どうなる?日本の子供達の将来

2011年3月、私は4歳の息子(リオ)を連れて、親子二人でフィリピンセブ島に移住しました。

2016年12月末、私はリオの安全を確保するために、冬休みバケーションという名目にて彼一人で日本の実家に送りました。

そして、2017年2月日本に帰国しました。

リオは、ママが迎えに来た。セブ島の学校に戻れると思ったのです。もう、セブ島には、二度と帰れないと説明してもリオには納得できませんでした。

リオが4歳の物心がついた時から8年間生活していたフィリピン セブ島は、リオにとってもう一つの母国だったのです。多くの友達がいました。フィリピンセブ島には彼の夢があったのです。 リオのセブ島

また、リオの母国語は英語となっていたのです。日本語を話すことはできましたが、読み書きは、ひらがな、カタカナ程度だったのです。

8年間過ごしたフィリピン、セブ島でのお友達ともお別れを言うことも出来ず、心の整理もつかないまま、突然、日本の学校へ転校したのです。何よりも、学校の授業は日本語で行われます。先生の言っている意味もわからないのです。当時、彼をインターナショナルスクールに入れる資金もありませんでした。

当時、リオは荒れていました。学校に行きたくない。アテネオ(フィリピン、セブ島の彼の学校)に戻りたいと毎日泣いていました。学校も多く休みました。

 

私は、リオと約束しました。

ママに1年間、時間を下さい。ママは1年間でリオがアテネオ(セブにリオの通っていた学校)に戻れるように準備してリオを迎えにくると約束しました。リオは1年間、日本に留学したと思って日本語をしっかり勉強しなさいと、、、

そして、2017年6月、リオの誕生日を終えて、リオと離れてひとりフィリピンセブ島に戻ったのです。

リオの日本

リオが生まれてから、私たち親子は生活も仕事の時も常に一緒でした。離れ離れに暮らすことは、私達にとって初めての経験だったのです。

 

私がセブ島に立ってから、リオは1日も休まず学校に行くようになりました。

リオの通う日本の公立小学校は、少人数のクラスで成り立っている田舎の学校です。

80才近い父親と学校の先生達と連携してリオの日本語サポートが行われました。放課後には、教頭先生がリオのために漢字の個別授業を行ってくれました。そして、先生達は、リオのテストやプリント全ての漢字にひらがなをつけてくれたのです。リオが6年生になるまでの1年間以上もです。

両親や小学校の先生達の温かい大きなサポートのおかげもあり、段々と彼は自信を取り戻すことが出来ました。友達も多く出来ました。

そして、2018年4月リオは中学生となったのです。

私のセブ島

傷つき荒れたリオを、ひとり日本に置いて来た当初、毎日、毎日考えるのはリオの事ばかりでした。そして、私には1年間しか時間がないと言う焦りでいっぱいでした。

2018年6月、リオとの1年の約束の時、日本に帰国しました。

約束の時

2018年6月、日本に帰国。リオは私がセブに渡った時とは違う生き生きした顔をしていました。

そして、中間テストの結果を私に自慢げに見せたのです。5科目の総合360点、平均点より少し高い点数でした。国語が20点だった事を考えると他の教科は、まずまず着いていけるようになったのです。

小学校5年生で、日本の学校に転校した時点では、ひらがな、カタカナくらいしかない日本語力だった事を考えると彼なりに、かなり努力したと言うことが伝わってきました。

また、野球部の先生を慕って野球部に入ったとユニフォームを見せてくれました。

彼は言いました。“ママ、日本もええで。ママ、フィリピンなんか危ないから日本に帰ってきたらいい。日本で一緒に住もうよ” と、、、

嬉しいやら、悲しいやら、、、やっぱり、嬉しい気持ちになりました。

そして、リオの頑張ったご褒美と誕生日のプレゼントに、リオから再三お願いされていたauの携帯電話をプレゼントしたのです。

そのことが、後に大きな問題となったのです。

リオに、もう少しだけ待って、、、とお願いし、私はセブ島に戻りました。

フィリピンの子供達と日本の子供達

セブでのリオは、多くの友達がいました。高級下の住宅地にあった私達の家には多くの子供達が集まっていました。小学校低学年から高校生まで年齢も様々なお友達が集まりました。殆どの子供達はスマートフォンの携帯を持っていました。しかし、彼らにとってのスマートフォンは、両親や友どちとの連絡手段や調べ物をする手段しかなかったのです。子供達同士で遊ぶ時には、プールや公園、自宅でお話をするのです。

日本では、フィリピンで購入したスマートフォンは自宅のwifiを使って、ママとの連絡手段や、リオにとって母国語となっていた英語での映画等を見る為に使っていたのです。

リオが6年生になったばかりの時、ゲーム機を買って欲しいと私に連絡が入りました。彼曰く、ゲーム機がなければ友どちと遊べないと言うのです。みんなで集まった時に、みんなゲーム機をコネクションして遊んでいる。僕はいつも見ているだけと言うのです。

ゲーム機がなければ、お友達と遊べないなんて、、、そんなバカな事あるはずがありません。“あなたにはスマートフォンがあるでしょう”と返信したのです。

すると、みんなスマートフォンを持っていないから、僕ひとりしか遊べないと言うのです。

8年間、セブ島で生活していた私には日本の小学生事情はわかりません。

“友達と遊ぶのにスマートフォンもゲーム機もいらないでしょう” と却下したのです。

 

そして、中学1年生になったリオは言いました。

みんな、日本のスマートフォンの携帯を持っているから、誕生日に買ってと。

 

