どうなる?日本の子供達の将来

2011年3月、私は4歳の息子(リオ)を連れて、親子二人でフィリピンセブ島に移住しました。

2016年12月末、東進ハイスクール元カリスマ講師達の息子の命を脅かす脅迫や会社ハイジャック等の事件最中、私はリオの安全を確保するために、冬休みバケーションという名目にて彼一人で日本の実家に送りました。

そして、私も脅威から逃げるように、2017年2月日本に帰国しました。

リオは、ママが迎えに来た。セブ島の学校に戻れると思ったのです。もう、セブ島には、二度と帰れないと説明してもリオには納得できませんでした。

リオが4歳の物心がついた時から8年間生活していたフィリピン セブ島は、リオにとってもう一つの母国だったのです。多くの友達がいました。フィリピンセブ島には彼の夢があったのです。 リオのセブ島

また、リオの母国語は英語となっていたのです。日本語を話すことはできましたが、読み書きは、ひらがな、カタカナ程度だったのです。

8年間過ごしたフィリピン、セブ島でのお友達ともお別れを言うことも出来ず、心の整理もつかないまま、突然、日本の学校へ転校したのです。何よりも、学校の授業は日本語で行われます。先生の言っている意味もわからないのです。当時、彼をインターナショナルスクールに入れる資金もありませんでした。

当時、リオは荒れていました。学校に行きたくない。アテネオ(フィリピン、セブ島の彼の学校)に戻りたいと毎日泣いていました。学校も多く休みました。

 

私は、リオと約束しました。

ママに1年間、時間を下さい。ママは1年間でリオがアテネオ(セブにリオの通っていた学校)に戻れるように準備してリオを迎えにくると約束しました。リオは1年間、日本に留学したと思って日本語をしっかり勉強しなさいと、、、

そして、2017年6月、リオの誕生日を終えて、リオと離れてひとりフィリピンセブ島に戻ったのです。

リオの日本

リオが生まれてから、私たち親子は生活も仕事の時も常に一緒でした。離れ離れに暮らすことは、私達にとって初めての経験だったのです。

 

私がセブ島に立ってから、リオは1日も休まず学校に行くようになりました。

リオの通う日本の公立小学校は、少人数のクラスで成り立っている田舎の学校です。

80才近い父親と学校の先生達と連携してリオの日本語サポートが行われました。放課後には、教頭先生がリオのために漢字の個別授業を行ってくれました。そして、先生達は、リオのテストやプリント全ての漢字にひらがなをつけてくれたのです。リオが6年生になるまでの1年間以上もです。

両親や小学校の先生達の温かい大きなサポートのおかげもあり、段々と彼は自信を取り戻すことが出来ました。友達も多く出来ました。

そして、2018年4月リオは中学生となったのです。

私のセブ島

傷つき荒れたリオを、ひとり日本に置いて来た当初、毎日、毎日考えるのはリオの事ばかりでした。そして、私には1年間しか時間がないと言う焦りでいっぱいでした。東進ハイスクール元カリスマ講師達への告訴とリオをセブ島に戻すたの資金作りから始めました。自宅や車等の資産を資金に変えることから開始したのです。

特に、資金調達に時間を費やしてしまったのです。あっという間にリオとの約束の1年は来てしまいました。東進ハイスクール元カリスマ講師達への刑事告訴の目処が付いた頃でした。

2018年6月、リオとの1年の約束の時、日本に帰国しました。

約束の時

2018年6月、日本に帰国。リオは私がセブに渡った時とは違う生き生きした顔をしていました。

そして、中間テストの結果を私に自慢げに見せたのです。5科目の総合360点、平均点より少し高い点数でした。国語が20点だった事を考えると他の教科は、まずまず着いていけるようになったのです。

小学校5年生で、日本の学校に転校した時点では、ひらがな、カタカナくらいしかない日本語力だった事を考えると彼なりに、かなり努力したと言うことが伝わってきました。

また、野球部の先生を慕って野球部に入ったとユニフォームを見せてくれました。

彼は言いました。“ママ、日本もええで。ママ、フィリピンなんか危ないから日本に帰ってきたらいい。日本で一緒に住もうよ” と、、、

嬉しいやら、悲しいやら、、、やっぱり、嬉しい気持ちになりました。

そして、リオの頑張ったご褒美と誕生日のプレゼントに、リオから再三お願いされていたauの携帯電話をプレゼントしたのです。

そのことが、後に大きな問題となったのです。

リオに、もう少しだけ待って、、、とお願いし、私はセブ島に戻りました。

フィリピンの子供達と日本の子供達

セブでのリオは、多くの友達がいました。高級下の住宅地にあった私達の家には多くの子供達が集まっていました。小学校低学年から高校生まで年齢も様々なお友達が集まりました。殆どの子供達はスマートフォンの携帯を持っていました。しかし、彼らにとってのスマートフォンは、両親や友どちとの連絡手段や調べ物をする手段しかなかったのです。子供達同士で遊ぶ時には、プールや公園、自宅でお話をするのです。

日本では、フィリピンで購入したスマートフォンは自宅のwifiを使って、ママとの連絡手段や、リオにとって母国語となっていた英語での映画等を見る為に使っていたのです。

リオが6年生になったばかりの時、ゲーム機を買って欲しいと私に連絡が入りました。彼曰く、ゲーム機がなければ友どちと遊べないと言うのです。みんなで集まった時に、みんなゲーム機をコネクションして遊んでいる。僕はいつも見ているだけと言うのです。

ゲーム機がなければ、お友達と遊べないなんて、、、そんなバカな事あるはずがありません。“あなたにはスマートフォンがあるでしょう”と返信したのです。

すると、みんなスマートフォンを持っていないから、僕ひとりしか遊べないと言うのです。

8年間、セブ島で生活していた私には日本の小学生事情はわかりません。

“友達と遊ぶのにスマートフォンもゲーム機もいらないでしょう” と却下したのです。

 

そして、中学1年生になったリオは言いました。

みんな、日本のスマートフォンの携帯を持っているから、誕生日に買ってと。

 

現在、私はフィリピンの田舎町に住んでいます。

私の自宅には田舎に住むの多くの子供達が集まります。彼らの自宅にはテレビもガスコンロさえもありません。しかし、彼らは、一家に一台のスマートフォンを持っているのです。WIFIは、町役場で開放されています。子供達は、家の農家や漁業のお手伝いをしながら、時間を作っては町役場で、インターネットと英語を使って多くの情報を手に入れ勉強するのです。将来、家族の家計を助ける為に勉強するのです。

そんなフィリピンの子供達を見ていた事もあり、auスマートフォンをリオに誕生日プレゼントしたのです。

どうなる日本の子供達

2018年10月、つい最近、東進ハイスクール元カリスマ講師達の起訴が決定し、ひと段落付いたこともあり日本に帰国しました。

私は、帰国と同時に両親から苦情を聞かされる事になったのです。

リオは、学校や塾から帰ってきて殆どの時間をスマートフォンを見て過ごしている、、、そのせいで成績も落ちてきたと言うのです。

リオの幼稚園時代のママ友たちと集まりました。リオの同級生5人の子供達も一緒です。ママ達がお話をしている間、子供達はそれぞれスマートフォンを見ているのです。そして、面白い動画を見つけるとその情報を交換するのです。子供達の会話はスマートフォンを通してなのです。子供たちは、みんな下を向いてスマートフォンを見ているのです。それも何時間もです。

