオに色々な国の人達と交流してほしい。私も色々な国の人と交流したいという思いから、自宅近くの桃山大学の外国人学生のホストファミリーとなりました。

 

ほとんどの、学生はヨーロッパから日本にアニメの勉強のために留学していた。

 

ホストファミリーは、ビジネスではありません。ボランティアです。リオと学生たちと料理に旅行と生活を楽しみました。

 

日本での生活

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8. フィリピン・セブ島との出会いスクリーンショット 2018-01-15 15.52.26


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13. フィリピンで緊急入院

フィリピンで緊急入院 in ドマゲッティ

2011年8月、突然、当時4歳のリオが高熱を出しました。そして片方の足はパンパンに腫れていました。

早速ドマゲッティのシリマン大学病院に連れて行きました。

緊急入院が決まりました。

リオをフィリピンに連れて行くにあたり、日本で1年間の海外保険、特に医療に関しては最上級の保険に加入していました。

しかし、現在こそ、ドマゲッティには日本の語学学校や日本企業が参入していますが、当時日本人はほとんどいないかったのです。

もちろん、キャッシュレス(現金の支払いないでの治療ができる)提携は日本の保険会社と締結していなかったのです。

リオは緊急外来より一般病棟の狭い個室に移されました。

初めに入院保障金とお部屋代を支払うのです。そして医師が薬を処方してくれます。医師が処方箋を発行してくれるたびに、私が処方せんを持って薬局でお薬を買いに行き看護師に手渡すのです、それから看護師による投与が開始されるというシステムでした。

リオは高熱でぐったりしていました。

医師が処方箋を出すまでの過程も時間がかかります。リオを病室に残し病院内の薬局で薬を購入するまでも待ち時間もかかるのです。看護師が薬を点滴に調合し投与されるまで1日がかりです。

 

金銭の問題ではありません。

その間にリオの病状が悪化したらどうするのだ!!!

 

16年間、緊急医療に携わっていた私にはわかります。時間の大切さが…

私は多くの緊急場面を冷静に対応してきたという自信がありました。

しかしながら、海外で、それも大切なリオのことになると冷静さを失うのです。

早速、加入していた日本の海外保険会社に電話しました。

 

『子供の命がかかっている。どうにかしろ!!!』と。

 

日本の保険会社は素晴らしいです。

すぐに、シリマン大学付属病院とキャッシュレス提携を結んでくれました。

次の日、リオは、特別個室に移されました。

10畳くらいの病室に電動ベッドと、リビング、キッチンまであるのです。そして、温水シャワー(セブランの自宅は水シャッワーだった)大きなバスタブまでもあるのです。

 

まるで、ホテルの1室のようでした。

 

私は、もう処方箋を持って長い時間、薬局で並ばなくてもよくなりました。抗生物質の点滴投与が迅速に開始されました。医師、看護師たちは1時間おきと言ってもいいほど巡回してくれます。私のために病室にマッサージまでよんでくれるのです。(マッサージは保険適応外であります)

リオは、虫に噛まれた足を不潔な手でかきむしったため、そこからばい菌が入り蜂窩織炎になったとの診断でした。そして、高熱は蜂窩織炎によるものでした。リオの熱も足の腫れも3日後には完治しました。

しかし、医師は休養のためにとさらに1週間、そしてリオの手にできていた小さなイボまで治療してくれると、さらに1週間の入院勧められました。私とリオは2週間以上をシリマン大学付属病院のホテルのような特別室で過ごしました。

 

入院生活は快適でした。ボリバーで友達になったネグロスオリエンタル大学の学生たちが毎日病室に遊びに来てくれました。私たちは学生たちとトランプにUNO を楽しみました。時には、リオの担当医に外出許可もらい街のレストランにおいしいものを食べに行くこともできるのです。

 

シリマン大学病院の前には多くのトラシクルが待機しています。トラシクルに乗って3分で街の中心街に行けるのです。

入院中にネグロスオリエンタル大学の学生達に招待され、ボリバーで開催される大学恒例の行事ランタンパーティにも参加しました。願い事を書いたランタンをボリバーの海岸から海に流すのです。1000近くのランタンが海に流れます。また、空にも多くのランタンが飛んでいくのです。

この時の出会いがきっかけに2012年8月に開校したBAYSIDE ENGLISH CEBUに、ネグロスオリエンタル大学の数人の講師、事務員達が誕生しました。

 

そして、2013年より、BAYSIDE ENGLISH CEBUの講師採用にネグロスオリエンタル大学と提携、講師採用試験、面接をドマゲッティ、ネグロスオリエンタル大学やボリバーのホテル各所で開催、ドマゲッティより、BAYSIDE ENGLISH CEBUの多くの優秀な講師が多く誕生することになったのです。

 

ボリバーでは、時折、ドマゲッティの各大学や企業のイベントやお祭りが開催される。そんな時は、ボリバーのホテルは、ほぼ全て満室になるのです。

そんな時は、リオと私は、ボリバーから少し外れたマリアルイサというホテルを利用しました。

そこは、シリマン大学病院のリオの主治医の家族が経営していることを知らされました。

リオの退院間近の時、リオの主治医は、私たちをマリアルイサホテルで開かれたパーティに招待してくれました。

 

その時の出会いが、私たちのドマゲッティでの第2の生活へと繋がっていくのです。

 


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