現在、私はフィリピンの田舎町に住んでいます。

私の自宅には田舎に住むの多くの子供達が集まります。彼らの自宅にはテレビもガスコンロさえもありません。しかし、彼らは、一家に一台のスマートフォンを持っているのです。WIFIは、町役場で開放されています。子供達は、家の農家や漁業のお手伝いをしながら、時間を作っては町役場で、インターネットと英語を使って多くの情報を手に入れ勉強するのです。将来、家族の家計を助ける為に勉強するのです。

そんなフィリピンの子供達を見ていた事もあり、auスマートフォンをリオに誕生日プレゼントしたのです。

どうなる日本の子供達

2018年10月、再び私は日本に帰国しました。

私は、帰国と同時に両親から苦情を聞かされる事になったのです。

リオは、学校や塾から帰ってきて殆どの時間をスマートフォンを見て過ごしている、、、そのせいで成績も落ちてきたと言うのです。

リオの幼稚園時代のママ友たちと集まりました。リオの同級生5人の子供達も一緒です。ママ達がお話をしている間、子供達はそれぞれスマートフォンを見ているのです。そして、面白い動画を見つけるとその情報を交換するのです。子供達の会話はスマートフォンを通してなのです。子供たちは、みんな下を向いてスマートフォンを見ているのです。それも何時間もです。

レストランでも、同世代の他の子供達の間でも同じ光景が見られるのです。

 

日本事情に疎い私はびっくりです。

ママ友に “これ普通なの?” と聞きました。

ママ友によると、今の子供達の普通だと言うのです。

ママ友たちも子供達のスマホ依存症に手を焼いているとの事でした。

あるママは、夜10時になるとスマホを取り上げるようです。しかし、夜中まで永遠にラインの着信音は鳴っているとの事でした。

リオのスマートフォンのラインの着信音も、夜中まで鳴っているのです。

 

ママ友たちによると、子供達はラインで多くのグループを作っているのです。

友達のグループ、クラブのグループ、塾のグループ等、様々なグループ会話をするのです。

グループの子の中には、母親におやすみなさいと自分のお部屋に入って隠れてずっとラインをしていると言うのです。その為、夜中までラインの着信音がなると言うのです。

ママ達によると、子供達はスマホで連絡を取り合っているのでスマホがなければ遊びのお誘いもなくなると言うのです。

現に子供達の間で “あいつスマホ持ってないから面白くないから誘わんとこ” と言う会話がなされていると言うのです。

 

私の小さな世界の中だけかも知れませんが、、、

何かが間違ってると考えるのは私だけでしょうか?

さて、どうしたらいいものか、、、真剣に考えないといけません。

日本とフィリピン、死生観の違い

死に逝き方

日本とフィリピンでは老いによる死にゆく過程も違います。日本では、病院で体は点滴による水分補給にてパンパンに腫れた状態で孤独に死を迎えることが多いです。

家族の結束が固いフィリピンでは、家族の病気や死には必ずと言っていいほど付き添います。仕事を休んでも辞めてでも家族のための時間を惜しません。

フィリピン人の老による死は自宅で家族に見守られて徐々に痩せていくのです。

まるで木が枯れるように安らかに死んで逝くのです。

それは宗教にも関係しているのかもしれないと私は考察しています。

 

病院には、ガン告知や余命告知をされた人多くがいます。

ガン告知と余命告知は違います。多くのガンは、現在の医療で治癒する可能性があります。

ガン告知には希望がありますが余命告知は「あなたは、長く生きたとして後3ヶ月です」というように、命の終わりを告げられるのです。そこには生への希望はありません。

 

キュブラー・ロスという精神科医は、余命告知、死を通達され、それを受容する(受け入れる)までの心の動向過程を5段階に分類しています。

 

第一段階として、否認と孤立の心理となります。

余命告知を受け、自分の命が残りわずかであるという事実を否認し、そして事実から逃避しようとするのです。

これは何かの間違いであると心の中で反論します。しかし、病院や家族はその事実に基づいて動いていきます。事実を否定したい患者は周囲の人と距離を置いていくのです。孤立していくのです。

 

第二段階として、怒りの感情が生まれます。

自分が死ぬということの認識はできました。しかし、なぜ自分なのだ。他に悪い人間はたくさんいるのに、なぜ自分なんだ。と怒りの感情が生まれるのです。

 

第3段階として、取引の心理が働きます。

この時期は神頼みの心理ともいいます。信仰心が無くても神にすがるのです。そして、何かをする代わりに命を助けて欲しい。何かいいことをすれば神が命を伸ばしてくれると考えるのです。

 

第4段階として、抑うつの状態になります。

神や仏に頼んでも死が回避できないことを悟ります。頭では理解していても心が受け入れなかった死を感情的にも理解できるようになっていきます。この時期には、”神も仏もない”と、神や仏までにも否定的になっていきます。そして、悲観と絶望に打ちひしがれ、憂鬱な気分となります。

 

そして、最後の第5段階で受容の心理に到達します。

なんとか回避しようとしていた死を、“生命が死んでいくことは自然なことである” という気持ちなっていきます。自分の人生の終わりを静かに見つめることができ心に平穏が訪れるのです。

 

私は、約5年間終末期看護に携わりました。

終末期看護というのが死に逝く患者への看護です。終末期看護についての看護研究論文も多く書きました。看護学校で終末期医療の講義もしました。

私は、終末期医療に携わった経験より、死の宣告を受けたほとんどの患者の心理はこの過程にそって死に逝くと考えています。

ただ、最後の受容までたどり着く患者は少ないのです。5段階の過程の途中で命の火が消える人、過程の途中で心がつぶれる人、過程の途中で自ら命を絶つ人も少なくありません。