レストランでも、同世代の他の子供達の間でも同じ光景が見られるのです。

 

日本事情に疎い私はびっくりです。

ママ友に “これ普通なの?” と聞きました。

ママ友によると、今の子供達の普通だと言うのです。

ママ友たちも子供達のスマホ依存症に手を焼いているとの事でした。

あるママは、夜10時になるとスマホを取り上げるようです。しかし、夜中まで永遠にラインの着信音は鳴っているとの事でした。

リオのスマートフォンのラインの着信音も、夜中まで鳴っているのです。

 

ママ友たちによると、子供達はラインで多くのグループを作っているのです。

友達のグループ、クラブのグループ、塾のグループ等、様々なグループ会話をするのです。

グループの子の中には、母親におやすみなさいと自分のお部屋に入って隠れてずっとラインをしていると言うのです。その為、夜中までラインの着信音がなると言うのです。

ママ達によると、子供達はスマホで連絡を取り合っているのでスマホがなければ遊びのお誘いもなくなると言うのです。

現に子供達の間で “あいつスマホ持ってないから面白くないから誘わんとこ” と言う会話がなされていると言うのです。

 

私の小さな世界の中だけかも知れませんが、、、

何かが間違ってると考えるのは私だけでしょうか?

さて、どうしたらいいものか、、、真剣に考えないといけません。

美人は世界に通じる  ~ Beauty is acceptable all over the world~

美人は完璧になり得る(私の自論) ~Beauties can be perfect~

私は、2012年より5年間、フィリピンセブ島で語学学校を経営していました。

濃厚なマンツーマン授業を受けるフィリピン留学は日本でもブームとなっています。日本、韓国、台湾を中心に多くの学生達がセブ島に留学しています。

私の経営していた語学学校でも、常に100人〜300人の学生が滞在していました。マンツーマン授業が主流なフィリピン留学では、学生の数に相当の講師の数と、学生を支えるスタッフ達が必要となってきます。

その為、年2回のジョブフェアー(雇用試験と面接)を各地大学等で開催し、講師雇用を行っていました。

ジョブフェアーでは、試験や講師としてのスキル、デモンストレー、面接が行われます。私は、地方での講師採用のジョブフェアーには必ず参加していました。

講師として能力等については、プロのアカデミックヘッド(校長先生)や、講師トレーナー達が判定します。

私が見るのは、外見的美貌や清潔感、外国人に対応できるマナー等であります。

 

私の趣味の範囲でもありますが、

地方(田舎)の素朴な美人を見つけるとダイヤモンドの原石を発掘したような幸福感に満たされるのです。

特に新卒の素朴な美人を見つけると喜びは頂点に達するのです。

 

ダイヤモンドの原石は、ただ単に美人では駄目なのです。アトラクティブな美人なのです。愛嬌のある美人でなければならないのです。

 

もちろん、語学学校の英語講師としての素質も大切です。元々大学の教育学部等を卒業している事もあり、講師としてのスキル等は、講師トレーナーや先輩講師から学ぶ事ができるでしょう。その部分は、教育のプロが育てて行けばいいのです。

 

授業がわかりやすくていい講師だけど、美人だったら完璧なのに!! というのもあります。

 

美人は、磨けば完璧になり得るのです。

 

田舎から出てきた講師達は、初めはすごくシャイです。トレーニングと、学生達によって、段々と自信を付け優秀な講師に成長していくのです。

それに美人が加われれば、生徒たちに、もてはやされれば、もてはやされるほど、あか抜けていくのです。おしゃれになっていくのです。美貌にも磨きがかかるのです。パーフェクトのなり得るのです。

素朴な美人から、華やかな美人と変化していく過程を見ることのは楽しみのひとつでもあるのです。

 

それは、講師だけではなく、オフィススタッフにも言えます。

経営部隊は、事務長や会計士や人事部長等は、専門的な能力が必要です。裏舞台で会社の歯車となります。特に美貌は必要ないでしょう。

 

しかし、学生対応の事務員達は、アトラクティブな美人が求められるのです。

苦情も少なくなるのです。

このような、可愛い女の子達がいるオフィスは、ハーレムのようです。

 

そして、毎日、“今日も可愛い” “おしゃれ” ” 綺麗だね”と声をかけるのです。

すると、更に可愛く、おしゃれに、美人になっていくのです。

 

そして、毎日笑顔で仕事ができるのです。

 

もし、私がおっさんであれば、それはセクハラと受け取られるでしょう。

でも、おばさんだから大丈夫なのです。

実は、女性は異性より同性から褒められる方が嬉しいのです。

 

そして、美人は看板娘、広告塔にもなれるのです。

 

旬は、22歳から28歳くらいまででしょう。

 

30歳を超えたら、女性をアピールするより、母性をアピールする方が良いでしょう。少し惜しい人もです。

母性は、結婚している子供がいるに関わらず、女性の本能にあるものなのです。前に前に出るのではなく、一歩引いて見守れる気配りができる女性となればいいのです。

 

私の自慢のダイヤモンド達は、美貌だけではなく知性も備わっているのです。

彼女達は、全員、私が経営していた語学学校の職員達です。

もう、彼女達は、そこにはいません。

現在、彼女達は、それぞれ巣立ち、もっと大きな世界で活躍しているのです。

 

美人は、人を幸せにするというお話でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フィリピンセブ島 日本人社会の光と闇

(私の狭い世界の中での小さな見解)

セブ島の発展と共に変わり行く日本人社会

2011年3月、私は当時4歳の息子と共にフィリピンセブ島に親子移住してきました。そして、2012年8月に語学学校BAYSIDE ENGLISH CEBUを設立、2016年1月17日までの5年間、会社経営に携わってきました。

息子は2016年12月に彼の安全のために、先立って日本へ帰国しましたが、私は現在も尚セブ島の田舎町で暮らしています。

すでに私がセブ島で生活して8年以上が経過しています。

 

この8年間で、セブ島は大きく変わりました。

現在、フィリピン経済の成長に伴い、自家用車を持つ人が増え道路は渋滞しています。8年前、私たち親子がが住むマクタン島から、30分ほど車を走らせると、セブ市街まで出ることができました。今では2時間もかかってしまいます。

ローカルだったマクタン島にも、おしゃれなショッピングモールやレストランが立ち並び、あちこちでビルの建設が行われています。

 

2011年当時、セブ島に在住するほとんどの外国人は韓国人でありました。そして、中高齢の方を中心に少数の日本人がセブ島に在住していました。

当時4歳の息子は日本人の生活を守るコミュニティである日本人会が運営する日本人補習校に日本語の勉強の為に通っていました。

毎週土曜日、私達が住むマクタン島から、30分程、車を走らせてセブ市街に位置する日本補習校に息子を送り届け、息子が授業を受けている間、そのビルの1階にあったマニラ新聞社が経営する喫茶店でネット上での仕事をしながら時間を潰すことが、その当時の週末の私の日課でした。