 

私の臨床経験を踏まえ、キュブラー・ロスの死の受容までの5段階を説いていきます。

第一段階の心理、否認と孤独では、最初に患者は医師より死に宣告を受け衝撃を受けます。

その衝撃により逃避の心理が働いた患者がいました。

彼は、膵臓癌の末期でした。膵臓は、体の背中部分に位置した臓器です。彼のガンは上手く心臓や大血管を傷つけることなくお腹部分に突き出していました。お腹に現れたゴルフ大くらいのしこりに気がつき病院に受診し検査入院としてやって来ました。

患者はチンピラ系の50歳くらいの男性でした。しかし彼は点滴の針だけでも怖がるくらい臆病でした。

医師による死の告知に彼は呆然となり、その後すぐに病院より姿を消しました。私は、もしかしたら、彼は自殺したのかもしれないと思っていました。

しかし、2週間くらいして状態が悪化し彼は再び病棟に帰ってきたのです。

そして私に言うのです「俺、もしかしてガンちゃうかな?」と。

再び医師によりガン告知と余命告知がされます。彼は再び呆然となるのです。

そして、次の日には「俺のお腹のできものあるやろ。これ、もしかしてガンかな?そんなことはないよな」と言うのです。

最期まで彼は、余命どころかガンであるということから逃避したまま逝ってしまいました。

彼は、自分の心を守るために否認の心理の中、逃避という自己防衛本能が働いたのではないかと私は考えています。

 

第2段階の怒りの段階では、多くの時間を共有する一番身近な家族や看護師に怒りの矛先が向く事が多くあります。

看護師への怒りの矛先は、特に若い溌剌とした看護師に集中します。配膳をひっくり返すことや、物を看護師に投げるつけるという暴力行為までに発展することもありました。

それは、ある意味の嫉妬心のようなものだと私は考えています。“あなたは、生き生きとして、生きられるが私は死んでいくのだ” と。

 

第3段階の取引や神頼みの心理では、時に患者はボランティア団体や宗教団体に大金を寄付するのです。

患者は、私はすべての財産を人のために投げ出した。私は人のためにいい事をした。その代わりに私の命を助けてください。延ばしてくださいと神と取引をするのです。

今後、必要になっていく入院費や痛み緩和に高額な医療費用の支出が予想されます。患者の死後に残される家族の将来の資金までをも寄付に使ってしまった患者もいました。そして、家族は嘆くのです。

病棟の中に宗教団体が勧誘を行うことは禁止しています。

それでも、終末期病棟には面会者のふりをしてでも宗教団体の勧誘はやってくるのです。また、病院の前には多くの宗教団体の勧誘が行われているのです。

私は、この時期の心理については取引や神頼みだけではなくもっともっと奥深い心理が働いているように感じてならないのです。

患者自身も突発的に起こす自分の行動に説明がつかないのです。

死に逝ったものだけが理解できる心理があるように思えてならないのです。

 

死の宣告をされてから死に逝くまでの期間は、自ら命を絶つ危険性は常にあります。

看護師は、自ら命を絶とうとする患者の心のシグナルを、患者の言動の中よりキャッチする為に常にアンテナをはり巡らさなければいけません。

 

第4段階の抑うつの時期には、その危険性がさらに高くなります。

この時期に病室から飛び降りた患者、退院や外泊中に自殺を図った患者も多くいました。

私には、この段階の患者の自殺で忘れられない経験があります。

余命宣告を受けた患者を取り巻く家族や医師、看護師、ケースワーカーと連携し患者にとってどのような死を迎えるのが望ましいのかを家族を中心にして死への環境づくりのサポートをしていきます。

家族や患者の希望により、地域医療と連携し体に多くのチューブを付けた状態での家族旅行を設定したこともありました。

ある50代後半の銀行員の患者、肝細胞癌の末期でした。いつも家族が彼の個室病室に集まりました。特に30歳くらいの娘さんは、毎日のように父親に寄り添っていました。常に患者の治療や看護方針を話し合うカンファレンスにも参加していました。

夕方6時もしくは7時くらいでした。

夕食が終わった時間帯でした。夕食に付き添った家族達は自宅に帰っていきます。

その患者の娘も父親の夕食を食べるのを見届けて自宅に帰っていきました。

娘が帰ったすぐ後、その患者のナースコールを受け患者の個室病室に訪れた若い看護師の緊急コールに私は病室に駆けつけました。

娘の置いていった果物ナイフで自分の腹を刺したのです。

そして、自分のしたことに驚いてナースコールをしたのです。

患者は必死に私の腕を掴み、お願いです。助けてください。死にたくないと叫び続けました。

末期がんであった患者のお腹には腹水と呼ばれる水が溜まり膨れています。

果物ナイフで刺した傷からは、腹水と血液が飛び出すように吹き出しベッドは血の色に染まり床まで血の海と化しました。

そうなるともう手遅れです。

患者は意識がなくなるまで私の手を握り命乞いをしながら逝ってしまいました。

病院からの連絡にて駆けつけた娘は、お父さんが食事をあまり食べなかったので、お腹が空いた時にりんごを食べて欲しいと果物ナイフとリンゴを置いた。私のせいで父親が死んだ。私が父親を殺したと自分を責め泣き崩れました。

医師、看護師ともに無力感でいっぱいになってしまいます。

病院は患者が死亡退院でも退院するまでのケアとなります。その後の彼女の消息は知りません。

この悲劇は、彼女の一生の傷になったことは間違いないでしょう。

 

第5段階の受容の時期について、医師や看護師間で死への受容について語りあうことがよくありました。

キュブラー ・ロスの受容モデルの最後の段階は、死を受け入れた受容ではなく、承認ではないかと考える医療関係者も多いのです。私もその一人であります。

死を受け入れるのではなく、死を認めざる得ないのではないかと…

 

死に行く人のみが知る心理の過程であります。本当のところは、まだ、生きている私達の誰にもわかりません。もしかしたら、死に逝った人さえも、解らないのかも知れません。

 

死の宣告を受けた患者は、患者の病状の進行状態や痛みを緩和させるために使う麻薬製剤の作用によって死に行くまでの心の過程の進み方には個人差があります。

しかし、ほとんどの患者は、キュブラー・ロスの死にゆく過程の5段階の過程に沿った心の動きが見られると私は経験を持って確信しています。

 

しかし、その私の確信を見事に裏切る患者がいました。

それは、28歳の青年でした。彼は特殊な種類の皮膚癌でした。

身体中の皮膚が肉芽や骨が見えるほどまで壊死して(腐って)いきます。溶けると表現した方がいいのかもしれません。

彼の頬の皮膚などは、すでに骨が見えていました。毎日、大量の麻薬製剤の痛み止めを服用し痛みを抑えていました。

そして、毎朝、彼の壊死し(腐って)黒くなった肉芽を除去する処置が1時間くらいかけて行われていました。彼の目で見える腕や肩の肉芽も除去され洗浄消毒されます。処置中も彼は痛みに対してしかめ面を見せましたが、それ以外は冷静に自分の壊死した皮膚の除去を見つめていました。その彼の表情に恐怖感が伺えないのです。

医師の病状説明や余命告知にも動揺することもなく穏やかに聞いていました。看護師との対応も常に穏やかでした。

彼のような心理ケースは、ほとんど稀でしかありません。

そして、彼はいつもベッドでゆっくりと聖書を読んでいました。

彼が死に逝くまで彼の態度は変わることがありませんでした。

 

真に信じる宗教が、生命が死んでいくことは自然なことであり、彼自身自然に身を任せていたのでしょうか?

私たちは、不思議な思いでした。

その後、彼のような心理ケースの患者数人と私は出会いました。皆、心から宗教信者でした。

 

フィリピンには、信仰心の深いカトリック信者が多くいます。熱心な信者は毎週日曜日に欠かさず教会に通います。

食べるものもスリッパも買うことのできない子供たちの笑顔も、フィリピン人の死に対する考えも、枯れるように老い死んで逝くのも、カトリック信者の多いフィリピンの国民性なのかもしれません。

 

2017年1月末、私は首つり自殺を図りました。

私を心配したボディガードのドイと、BAYSIDE ENGLISH CEBUの立ち上げた際の私の右腕であったジングルは、私にシマラという教会に行くことを強く勧めました。

シマラというのは、フィリピンセブ島の田舎にある有名なカトリック教会らしいです。そこで、すべてを神に話して欲しいと。きっと貴方を助けてくれるからと…

私は無宗教です。私の自殺の1週間後には私は日本に帰国しました。そのため、シマラという教会に行くことはありませんでした。

いつか行ってみようと思います。


 

日本医療現場の真実

 孤独最前線日本医療

フィリピンの医療現場では、命までもお金で買わなくてはいけない現状があるのです。

だからと言って日本の医療が絶対にいいとは言えないのです。

私は16年の看護師経験からの視点で述べます。

日本には医療が進みすぎたための悲劇、時間や規則に縛られ忙しさの中での見失ったもの、心がつぶれることによる悲劇が病院の中で多く見られるのです。

医療が進みすぎたため、死に向かう運命の人が生かされる現状があります。呼吸不全になれば、家族が望めば人工呼吸器に繋がれ腎不全になれば透析を回して生かされるのです。

時には患者の目は死にたいと訴えます。

そして、苦しい人工呼吸器を自己で外そうとするのです。そうなると医療事故となってしまいます。医療関係者は患者が人工呼吸器を自己で取り払わないように両手をベッドに固定するのです。

患者は顔が痒くても掻くこともできないのです。痛くても声を出して伝えることも、手も体も動かすこともできないのです。

そんな状態が何年も続く患者も多くいるのです。

 

脳梗塞や腎不全で入退院を繰り返す患者の家族は、病気が長くなるにつれて病院に来なくなっていきます。患者は、ずっと病院のベッドの上で一人寂しく過ごすのです。

 

死に逝く人がいます。

心電図モニターが装着されます。だんだんと心拍が弱くなってくきます。

看護師は「お父さん、今晩危ないですよ」と家族に電話をかけるのです。

家族が病院に駆けつけます。

すると家族の声を耳にした途端に患者の心拍が戻るのです。

危篤状態で意思表示できませんが、患者は家族の声を耳にした途端に死にたくない。生きたい。家族の声をもっと聞きたいと言う心理がそうさせるのだと私は信じています。

しかし、それが繰り返されると家族は「仕事で忙しいので死んでから連絡して欲しい」と言うのです。

ひどい場合には、「お父さん亡くなりました」と連絡をすれば、どうしても大切な出張があるので3日間預かってくれないかと耳を疑う返答が返ってくるのです。

 

老人病院では、若い看護師に排泄の世話をしてもらわなければいけない老人がいます。

彼らは現在の私たちの日本を築き上げてきた人達です。

プライドも羞恥心もあるのです。

そんな中、若い看護師の「また、うんこしたの!!!クサい」等の心無い言葉に彼らの心はつぶれていくのです。そして、自分を失っていくのです。

 

ICUでは、大量の消化管出血(胃や腸から出血)で運ばれてくるサラリーマンが多くいます。

命が危険にさらされているというのに、どうしても大切な取引先に電話しないといけないと駄々をこねるのです。

 