当時、セブ日本人補習校の同じ敷地内にセブ日本人会が併設されていました。いつも、お昼時になると、日本会の役員や職員達がマニラ新聞内の喫茶店に集まっていました。

私は、聞き耳を立てていたわけではありませんが、小さな喫茶店内で彼らの話は私の耳に入ってきます。

若い奥様のお惚気話、家族の幸せ話、セブ島でのニュース等の話など、まるで老人ホームでの会話のような、耳に入る彼らのホンノリした会話内容にホッコリしていたのを思い出します。

時には、毎週末、喫茶店で顔を合わせる私に、セブ島に何十年も暮らしている前日本人会会長や役員の方より、セブで暮らすための助言をいただいたりすることもありました。

当時の私にとってのセブ日本人会とは、小さい街のコミュニティを感じる暖かい空間であったのです。

 

2013年頃より、格安でマンツーマン英語授業が得られるセブ島語学学校の日本ブームや、IT企業などの多くの日系企業のフィリピンセブ島参入が始まったのです。

その頃より、フィリピンセブ島の小さなコミュニティであった日本人社会は大きく変わっていきました。

小さなコミュニティの中の、小さなセブ島の窓口である日本人会、そしてセブ島の小さなコミュティ雑誌の窓口に、日本からフィリピンセブ島でビジネス参入を計画するビジネスマン達が殺到するのです。

すなわち、突然、多くのビジネス案件が、ローカルセブの小さな窓口に殺到するのです。

そして次第に、ホッコリした老人会のような日本人会は、ビジネスマン達によって運営されるようになって行ったのです。また、もう一つの小さな窓口であったコミュニティ雑誌と共に大きな勢力に変わって行ったのです。

更に日本から新規参入してきたビジネスマン達は、その大きな勢力の一員となろうと、ビジネスの繋がりを求めてその勢力に群がって行くのです。

次第にその勢力は拡大し、フィリピンセブ島に住む日本人達とって、最大権力をもつグループへと成長していったのです。

素晴らしい日本のビジネスマン達によって運営される日本人会は、セブ島での日本人会主催の盆踊り大会でも伺えるように、3万人以上の日本人観光客を呼び込み、そして、成功を収めるほどまでの力を発揮するのです。

 

発展するセブ島日本人社会に潜む闇

セブ島最大勢力の拡大と共に、セブ島に暮らす日本人達にとって、フィリピン最大勢力を支配する権力を持つ者の存在も言葉も大きな力を持つものになって行くのです。

フィリピンセブ島の日本人社会での情報は軽いです。情報の信憑生や根拠、証拠を確認することもなく、権力の持つ者から発信される情報のみを信じ、その情報に皆が流れるという傾向が現れるのです。

そして、権力のあるものは神様のように称えられるのです。

 

それは、日本でも同じことが言えるかもしれません。

しかしながら、日本では多くの権力のある人(著名人)から、多くの情報が発信されます。 どの人から発信される、どの情報を信じるのか選択し判断することができるのです。

フィリピンセブ島という小さなコミュニティの中では、巨大な一大勢力しかないのです。

そして、小さなコミュニティの中での日本人対象にしたビジネスは、それぞれ繋がりあっているのです。

セブ島でビジネスを展開する日本人たちは、生活の為にも、彼らのビジネスを守らなくてはいけません。その為には、有権者とは違う意見があっても、大きな声を出して言う事ができない環境が作られていったのです。

大きな勢力から干されないように、言動に注意をしながら暮らしていくのです。

 

まるで、剛健政治のように…

 

セブ日本人会に求める事

セブ日本人会主催により、毎年、素晴らしい盆踊り大会が開催されます。

私は、参加した事はありませんが、3万人以上の観客を集める盛大な夏祭りです。

セブ日本人会の役員であった、東進ハイスクール元カリスマ講師より、その盆踊りの度に一口5万ペソ(約12万円)の寄付をするように毎年勧められていました。

東進ハイスクール元カリスマ講師によると、“セブで生きていく為には、セブの日本人のつながりは大切である” とのことでした。

セブに住む日本人と全く接点がなかった、私もセブのしがらみの為に、セブで干されないために寄付をしていました。

また、セブ日本人会役員であるという事は、東進ハイスクール元カリスマ講師の権力を増強させ、そして、それは私への脅迫にも使われました。

刑事告訴状に対しての、東進ハイスクール元カリスマ講師の反論陳述書にも、セブ日本人会の名前は記されています。

 

セブ日本人会の役員である事をアピールする事が、検察が起訴、不起訴を決定するにあたり、どういう影響があるのか?どういう意味があるのか?私にはわかりません。

 

いったい日本人会とは何なのでしょう?

 

日本人会 – Wikipedia

日本人会(にほんじんかい)とは、世界(日本国外)に長期在住する日本人の交流会である“

 

今後、更にセブ島は発展して行くでしょう。

セブ島に移住する日本人の人口も増加するでしょう。

セブ日本人会が、セブ島で暮らす日本人にとって、安心できる自由に意見を発言できる交流の場になって欲しいものです。

 

いい人、悪い人、普通の人

最近、誰かが私にそっと教えてくれました。

フィリピンセブ島の日本人は、いい人10%、悪い人50%、普通の人40%だと。

私は、確かにその通りだと思いました。

 

そして私は、日本に住む日本人で例えると、

いい人50%、悪い人10%、普通の人40%だと思いました。

私の認識での、いい人、悪い人、普通の人は…

 

いい人: 自己の持つ価値観と道徳に従って表現、行動ができる人。

普通の人:自己の生活に被害がないように、自己の価値観や道徳と違っても上手く渡っていく人、または、利害関係社会に繋がらない人。

悪い人:利害関係のみで動く人。

悪い人の中には、犯罪に関連した極悪人も数%含まれます。それは特殊な人でしょう。

フィリピン人を卑下する日本人

 

私は、普通の人です。

私は、利害関係で繋がった日本人社会の中に極力入り込むことを避けました。

その理由のひとつは、私はフィリピン人社会の中で、フィリピン人達と語学学校を設立し育てあげてきました。私たちのビジネスの顧客は、日本、韓国、台湾等の外国であり、フィリピンセブ島に住む日本人の利害関係と繋がる事に必要性を感じなかった為であります。

そして、一番の大きな理由として、私自身に権力を持つ者に媚を売り、上手く立ち回るノウハウや、滑舌にビジネストークをする能力も自信もなかったからです。

それでも、セブでの日本人社会との唯一のつながりであった(元友人と思っていた)東進ハイスクール元カリスマ講師や、セブ島にて営業する同業者や関係者達と時間を共にしなければいけない機会が幾度かありました。

しかしながら、悲しいかな、彼らとの会話からは、私にとって何も得られるものはなかったのです。

自己のビジネス自慢と派手な売り込み、フィリピン人に対しては、頭が悪い、手癖が悪い、仕事が遅い、自己中心的だ、育ちが悪いと散々バカにして、あたかも上から見下げた視点での話しかないのです。

東進ハイスクール元カリスマ講師は、フィリピン人を犬と表現しました。また、セブ島に住む日本人の中には、ブログやFBなどの公開される場所にてまでも、フィリピン人を猿と表現した投稿も目にします。

SNS大国フィリピンでは、翻訳機能を使ってフィリピン人達はちゃんと見ています。私の日本語のブログも読んで、適切なコメントやアドバイスをくれているのです。

彼らを卑下する日本人の態度や言動に、地元人から見る日本人のイメージは地に落ちて行くのです。そして、彼らからの信頼を失って行くのです。

フィリピンという国で、フィリピン人を卑下する前に、フィリピン人が信じられないと愚痴こぼす前に、あなた達のフィリピン人に対する考え方や見方をまず、考え直すべきではないでしょうか?

そうすると、彼らとの距離も必然的に近くなって来るでしょう。信頼関係が生まれて来るでしょう。

私が、5年間フィリピンでフィリピン人達と仕事をした中で、フィリピン人職員に騙された経験は一度もないのです。

最終的には、私は信用していた日本人に裏切られ全てを失い、フィリピン人職員達までをも不幸にさせてしまいました。

しかし、それでも、私を立ち上がらせてくれたのはフィリピン人達です。今、私が闘えるのもフィリピン人達が支えてくれているからなのです。

そういうフィリピン人達は、意外にも何の報酬を求めないのです。

 

セブ島日本人社会の新たな出会い

私は、フィリピン語学学校経営者という立場でセブ島でビジネスを展開するビジネスマン達との関係の中、利害関係でつなるセブ島の日本人とあえて繋がる必要はないという判断をしました。

そして、予想通りに利害関係のみで繋がったセブ島のビジネスマン達や、利害関係で近づいて来ていた人たちは、私のセブ島でのビジネス社会撤退と共に離れて行きました。

ところが、全て何もなくなった裸同然になった私に、仕事上であまり良い関係ではなかった方や、意外な方からの励ましやアドバイスに、今まで全く気づかなかった人の優しさや思いやりに気づくことも多いあったのです。

また、私はこの事件を多くの人に知ってもらうために、セブ島に住む日本人の皆さまや日本の教育関係の方々にfbにて友達申請させていただきました。

そして、私のブログを読んでいただいた多くの方々より、多くの心温まる励ましのメッセージやアドバイスを頂きました。

セブ島に住む日本人の方の中に、私とよく似た価値観を持っていた人達とも出会う事ができました。もっと、以前からこういう人たちと繋がっていればよかったのにと思うばかりです。

何もなくなった時にこそ、人の本当の心、暖かさも冷たさも見えるものなのですね。

_________________________________

NEXT

フィリピンビジネス光と闇:詐欺師が横行するセブ島

___________________________________

リベンジ(再起):目次スクリーンショット 2018-01-15 18.49.08

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

41. 恐怖で動けなかった2ヶ月間

東進ハイスクール元カリスマ講師 山中博の陰謀:フィリピン追放

2017年2月9日、いつも帰国する際に使う14:35着PR409便で、関西空港に到着しました。

いつものように父親が空港の到着口で待っていました。

ただ、いつもの帰国とは状況は違います。

私も父親も疲れ果てていました。

実家までの車の中で、父は私に淡々と話しました。

私がフィリピンに送ったお金は、40年間サラリーマンをしていた収入を4人の子供を育てながら母親がコツコツと貯蓄していったものであること。

母親が入院していること、父親は去年発症した脳梗塞と持病で不自由であること。

小学5年生のリオの日本語能力はひらがなとカタガナがわかる程度で学校に行かないこと。

リオは何かと反抗し大変であること。

 

2016年末、私は、リオに危険が及ぶことを回避するため、冬休みを日本で過ごすという名目でリオをひとりで日本へ帰国させました。

 

約1ヶ月ぶりのリオとの再開であります。

 

リオは、私の顔を見た瞬間に満面の笑みとなったのです。

あの時の彼の顔は二度と忘れることはないでしょう。

 

動けなかった2ヶ月間

 

リオは、約8年前、彼が4歳の時に、私と共にフィリピン、セブ島に移住しました。

彼の母国語は、すでに日本語ではなく英語でした。

日本語は話せるが読み書きは不十分であったのです。

 

セブ島で彼は輝いていました。

彼には夢がありました。

学校が大好きでした。

多くの友達がいました。

 

毎週末には、自宅には色々な国籍のたくさんの友達が集まり、夢を語り合っていました。

自宅はいつも大勢の子供たちで賑わっていました。

その時間が私達親子にとって最高に幸せな時間でした。

 

リオは、ママが迎えに来た。家に帰れると思ったのです。

 

フィリピンの学校は、小学校であっても出席日数と試験結果で進級が決まります。

長く休むと進級できなくなるのです。

彼は「ママ、バケーションって言ったやん 僕6年生に上がれんようになるやん」と必死に訴えました。

 

もう、二度とセブには帰れないと説明しても11歳のリオには当然理解できないのです。

 

お友達ともお別れも言うこともなく突然の日本の学校への転校。

授業も日本語で先生の言っている意味がわからないのです。

 

 

父親は母親の病気のことで心が壊れそうでした。

父親は、私がリオを7年前にセブ島に連れて行ったせいでリオがかわいそうな子になったとリオの前で嘆きました。

リオは、どうしていいのかわからなくなりました。

リオは荒れていたのです。

リオは言いました。

「僕なんか生まれてこない方が良かった」と

子供にこんな事を言わせるなんて、、、最低な母親です。

 

情けなくて、リオが愛おしくて、可哀想で、それでも、どうしていいのかわからないのです。

 

フィリピンセブ島での永住を考えて自宅も購入しました。

たった、3ヶ月で何が起こったのか私自身も整理ができていなかったのです。

 

日本語が不十分なリオをインターナショナルスクールに入れる資金も私にはもう残っていません。

 

そして、私自身も立ち上がることができないのです。

 

また、恐怖に怯えていました。

何が恐怖だと言えば、東進ハイスクール元カリスマ講師山中博が率いる彼らは、私の個人メール、個人スカイプすべての私の個人データーを持っているのです。

そして、東進ハイスクール元東進ハイスクール元カリスマ講師 山中博はBAYSIDE ENGLISH CEBU の経営権が私から山中博に移ったことを隠していました。

言い換えれば、私になりすまして投資を集めることも可能でなのです。

 

すべてを失った上に犯罪者のお面まで着せられるのではないかと怯えていたのです。

リオや家族を犯罪者の家族にするのではないかと怯えていました。

 

2ヶ月間、私は動き出すことができませんでした。

 

母親が病院に入院中、リオも私も父親も廃人のようでした。

 

その状況を知った友人が

「リオのためにも戦わないと」

と背中を押してくれたのです。

 

とにかく3ヶ月間で起こったことを書き出して状況を把握することから始まりました。

 

そして、彼らのしたことに法的制裁を与えるために刑事告訴に動いたのです。

 


NEXT

 42.非道な東進ハイスクール元カリスマ講師への挑戦状挑戦状


リベンジ(再起):目次スクリーンショット 2018-01-15 18.49.08


-41-

 

 

38. 日本医療現場の真実

 孤独最前線日本医療

フィリピンの医療現場では、命までもお金で買わなくてはいけない現状があるのです。

だからと言って日本の医療が絶対にいいとは言えないのです。

私は16年の看護師経験からの視点で述べます。

日本には医療が進みすぎたための悲劇、時間や規則に縛られ忙しさの中での見失ったもの、心がつぶれることによる悲劇が病院の中で多く見られるのです。

医療が進みすぎたため、死に向かう運命の人が生かされる現状があります。呼吸不全になれば、家族が望めば人工呼吸器に繋がれ腎不全になれば透析を回して生かされるのです。

時には患者の目は死にたいと訴えます。

そして、苦しい人工呼吸器を自己で外そうとするのです。そうなると医療事故となってしまいます。医療関係者は患者が人工呼吸器を自己で取り払わないように両手をベッドに固定するのです。