救急救命外来では、一人暮らしの老人が餓死直前の状態で運ばれてきます。

 

20代、30代の若者が自殺未遂で運ばれてきます。特に、クリスマスイブや誕生日の特別な日に自殺未遂をするのです。特別な日に自分は一人ぼっちだとふと気がつき命を絶とうとするのです。

 

もちろん、病院の中では、素晴らしい家族愛に心が打たれる場面も多くあります。

しかし、悲しいかな、最新医療が受けられるはずの日本の病院の中には日本人の心の歪みの方が多く見られるのでず。

 

病院の中で見た日本人の心の歪みについて述べると100時間は話せます。

 

医療関係者は、病院の中の人間の心の歪むに失望しながらも、たまにある美しい人間愛、家族愛に励まされ癒されそれを活力にして働いているのです。

 

人の幸せにするのも、不幸にするのも、その人の置かれている状況やお金ではなく、心が全てを左右すると私は考えます。

フィリピンセブ島の路上で物売りをする子供達の万遍の笑顔が物語っています。彼らには、スリッパさえも買うことができなく裸足の子供も多いのです。しかし、彼らの笑顔には一片の哀れさも感じられないのです。幸福感に満ち溢れた表情であるのです。

インフラが整い、欲しいものが簡単に手に入る日本で、特別の日にひとりであることに気づき、ふと自殺をする若者の方が哀れであります。

 

BAYSIDE ENGLSIH CEBUに滞在していた日本の子供達の中には、パニック障害の持つ子供や過換気症候群を起こす子供が多く見られフィリピン人講師達を驚かせました。

子供留学の多い夏休みや春休みのピーク時期には、私は学校看護師として頻回にその処置にあたりました。

また、ストレスによる日本や韓国で自殺が多いこともフィリピン人には信じられないのです。

フィリピンではほとんど自殺はないのです。あるとしたら恋愛に敗れて自殺をするという感情の国フィリピンらしいです。

フィリピン人に言わせれば、死ぬくらいなら、学校に行かなければいい。会社を辞めればいいのに、の一言で済むのです。

 


 

 

劣等感の塊だった私

劣等生

私は、幼い頃から劣等生でした。

 

私は4人兄弟の長女です。私の幼少期から高校生までの学生時代には、ほとんどと言っていいほど女の子の友達はいませんでした。

男の子の友達とばかりと遊んでいました。女の子達はおママごとやお人形で遊日ます。私は男の子達と外で泥々に遊んでいたのです。

 

幼児期の私の宝物は仮面ライダーのベルトと変身セットでした。小学校高学年になると女の子は家庭科の授業、男の子は技術の授業に分かれます。私は、どうしても男友達と大工作業がしたく、先生に頼み技術の授業に入れてもらいました。

母は、教育熱心でした。母曰く、母は幼い頃から美人で優等生でした。そして、エリートの父と結婚したことが母にとって誇りだったのです。

母は、子供たちにピアノに算数教室、そろばん、公文、家庭教師、スイミング…英語以外のあらゆる習い事をさせました。なぜ英語以外かというと母は英語ができなかったからだでしょう。

スイミング以外は、すべて私は落ちぶれていました。

そして、30年前、40年前の小学校、中学校では学校の成績順位は公表されていました。私の成績順位は後ろから数えたほうが断然早かったのです

小学校時代、4人の子供を持つ母親は、授業参観日になると子供達のクラスをハシゴして回らなくてはいけません。

私より2歳下の妹の教室では、母はいつも誇らしかったのです。妹は授業中にはピンっとまっすぐ伸ばした手を挙げ、先生に当てられるとはっきり大きな声で答えるのです。

私にとって、授業参観で母が教室の後ろに立つことが恐怖でした。手を挙げなくては母に叱られる。手を挙げて万が一にも先生に当てられたら答えられない。すると母にもっと恥をかかせることになる。先生に見つからないように工夫しながら小さくそっと手を挙げなければいけません。

そして、ピアノのレッスンほど私にとって苦痛なものはなかったのです。

自宅には大きなグランドピアノがありました。ピアノ教室はピアノの先生を私たちの自宅に招き、そこにレッスンを受けるために子供たちが集まりました。母親たちがお茶や会話を楽しんでいる間にピアノのレッスンが開かれるのです。

私は、ピアノの椅子に座ると回転性のめまいがしました。ピアノの椅子に座ると、ピアノを中心に天井から壁から全てがゆっくり回転するのです。母親がピアノの椅子の横に立とうものなら、回転速度は急速に早くなり目が回るのです。

クラシックピアノは、最初に幼児ピアノから、次にバイエルンというレッスンテキスト、次にソナタかソプラノというテキストに進んでいきます。

ソナタが先だったのか、ソプラノが先だったのか忘れました。そこまで、進んでいないから覚えていないのです。

半年に1回、ピアノの発表会がありました。母親は私と妹をドレスアップさせ発表会に臨むのです。私は、小学校4年生から6年生まで3年間も発表会で同じ曲を弾きました。

作曲者は忘れましたが「アラベスク」という曲、もしくはベートーベン「のエリーゼのために」どちらかです。2曲とも初級であるバイエルンのテキスト曲であります。それも音を外しまくりながら弾くのです。妹は小学校3年生の時には、モーツァルトの「トルコ行進曲」を一つも音を外さず弾くのです。

妹の演奏の後は拍手喝采となります。母親の誇らしい顔で妹を見つめ、そして私を睨むのです。

参観日やピアノの発表会の後には、妹がどのくらい誇らしかったのか父に自慢げに話し、そして私の授業参観やピアノの発表会でどれほど恥ずかしい思いをしたのかも父に話すのです。