患者は顔が痒くても掻くこともできないのです。痛くても声を出して伝えることも、手も体も動かすこともできないのです。

そんな状態が何年も続く患者も多くいるのです。

 

脳梗塞や腎不全で入退院を繰り返す患者の家族は、病気が長くなるにつれて病院に来なくなっていきます。患者は、ずっと病院のベッドの上で一人寂しく過ごすのです。

 

死に逝く人がいます。

心電図モニターが装着されます。だんだんと心拍が弱くなってくきます。

看護師は「お父さん、今晩危ないですよ」と家族に電話をかけるのです。

家族が病院に駆けつけます。

すると家族の声を耳にした途端に患者の心拍が戻るのです。

危篤状態で意思表示できませんが、患者は家族の声を耳にした途端に死にたくない。生きたい。家族の声をもっと聞きたいと言う心理がそうさせるのだと私は信じています。

しかし、それが繰り返されると家族は「仕事で忙しいので死んでから連絡して欲しい」と言うのです。

ひどい場合には、「お父さん亡くなりました」と連絡をすれば、どうしても大切な出張があるので3日間預かってくれないかと耳を疑う返答が返ってくるのです。

 

老人病院では、若い看護師に排泄の世話をしてもらわなければいけない老人がいます。

彼らは現在の私たちの日本を築き上げてきた人達です。

プライドも羞恥心もあるのです。

そんな中、若い看護師の「また、うんこしたの!!!クサい」等の心無い言葉に彼らの心はつぶれていくのです。そして、自分を失っていくのです。

 

ICUでは、大量の消化管出血(胃や腸から出血)で運ばれてくるサラリーマンが多くいます。

命が危険にさらされているというのに、どうしても大切な取引先に電話しないといけないと駄々をこねるのです。

 

救急救命外来では、一人暮らしの老人が餓死直前の状態で運ばれてきます。

 

20代、30代の若者が自殺未遂で運ばれてきます。特に、クリスマスイブや誕生日の特別な日に自殺未遂をするのです。特別な日に自分は一人ぼっちだとふと気がつき命を絶とうとするのです。

 

もちろん、病院の中では、素晴らしい家族愛に心が打たれる場面も多くあります。

しかし、悲しいかな、最新医療が受けられるはずの日本の病院の中には日本人の心の歪みの方が多く見られるのでず。

 

病院の中で見た日本人の心の歪みについて述べると100時間は話せます。

 

医療関係者は、病院の中の人間の心の歪むに失望しながらも、たまにある美しい人間愛、家族愛に励まされ癒されそれを活力にして働いているのです。

 

人の幸せにするのも、不幸にするのも、その人の置かれている状況やお金ではなく、心が全てを左右すると私は考えます。

フィリピンセブ島の路上で物売りをする子供達の万遍の笑顔が物語っています。彼らには、スリッパさえも買うことができなく裸足の子供も多いのです。しかし、彼らの笑顔には一片の哀れさも感じられないのです。幸福感に満ち溢れた表情であるのです。

インフラが整い、欲しいものが簡単に手に入る日本で、特別の日にひとりであることに気づき、ふと自殺をする若者の方が哀れであります。

 

BAYSIDE ENGLSIH CEBUに滞在していた日本の子供達の中には、パニック障害の持つ子供や過換気症候群を起こす子供が多く見られフィリピン人講師達を驚かせました。

子供留学の多い夏休みや春休みのピーク時期には、私は学校看護師として頻回にその処置にあたりました。

また、ストレスによる日本や韓国で自殺が多いこともフィリピン人には信じられないのです。

フィリピンではほとんど自殺はないのです。あるとしたら恋愛に敗れて自殺をするという感情の国フィリピンらしいです。

フィリピン人に言わせれば、死ぬくらいなら、学校に行かなければいい。会社を辞めればいいのに、の一言で済むのです。

 


NEXT

39. フィリピンと日本の死生観の違い


リベンジ(再起):目次

スクリーンショット 2018-01-15 18.49.08


-38-

 

 

24. 劣等感の塊だった私

劣等生

私は、幼い頃から劣等生でした。

 

私は4人兄弟の長女です。私の幼少期から高校生までの学生時代には、ほとんどと言っていいほど女の子の友達はいませんでした。

男の子の友達とばかりと遊んでいました。女の子達はおママごとやお人形で遊日ます。私は男の子達と外で泥々に遊んでいたのです。

 

幼児期の私の宝物は仮面ライダーのベルトと変身セットでした。小学校高学年になると女の子は家庭科の授業、男の子は技術の授業に分かれます。私は、どうしても男友達と大工作業がしたく、先生に頼み技術の授業に入れてもらいました。

母は、教育熱心でした。母曰く、母は幼い頃から美人で優等生でした。そして、エリートの父と結婚したことが母にとって誇りだったのです。

母は、子供たちにピアノに算数教室、そろばん、公文、家庭教師、スイミング…英語以外のあらゆる習い事をさせました。なぜ英語以外かというと母は英語ができなかったからだでしょう。

スイミング以外は、すべて私は落ちぶれていました。

そして、30年前、40年前の小学校、中学校では学校の成績順位は公表されていました。私の成績順位は後ろから数えたほうが断然早かったのです

小学校時代、4人の子供を持つ母親は、授業参観日になると子供達のクラスをハシゴして回らなくてはいけません。

私より2歳下の妹の教室では、母はいつも誇らしかったのです。妹は授業中にはピンっとまっすぐ伸ばした手を挙げ、先生に当てられるとはっきり大きな声で答えるのです。

私にとって、授業参観で母が教室の後ろに立つことが恐怖でした。手を挙げなくては母に叱られる。手を挙げて万が一にも先生に当てられたら答えられない。すると母にもっと恥をかかせることになる。先生に見つからないように工夫しながら小さくそっと手を挙げなければいけません。

そして、ピアノのレッスンほど私にとって苦痛なものはなかったのです。

自宅には大きなグランドピアノがありました。ピアノ教室はピアノの先生を私たちの自宅に招き、そこにレッスンを受けるために子供たちが集まりました。母親たちがお茶や会話を楽しんでいる間にピアノのレッスンが開かれるのです。

私は、ピアノの椅子に座ると回転性のめまいがしました。ピアノの椅子に座ると、ピアノを中心に天井から壁から全てがゆっくり回転するのです。母親がピアノの椅子の横に立とうものなら、回転速度は急速に早くなり目が回るのです。

クラシックピアノは、最初に幼児ピアノから、次にバイエルンというレッスンテキスト、次にソナタかソプラノというテキストに進んでいきます。

ソナタが先だったのか、ソプラノが先だったのか忘れました。そこまで、進んでいないから覚えていないのです。

半年に1回、ピアノの発表会がありました。母親は私と妹をドレスアップさせ発表会に臨むのです。私は、小学校4年生から6年生まで3年間も発表会で同じ曲を弾きました。

作曲者は忘れましたが「アラベスク」という曲、もしくはベートーベン「のエリーゼのために」どちらかです。2曲とも初級であるバイエルンのテキスト曲であります。それも音を外しまくりながら弾くのです。妹は小学校3年生の時には、モーツァルトの「トルコ行進曲」を一つも音を外さず弾くのです。

妹の演奏の後は拍手喝采となります。母親の誇らしい顔で妹を見つめ、そして私を睨むのです。

参観日やピアノの発表会の後には、妹がどのくらい誇らしかったのか父に自慢げに話し、そして私の授業参観やピアノの発表会でどれほど恥ずかしい思いをしたのかも父に話すのです。

ただ、スイミングだけは違いました。週に1回のスイミングスクールと、夏休みの間には、私たちの住む大阪堺にある浜寺水連学校学校という軍隊のような水泳学校に毎日通っていました。

当時、浜寺水連学校は、オリンピックに出るくらいシンクロナイトスイミングが有名でした。私は小学校六年生でスイミングインストラクターの資格習得まで進み、シンクロナイトスイミングのメンバーに選ばれたのです。

妹は幼稚園から小学校を卒業するまで、私と一緒にスイミングスクールも浜寺水連学校にも通っていましたが未だにカナヅチであります。

中学校に入って、部活は水泳部に入りました。中学一年の夏の大会では、私達の住む町の大会ではブレスト競技(平泳ぎ)で私は2位となり表彰台に立ちました。そして、堺の大会では、表彰台には立てなかったが高タイムで予選通過し大阪大会に進んだのです。あいにく大阪大会では予選落ちし全国大会には進むことはできませんでした。

水泳だけが唯一私の誇れるものでありました。

しかし、夏の大会の私の成果に母親は、勉強もできないくせに泳ぎだけできてどうするのと嘆いたのです。

そして、夏の水泳大会が終わった後、私は両親に「私はあなた達の飼い犬ではない」とメモを残して家出をしたのです。

 

ガキ大将

私は、近所のマーケットに、いつもたむろしていた世の中では不良と呼ばれる同級生達とマーケットの駐車場で過ごしました。

その間に、髪の毛にはオキシドールという消毒薬をつけました。オキシドールは髪の毛の色を抜いて茶色にするためです。ところが、オキシドールをつけすぎたのか、私の髪の色は茶色を通り越し金髪になってしまったのです。

また、安全ピンをライターで熱し熱消毒した後、安全ピンで両方の耳に3箇所ずつピアスを開けました。煙草も吸ってみました。

私の家出は、一日中、私を探し回った両親により深夜に連れ戻されました。

私の突然の変化に両親は動揺したのです。

そして、中学校三年生になる年の4月、私たちは大阪和泉市の田舎に引っ越しました。理由は、弟の小児喘息が悪化したため、空気の良い環境に引っ越すということでした。

隣には祖母の家も建て祖母も一緒に引越しをしました。

私にとって祖母が一緒だということが唯一の幸せでした。私が劣等生でも、髪の毛が金髪でも、祖母の私に対する態度は変わらないからです。

いつでもどんな時でも私を大切にしてくれました。

また、体が小さく、玉ねぎのように髪の毛を頭のてっぺんにまとめた祖母は私にとって可愛いい存在でもあったのです。

私は家族の住む隣の家、祖母の家に住みました。

新しい学校に転校するにあたり、父親により私の髪は黒く染められ耳のピアスは外されました。

転校先の和泉市の田舎の学校は、規則として男の子は全員坊主頭、女の子はオカッパでした。

ダサすぎる。

堺の学校では、男の子たちは当時はやりのチェッカーズの藤井フミヤや直之の髪型を真似ていました。女の子たちは、松田聖子や中森明菜の髪型を真似ていまいた。私は当時、不良の間で流行りだったサーファーカットをしていました。

堺の中学校はお弁当でしたが、和泉市は給食でした。

当時、私は牛乳が大嫌いでした。牛乳のせいで給食を食べるのが遅かったのです。

給食の時間の後は掃除時間となります。掃除時間には机を移動させるなければいけません。しかし、私が給食を食べるのが遅いため、掃除時間の開始が遅くなるのです。給食を食べるのが遅いのは、いつも私と背の低いケンでした。

田舎の学校の番長的存在であった酒屋のきよしくんが、「アホとチビは給食を食べるのが遅いなー」と言ったのです。どう考えてもチビはケンです。ということは、アホは私です。

私は泣きながら、私より体の大きいきよしくんに殴りかかっていったのです。

きよしくんは、男の子です。女の子には手を出せません。防御していました。

そして、家に帰った私は、こんなダサい学校には二度と行かないと親に告げました。

ところが、その晩にきよし君は男友達を引き連れて私の家に謝りに来たのです。

それから、きよしくんと私は親友となりました。

そして、ケンは私の舎弟(子分)となったのです。

私か、きよしくんの号令で、田舎の同級生の男の子たちは、家を抜け出して夜中のお寺に集まったのです。

田舎の夜中の集会は堺の集会とは違いタバコを吸ったりはしません。

度胸試しをするのです。

近くに丘の斜面にお墓があります。夜中に、一人ずつ丘の一番てっぺんのお墓に石を置くのです。

また、暗い暗い山道を30分ほど歩くと阿弥陀寺というお化けが出てきそうな古いお寺があります。途中には、お墓もあるのです。夜中に阿弥陀寺まで一人ずつ歩く度胸試をするのです。

いつも、一番に行くのは、きよしくん、次に一人ではお墓にも、山を越えることもできない弱虫のケンを連れて私が行きます。そして、次から来る子たちを待つのです。時には先に到着した私ときよしくんで次から来る友達を脅かしては、驚いた顔を見て大笑いしました。

もう30年以上も前のことです。私は、堺の友達とは引っ越ししてから交流はありません。田舎の中学校の男友達とは、今でも年に一回のだんぢり祭りに集まります。

あれから、30年、みんな家庭を持ち、おじさんになっています。30年間、年に一度、同じ話題で盛り上がるのです。

話題は中学3年生の私達の夜中の度胸試しです。

高校は、名前が書ければ合格できると言われていた通称「バカ太高校」と呼ばれる公立高校に入学しました。

他の兄弟は皆、お嬢様、お坊ちゃん私立高校を卒業しました。公立高校に通ったのは私だけです。

私は高校に入っても勉強をしませんでした。

 

看護師への道

私が高校二年の時、祖母が病気で入退院を繰り返しました。

私は、学校帰りには毎日祖母の入院する病院に通いました。両親には私が優しいところがあると思われるのは癪にさわります。祖母には私が病院に来たことは内緒にしてねとお願いしました。

自宅では祖母は、赤ちゃんのようにハイハイをしてトイレに行くようになったのです。トイレの中には、壁の突起部分を支えに立ち上がろうした祖母の爪痕がたくさん残されました。祖母の、排泄の世話だけは家族にさせたくないという意地が見えたのです。

バカな不良娘の私は祖母を助けるために看護師になろうと決めました。

それから必死で勉強しました。

当時は、看護師には准看護師という看護師の下で働く看護師免許が存在していました。

そして、私は准看護師学校に入学しました。なぜならば、働きながら自分の力で学校に行けるからです。

両親に話せば両親は学費を出してくれたでしょう。しかし、両親が介入することで干渉されます。そして、両親に干渉されると私のやる気は一気に失せることは目に見えてました。だから、自分の働いたお金で自分の力で准看護師学校に行くと決めたのです。