ただ、スイミングだけは違いました。週に1回のスイミングスクールと、夏休みの間には、私たちの住む大阪堺にある浜寺水連学校学校という軍隊のような水泳学校に毎日通っていました。

当時、浜寺水連学校は、オリンピックに出るくらいシンクロナイトスイミングが有名でした。私は小学校六年生でスイミングインストラクターの資格習得まで進み、シンクロナイトスイミングのメンバーに選ばれたのです。

妹は幼稚園から小学校を卒業するまで、私と一緒にスイミングスクールも浜寺水連学校にも通っていましたが未だにカナヅチであります。

中学校に入って、部活は水泳部に入りました。中学一年の夏の大会では、私達の住む町の大会ではブレスト競技(平泳ぎ)で私は2位となり表彰台に立ちました。そして、堺の大会では、表彰台には立てなかったが高タイムで予選通過し大阪大会に進んだのです。あいにく大阪大会では予選落ちし全国大会には進むことはできませんでした。

水泳だけが唯一私の誇れるものでありました。

しかし、夏の大会の私の成果に母親は、勉強もできないくせに泳ぎだけできてどうするのと嘆いたのです。

そして、夏の水泳大会が終わった後、私は両親に「私はあなた達の飼い犬ではない」とメモを残して家出をしたのです。

 

ガキ大将

私は、近所のマーケットに、いつもたむろしていた世の中では不良と呼ばれる同級生達とマーケットの駐車場で過ごしました。

その間に、髪の毛にはオキシドールという消毒薬をつけました。オキシドールは髪の毛の色を抜いて茶色にするためです。ところが、オキシドールをつけすぎたのか、私の髪の色は茶色を通り越し金髪になってしまったのです。

また、安全ピンをライターで熱し熱消毒した後、安全ピンで両方の耳に3箇所ずつピアスを開けました。煙草も吸ってみました。

私の家出は、一日中、私を探し回った両親により深夜に連れ戻されました。

私の突然の変化に両親は動揺したのです。

そして、中学校三年生になる年の4月、私たちは大阪和泉市の田舎に引っ越しました。理由は、弟の小児喘息が悪化したため、空気の良い環境に引っ越すということでした。

隣には祖母の家も建て祖母も一緒に引越しをしました。

私にとって祖母が一緒だということが唯一の幸せでした。私が劣等生でも、髪の毛が金髪でも、祖母の私に対する態度は変わらないからです。

いつでもどんな時でも私を大切にしてくれました。

また、体が小さく、玉ねぎのように髪の毛を頭のてっぺんにまとめた祖母は私にとって可愛いい存在でもあったのです。

私は家族の住む隣の家、祖母の家に住みました。

新しい学校に転校するにあたり、父親により私の髪は黒く染められ耳のピアスは外されました。

転校先の和泉市の田舎の学校は、規則として男の子は全員坊主頭、女の子はオカッパでした。

ダサすぎる。

堺の学校では、男の子たちは当時はやりのチェッカーズの藤井フミヤや直之の髪型を真似ていました。女の子たちは、松田聖子や中森明菜の髪型を真似ていまいた。私は当時、不良の間で流行りだったサーファーカットをしていました。

堺の中学校はお弁当でしたが、和泉市は給食でした。

当時、私は牛乳が大嫌いでした。牛乳のせいで給食を食べるのが遅かったのです。

給食の時間の後は掃除時間となります。掃除時間には机を移動させるなければいけません。しかし、私が給食を食べるのが遅いため、掃除時間の開始が遅くなるのです。給食を食べるのが遅いのは、いつも私と背の低いケンでした。

田舎の学校の番長的存在であった酒屋のきよしくんが、「アホとチビは給食を食べるのが遅いなー」と言ったのです。どう考えてもチビはケンです。ということは、アホは私です。

私は泣きながら、私より体の大きいきよしくんに殴りかかっていったのです。

きよしくんは、男の子です。女の子には手を出せません。防御していました。

そして、家に帰った私は、こんなダサい学校には二度と行かないと親に告げました。

ところが、その晩にきよし君は男友達を引き連れて私の家に謝りに来たのです。

それから、きよしくんと私は親友となりました。

そして、ケンは私の舎弟(子分)となったのです。

私か、きよしくんの号令で、田舎の同級生の男の子たちは、家を抜け出して夜中のお寺に集まったのです。

田舎の夜中の集会は堺の集会とは違いタバコを吸ったりはしません。

度胸試しをするのです。

近くに丘の斜面にお墓があります。夜中に、一人ずつ丘の一番てっぺんのお墓に石を置くのです。

また、暗い暗い山道を30分ほど歩くと阿弥陀寺というお化けが出てきそうな古いお寺があります。途中には、お墓もあるのです。夜中に阿弥陀寺まで一人ずつ歩く度胸試をするのです。

いつも、一番に行くのは、きよしくん、次に一人ではお墓にも、山を越えることもできない弱虫のケンを連れて私が行きます。そして、次から来る子たちを待つのです。時には先に到着した私ときよしくんで次から来る友達を脅かしては、驚いた顔を見て大笑いしました。

もう30年以上も前のことです。私は、堺の友達とは引っ越ししてから交流はありません。田舎の中学校の男友達とは、今でも年に一回のだんぢり祭りに集まります。

あれから、30年、みんな家庭を持ち、おじさんになっています。30年間、年に一度、同じ話題で盛り上がるのです。

話題は中学3年生の私達の夜中の度胸試しです。

高校は、名前が書ければ合格できると言われていた通称「バカ太高校」と呼ばれる公立高校に入学しました。

他の兄弟は皆、お嬢様、お坊ちゃん私立高校を卒業しました。公立高校に通ったのは私だけです。

私は高校に入っても勉強をしませんでした。

 