准看護学校でも必死に勉強しました。

30年ほど前には常に成績順位は公表されていました。200人以上の学生の中で私の成績順位はいつも3番以内でした。

成績順位が発表されるたびにすごい!!と同級生たちにもてはやされました。

私の人生で初めての経験でした。

成績で褒められた私は調子に乗ってさらに勉強しました。

私は、准看護師の次の進路として、授業費用が私立看護学校の10分の1であった国立病院附属看護師学校を受験しました。学費を親に頼りたくなかったからです。国立の看護学校であれば、私の働いた蓄えで補うことができます。

その後に、小泉潤一郎総理大臣の民営化対策でほとんどの国立病院は大学病院や民間病院に買収され姿を消すことになります。

しかし、看護大学もほとんどなかった25年以上前の当時では、国立病院附属看護学校は看護師のエリートコースであっりました。受験倍率は6倍でした。

国立の看護学校の受験科目には英語の試験科目はありませんでした。もし、英語の試験科目があれば合格することはなかったでしょうが、おかげで国立病院附属看護学校に合格できました。

祖母は私が国立の看護学校に入学して1年目、91歳で亡くなりました。

祖母がいなくなった家に滞在する意味もなく、私は家を出て独立しました。

それでも、私は勉強を続けました。「歩く看護辞典」と同僚達に呼ばれさらに調子に乗っていきました。

仕事の休みを医療、看護に関連した勉強会やセミナーの日に調整しました。

20年、30年前には、救急救命士という独立した資格はなかった。看護師が認定試験で所得できる資格に位置付けられていました。私は、救急救命士も、医療に関してのあらゆる資格や認定証を取得していったのです。

 

そして、気がつけば34歳となってしまっていた。

 

私は、物心ついてから高校を卒業するまで劣等感の塊でしたた。そして、両親や兄弟たちとも距離を置いていました。

リオが生まれたことで、やっと両親とも兄弟とも笑って話せるようになったのです。やっと「家族はいいものだな」と思えるようになったのです。

リオが家族を一つにしてくれたのです。

そして、ピアノの椅子に座っても目眩を起こさなくなりました。

 

現在、私はフィリピンの田舎に隠れ住みながら、時折、母に電話しリオの状況を聞きます。

母は、リオはあんたと同じで勉強嫌いやけど、夏の水泳大会では背泳ぎで一番になったと報告してくれました。

私は、母に勉強しないことを指摘しないで水泳大会で一番になったことを褒めてあげてとお願いしました。

 

劣等感の再発

BAYSIDE ENGLISH CEBU が開校して半年くらい後に、同じセブ、マクタン島に日本人経営の語学学校が開校されました。そして、日本で学習塾チェーンを経営するその語学学校オーナー元田氏(仮名)より、キッチンマネージャーのキクちゃんと一緒に夕食に招待されました。

元田氏は色々な国でビジネスをするビジネス仲間の友人と一緒でした。

彼らはビジネスの勉強会で知り合った仲間らしくビジネストークに花を咲かせていました。

彼らは、先に開校していたBAYSIDE ENGLISH CEBUのビジネスに興味を持って私に色々な質問をしてきました。

綾子さんのビジネスビジョンを聞かせて欲しいとかです。

ビジネスビジョン??ビジョンの言葉の意味がわかりません。

「特にないです」と返答しました。

また、BAYSIDE ENGLISH CEBU設立の意図なども質問してくるのです。

「なりゆきです」と、会話は続かないのです。

もしも、その場で綾子さんの看護観や死生観について、今後の日本の医療の展望をどう考えるか等を質問されたなら、私は1時間でも5時間でも話し続けることができたでしょう。

私は、彼らの質問の意味もビジネス用語さえもわからなかったのです。

私の子供の頃からの劣等感が再発しました。

元田氏は、「綾子さんすごいですねーさすがですねー」と連発していました。

すごいわけがない。何がさすがだ。建前である本音は馬鹿にしているのです。

この状態では足を引っ張られると思いました。

実際には、元田氏は私に気をつかい、話を繋げるために「すごい。さすが」と連発してくれたのでしょう。しかし、私の心の奥底にある子供の頃の劣等感が私にそう思わせたのです。

私はセブで滞在する日本人、特に同業者と接することは極力避けるようになりました。

本音と建前をうまく使い分け饒舌に話すことができないからです。まそして、ビジネスに関する経験も知識も自信もないからです。

そして、何よりも私の頭の中が、過去の私のように劣等感でいっぱいになってしまうのが怖かったのです。

 

リオと歩いたBAYSIDE ENGLISH CEBU

そして、BAYSIDE ENGLISH CEBU は、韓国系の語学学校協会に加入しました。

理由は、一つに韓国人経営の語学学校は10年以上にわたる歴史があります。そこから学ぶことが多いのです。

もう一つに本音と建前を使い分けなくてもいいからです。同じ言語を使わない分恥をかいたとして気付かないのです。

また、わからないことはわからないと聞くことが容易かったのです。

間違ったことを言えば、あなたは間違っていると教えてくれるのです。

そして、日本人に比べ子供に寛容的でありました。

営業にリオを連れて行くことができる環境であったのです。韓国系の語学学校合同での海外営業には、必ずリオを連れて行きました。

 

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

劣等感の私

 


NEXT

25. フィリピン治安の真実


 リベンジ(再起):目次スクリーンショット 2018-01-15 18.49.08


-24-

7. 医療現場を走り続けた末に授かった宝物

RPC

日本での生活

医療現場を歩んできた私

私は日本で約16年間、急性期医療の現場で看護師をしていました。

急性期医療というのは、救急外来、ICU、外科病棟等であります。まさに命の前線で仕事をしてきました。

医療器具はどんどん進化していきます。勉強しないとついていけないのです。

休みの日には看護協会でのセミナー、結婚や家庭に憧れていましたが恋愛する時間もなく16年が経過していきました。

看護師の給料は悪くはありません。しかし、使う時間がないのです。1年に2,3 回ほど、1週間ほどの長期休暇をとって海外にダイビングに行く事くらいしか。

 

それ以外はほとんどプライベートの時間はないのです。ただ、貯金だけが増えていきました。

 

それでも、救命の前線でアドレナリンを噴出して、そしてやり遂げてホッとする時間が好きでした。

 

気がつけば34歳でした。35歳になれば、四捨五入すれば40歳になります。体力勝負の急性期医療ですが体力にも限界を感じ始めていました。物覚えも悪くなっていくのです。そして、医療現場しか知らない人生を振り返って焦っていました。

 

経験が長い分医療に関しての知識だけは豊富になっていきます。医者は経験、知識が豊富な中年看護師よりも、何も知らない新人看護師が好きなのです。新人看護師たちは次々に医者と結婚していきました。

 

私はお局様だったのです。

ナース

 

人生の宝物

そんな時、世の中ではエリートと呼ばれる男性に出会いました。彼は、私より12歳も年上でした。特にときめいたわけでもないですが、今つかまえとかないと一生お局様で終わってしまいます。

2004年2ヶ月間の交際でスピード結婚をし、夢の結婚退職をしました。

そして、すぐに息子リオを授りました私が35歳の時でした。

 