看護師への道

私が高校二年の時、祖母が病気で入退院を繰り返しました。

私は、学校帰りには毎日祖母の入院する病院に通いました。両親には私が優しいところがあると思われるのは癪にさわります。祖母には私が病院に来たことは内緒にしてねとお願いしました。

自宅では祖母は、赤ちゃんのようにハイハイをしてトイレに行くようになったのです。トイレの中には、壁の突起部分を支えに立ち上がろうした祖母の爪痕がたくさん残されました。祖母の、排泄の世話だけは家族にさせたくないという意地が見えたのです。

バカな不良娘の私は祖母を助けるために看護師になろうと決めました。

それから必死で勉強しました。

当時は、看護師には准看護師という看護師の下で働く看護師免許が存在していました。

そして、私は准看護師学校に入学しました。なぜならば、働きながら自分の力で学校に行けるからです。

両親に話せば両親は学費を出してくれたでしょう。しかし、両親が介入することで干渉されます。そして、両親に干渉されると私のやる気は一気に失せることは目に見えてました。だから、自分の働いたお金で自分の力で准看護師学校に行くと決めたのです。

准看護学校でも必死に勉強しました。

30年ほど前には常に成績順位は公表されていました。200人以上の学生の中で私の成績順位はいつも3番以内でした。

成績順位が発表されるたびにすごい!!と同級生たちにもてはやされました。

私の人生で初めての経験でした。

成績で褒められた私は調子に乗ってさらに勉強しました。

私は、准看護師の次の進路として、授業費用が私立看護学校の10分の1であった国立病院附属看護師学校を受験しました。学費を親に頼りたくなかったからです。国立の看護学校であれば、私の働いた蓄えで補うことができます。

その後に、小泉潤一郎総理大臣の民営化対策でほとんどの国立病院は大学病院や民間病院に買収され姿を消すことになります。

しかし、看護大学もほとんどなかった25年以上前の当時では、国立病院附属看護学校は看護師のエリートコースであっりました。受験倍率は6倍でした。

国立の看護学校の受験科目には英語の試験科目はありませんでした。もし、英語の試験科目があれば合格することはなかったでしょうが、おかげで国立病院附属看護学校に合格できました。

祖母は私が国立の看護学校に入学して1年目、91歳で亡くなりました。

祖母がいなくなった家に滞在する意味もなく、私は家を出て独立しました。

それでも、私は勉強を続けました。「歩く看護辞典」と同僚達に呼ばれさらに調子に乗っていきました。

仕事の休みを医療、看護に関連した勉強会やセミナーの日に調整しました。

20年、30年前には、救急救命士という独立した資格はなかった。看護師が認定試験で所得できる資格に位置付けられていました。私は、救急救命士も、医療に関してのあらゆる資格や認定証を取得していったのです。

 

そして、気がつけば34歳となってしまっていた。

 

私は、物心ついてから高校を卒業するまで劣等感の塊でしたた。そして、両親や兄弟たちとも距離を置いていました。

リオが生まれたことで、やっと両親とも兄弟とも笑って話せるようになったのです。やっと「家族はいいものだな」と思えるようになったのです。

リオが家族を一つにしてくれたのです。

そして、ピアノの椅子に座っても目眩を起こさなくなりました。

 

現在、私はフィリピンの田舎に隠れ住みながら、時折、母に電話しリオの状況を聞きます。

母は、リオはあんたと同じで勉強嫌いやけど、夏の水泳大会では背泳ぎで一番になったと報告してくれました。

私は、母に勉強しないことを指摘しないで水泳大会で一番になったことを褒めてあげてとお願いしました。

 

劣等感の再発

BAYSIDE ENGLISH CEBU が開校して半年くらい後に、同じセブ、マクタン島に日本人経営の語学学校が開校されました。そして、日本で学習塾チェーンを経営するその語学学校オーナー元田氏(仮名)より、キッチンマネージャーのキクちゃんと一緒に夕食に招待されました。

元田氏は色々な国でビジネスをするビジネス仲間の友人と一緒でした。

彼らはビジネスの勉強会で知り合った仲間らしくビジネストークに花を咲かせていました。

彼らは、先に開校していたBAYSIDE ENGLISH CEBUのビジネスに興味を持って私に色々な質問をしてきました。

綾子さんのビジネスビジョンを聞かせて欲しいとかです。

ビジネスビジョン??ビジョンの言葉の意味がわかりません。

「特にないです」と返答しました。

また、BAYSIDE ENGLISH CEBU設立の意図なども質問してくるのです。

「なりゆきです」と、会話は続かないのです。

もしも、その場で綾子さんの看護観や死生観について、今後の日本の医療の展望をどう考えるか等を質問されたなら、私は1時間でも5時間でも話し続けることができたでしょう。

私は、彼らの質問の意味もビジネス用語さえもわからなかったのです。

私の子供の頃からの劣等感が再発しました。

元田氏は、「綾子さんすごいですねーさすがですねー」と連発していました。

すごいわけがない。何がさすがだ。建前である本音は馬鹿にしているのです。

この状態では足を引っ張られると思いました。

実際には、元田氏は私に気をつかい、話を繋げるために「すごい。さすが」と連発してくれたのでしょう。しかし、私の心の奥底にある子供の頃の劣等感が私にそう思わせたのです。

私はセブで滞在する日本人、特に同業者と接することは極力避けるようになりました。

本音と建前をうまく使い分け饒舌に話すことができないからです。まそして、ビジネスに関する経験も知識も自信もないからです。

そして、何よりも私の頭の中が、過去の私のように劣等感でいっぱいになってしまうのが怖かったのです。

 

リオと歩いたBAYSIDE ENGLISH CEBU

そして、BAYSIDE ENGLISH CEBU は、韓国系の語学学校協会に加入しました。

理由は、一つに韓国人経営の語学学校は10年以上にわたる歴史があります。そこから学ぶことが多いのです。

もう一つに本音と建前を使い分けなくてもいいからです。同じ言語を使わない分恥をかいたとして気付かないのです。

また、わからないことはわからないと聞くことが容易かったのです。

間違ったことを言えば、あなたは間違っていると教えてくれるのです。

そして、日本人に比べ子供に寛容的でありました。

営業にリオを連れて行くことができる環境であったのです。韓国系の語学学校合同での海外営業には、必ずリオを連れて行きました。

 

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

 


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自殺に至る精神

破壊された私

破壊された私の精神

私は16年の医療現場で多くの人の生死に関わってきました。

命の大切さは痛いほどわかっています。

そして、終末期看護(死に逝く患者に対しての看護)死生観、命の大切さについて看護学校で講義もしました。若い新人看護師達にも指導をしてきました。

また、自殺をすることによって、その家族に一生残す深い傷を負わせることになります。そんなことも痛いほどわかっています。

 

それにも関わらず、2017年1月末に首つり自殺を図ったのです。

 

私は、余命告知をされた患者ではありません。

そして、ふと一人ぼっちだと気がつき寂しさのあまりに死を選びません。

私は一人ではないのです。リオがいるからです。

それは、寂しくてからではありません。

恐怖のあまりに心が破壊したのです。

心の判断能力機能が完全に破壊したのです。

 

今考えても自分の行動に説明がつかないのです。

 

当時、BAYSIDE ENGLISH CEBUの、学生が学校の資金不足のために食事や水の与えることもできなくなる。餓死してしまうという脅迫観念に私の心は支配されていました。

そして、BAYSIDE ENGLISH CEBUに入学が予定されている学生さん達は空港で難民となるのです。

それは、国際問題となります。

リオや家族は大勢の学生さん達の死により国際社会から非難され日本に住むことができなくなるのです。

家族の財産は全て奪われてしまいます。

私はフィリピンで殺されます。

リオも家族も殺されるのです。

そんな、脅迫観念に私の心は支配されてました。

 

私の心理状態は、死を目の前にした患者と同じ心境となっていたのです。

死を目の前にした患者は、小さな音でも驚くのです。

私は病室のドアを閉める時には、常にドアの閉める音を立てないように閉めました。

そして、死に逝く患者に絶対に背中を見せません。患者の病室を退出する時は後ろ歩きし患者に向き合った状態のまま病室から退出するのです。

なぜならば、死を前にした患者は看護師や家族の後ろ姿を見るだけでも恐怖を感じるのです。

 

当時の私の中での死は私だけの死ではないのです。何十人という学生の死とリオと家族の死、そして私の死なのです。

 

電話の音や車の音だけでも恐怖で震えるのです。

 

家の外で遊ぶ子供達の笑い声に、BAYSIDE ENGLSIH CEBU に滞在する30人余りの可愛い韓国人の子供達が餓死する姿を連想して震えが止まらなくなるのです。

人と会う。人を見ることにも恐怖を感じるのです。

 

恐怖は精神を破壊します。

 

恐怖のあまりにペットボトルの水を一気に2リットル飲み干します。

また、すぐに喉が乾くのです。

そして、また2リットルの水を一気飲みするのです。そ

して、それは一日中繰り返されるのです。

 

そして、キュブラー・ロスの死に逝く心の過程、第3段階の取引き、神頼みの心理となっていったのです。

 

「私の命をささげるので、どうかリオと学生さん達を守って下さい」と。

 

そして、ふらふらとベランダに出ては、洗濯物のロープを取り外し、ベランダの階段に首つりのロープを準備するのです。

何度も首を吊ろうとするができないのです。

大量の水を飲みながら、その行為は朝まで続けられるのです。

朝、ヘルパーさんが、首つりロープを外し洗濯ものを干します。

そして、次の日の夜も、また次の日の夜も、それは繰り返されるのです。

毎朝、首つりロープを外して洗濯物を干さなくてはいけないヘルパーさんがどう思うなどは考えられないのです。

 

また、夜中に震えながら飛び降り自殺をしようと車で建設中の新学校まで車を走らせました。

しかし、建設作業員たちがそこで寝泊まりをしていました。

そして、ゆっくりと自宅に帰ります。

そして、また、別の日にも新学校から飛び降りようと車を走らせるのです。

建設作業員が建設現場で寝泊まりしていることなどすっかり忘れているのです。

そして、また建設現場の作業員が寝泊まりしていることに気づき自宅に帰っていくということが繰り返されるのです。

 

当時、私の状況をヘルパーさんの情報より知ったボディーガードドイは、私には秘密で住宅街のセキュリティガード、町警察と連携して私の行動を監視するシステムを固めました。

私の行動を常に監視し、ドイと町警察に連絡が行くように整えたのです。

そして、いつものように夜間に自殺行為を繰り返す私は、住み込みのヘルパーさんよりセキュリティガードに通報され、町警察にて病院に連れて行かれました。

 

この時の私の心理や行動は、いくら考えて私自身もわからないのです。

 

私は、当時の破壊された私の精神状態の説明は未だにできないのです。

 

しかし、私の心が、どういう過程で破壊されていったのか分析できるまで回復しました。