リオが可愛くて可愛くてたまらないのです。

 

ところが、私の夢の結婚生活は、結婚から1年半、リオが生後10ヶ月の時にスピード別居となってしまいました。

リオには申し訳ないですが、私はそれでもよかったのです。

 

人生最大の宝物リオがいるからです。リオを私に授けてくれただけで感謝でした。

 

それから、リオと私のふたり生活の始まりました。生活には困りませんでした。別居中であっても毎月60万円くらいのの生活費は入れてくれたからです。

 

地域の中では、有名幼稚園にリオを入れ、午後は、スイミングスクール、子供英会話スクール、公文 幼稚園のお母さんたちとの会話を楽しんでいました。

 

教育ママというわけではなくリオと二人で楽しんだのです。

 

そして、リオに色々な国の人達と交流してほしい。私も色々な国の人と交流したいという思いから、自宅近くの桃山大学の外国人学生のホストファミリーとなりました。

 

ほとんどの、学生はヨーロッパから日本にアニメの勉強のために留学していた。

 

ホストファミリーは、ビジネスではありません。ボランティアです。リオと学生たちと料理に旅行と生活を楽しみました。

 

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

 

 

 


NEXT

8. フィリピン・セブ島との出会いスクリーンショット 2018-01-15 15.52.26


リベンジ(再起):目次スクリーンショット 2018-01-15 18.49.08


-7-

40. 自殺に至る精神

破壊された私

破壊された私の精神

私は16年の医療現場で多くの人の生死に関わってきました。

命の大切さは痛いほどわかっています。

そして、終末期看護(死に逝く患者に対しての看護)死生観、命の大切さについて看護学校で講義もしました。若い新人看護師達にも指導をしてきました。

また、自殺をすることによって、その家族に一生残す深い傷を負わせることになります。そんなことも痛いほどわかっています。

 

それにも関わらず、2017年1月末に首つり自殺を図ったのです。

 

私は、余命告知をされた患者ではありません。

そして、ふと一人ぼっちだと気がつき寂しさのあまりに死を選びません。

私は一人ではないのです。リオがいるからです。

それは、寂しくてからではありません。

恐怖のあまりに心が破壊したのです。

心の判断能力機能が完全に破壊したのです。

 

今考えても自分の行動に説明がつかないのです。

 

当時、BAYSIDE ENGLISH CEBUの、学生が学校の資金不足のために食事や水の与えることもできなくなる。餓死してしまうという脅迫観念に私の心は支配されていました。

そして、BAYSIDE ENGLISH CEBUに入学が予定されている学生さん達は空港で難民となるのです。

それは、国際問題となります。

リオや家族は大勢の学生さん達の死により国際社会から非難され日本に住むことができなくなるのです。

家族の財産は全て奪われてしまいます。

私はフィリピンで殺されます。

リオも家族も殺されるのです。

そんな、脅迫観念に私の心は支配されてました。

 

そして、東進ハイスクール元カリスマ講師 山中博と私の経営していた語学学校日本人職員であった松井元輝の誘導の元、学生を救うために、すべての財産を学校の口座に入れたのです。

 

それどころではありません。

私が日本に帰ってからもフィリピンの自宅の金庫に置いてあった。すべての個人の現金(約440万円)を奪いにきた松井元輝に対しボディーガードのドイに松井元輝に手渡す許可を与えるのです。

 

私の心理状態は、死を目の前にした患者と同じ心境となっていたのです。

死を目の前にした患者は、小さな音でも驚くのです。

私は病室のドアを閉める時には、常にドアの閉める音を立てないように閉めました。

そして、死に逝く患者に絶対に背中を見せません。患者の病室を退出する時は後ろ歩きし患者に向き合った状態のまま病室から退出するのです。

なぜならば、死を前にした患者は看護師や家族の後ろ姿を見るだけでも恐怖を感じるのです。

 

当時の私の中での死は私だけの死ではないのです。何十人という学生の死とリオと家族の死、そして私の死なのです。

 

電話の音や車の音だけでも恐怖で震えるのです。

 

家の外で遊ぶ子供達の笑い声に、BAYSIDE ENGLSIH CEBU に滞在する30人余りの可愛い韓国人の子供達が餓死する姿を連想して震えが止まらなくなるのです。

人と会う。人を見ることにも恐怖を感じるのです。

 

恐怖は精神を破壊します。

 

恐怖のあまりにペットボトルの水を一気に2リットル飲み干します。

また、すぐに喉が乾くのです。

そして、また2リットルの水を一気飲みするのです。そ

して、それは一日中繰り返されるのです。

 

そして、キュブラー・ロスの死に逝く心の過程、第3段階の取引き、神頼みの心理となっていったのです。

 

「私の命をささげるので、どうかリオと学生さん達を守って下さい」と。

 

そして、ふらふらとベランダに出ては、洗濯物のロープを取り外し、ベランダの階段に首つりのロープを準備するのです。

何度も首を吊ろうとするができないのです。

大量の水を飲みながら、その行為は朝まで続けられるのです。

朝、ヘルパーさんが、首つりロープを外し洗濯ものを干します。

そして、次の日の夜も、また次の日の夜も、それは繰り返されるのです。

毎朝、首つりロープを外して洗濯物を干さなくてはいけないヘルパーさんがどう思うなどは考えられないのです。

 

また、夜中に震えながら飛び降り自殺をしようと車で建設中の新学校まで車を走らせました。

しかし、建設作業員たちがそこで寝泊まりをしていました。

そして、ゆっくりと自宅に帰ります。

そして、また、別の日にも新学校から飛び降りようと車を走らせるのです。

建設作業員が建設現場で寝泊まりしていることなどすっかり忘れているのです。

そして、また建設現場の作業員が寝泊まりしていることに気づき自宅に帰っていくということが繰り返されるのです。

 

当時、私の状況をヘルパーさんの情報より知ったボディーガードドイは、私には秘密で住宅街のセキュリティガード、町警察と連携して私の行動を監視するシステムを固めました。

私の行動を常に監視し、ドイと町警察に連絡が行くように整えたのです。

そして、いつものように夜間に自殺行為を繰り返す私は、住み込みのヘルパーさんよりセキュリティガードに通報され、町警察にて病院に連れて行かれました。

 

この時の私の心理や行動は、いくら考えて私自身もわからないのです。

 

なぜ、私は、東進ハイスクール元カリスマ講師山中博達によってすでに乗っ取られている会社の口座に私の個人資金と両親の資産までを投入しなくてはいけないのか?

 

なぜ、日本に帰ってまでも松井元輝に現金を渡さなくてはいけないのか?

 

なぜ、学生さんが死ななければいけないのか?

 

なぜ、リオと家族が財産をすべて奪われて殺されるのか?

 

なぜ、私は殺されるのか?

 

私は、当時の破壊された私の精神状態の説明は未だにできないのです。

 

しかし、私の心が、どういう過程で破壊されていったのか分析できるまで回復しました。

 

後に、山中博の洗脳能力と関連させ、私の精神破壊までのプロセスの分析を述べます。

 

恐怖に支配されていた私は、自殺の前後に妹にメッセージを送っていました。

 


NEXT

41. 恐怖で動けなかった2ヶ月間


リベンジ(再起):目次スクリーンショット 2018-01-15 18.49.08


-40-