フィリピンで多発する日本人犯罪:海外では日本人にとって日本人が危険!?

法律の狭間を利用した海外での日本人に対する日本人犯罪

フィリピンでは、日本人による日本人への犯罪、韓国人による韓国人への犯罪等の同じ国籍同士の犯罪が絶えなく起こっています。

例えば、5.6年前、2012年から2013年にかけて、福島原発の放射能避難にて、私が経営していた語学学校に多くの親子学生を多く受け入れました。彼らはフィリピンセブ島に在住する日本人のセブ島にて放射能避難を呼びかけるホームページのサイトからフィリピンセブ島にやってきました。彼らはセブ島に移住するために、サイト管理者の日本人の会社のフィリピンの銀行に大金を振込ました。しかし、準備されていた住宅は、振り込んだ資金に到底値しない施設であり、そして、安全も確保されていない場所あったのです。

路頭に迷った彼らは安全が確保されている語学学校へ入学してきたのです。彼らは、当時オーナーであった私に相談してきました。

私は彼らに弁護士を紹介し、彼らと共に弁護士事務所に相談に行ったのです。彼らが大金を振り込んだのは、フィリピン登記の会社であります。日本人個人の銀行口座ではないのです。

そして、フィリピンの法律でセブ州では、会社登記は、日本人を含む外国人は40%の株しか持てないのです。(事業内容によっては0%)しかしながら、彼らを騙しお金を振り込ませた日本人は1%の株主でもなかったのです。100%フィリピン人株主の会社であったのです。

フィリピンの会社を設立するためには、セブの会社では60%の現地フィリピン人、授業内容により100%のフィリピン人を株主が必要なのです。例えば、レストランや、2016年私が開校を予定していた現地フィリピン人のためのインターナショナルスクールは100%フィリピン人株主が必要であります。

したがって、一部の地域を除きフィリピンで会社設立をするにあたり、日本人を含む外国人達は、フィリピン人の名義を借りて会社設立をしているのです。会社設立をするための名義貸し斡旋業者も存在するのです。

福島原発からの放射線疎開の彼らにとって、放射能の安全性を求めてフィリピンに初めて入国し、フィリピン人とのコネクションも土地感もないのです。そして、英語を話す事のできない彼らは、フィリピンでフィリピン人の会社に対しての告訴は困難なものでした。そして、詐欺を起こした日本人の住民表は日本にはないのです。日本で告訴することもできないのです。

当時、福島からフィリピンセブ島に避難に来た多くの家族が大金を失い泣き寝いりをしたのです。

その、放射能疎開の家族達から大金を得た日本人は、現在もフィリピンセブ島でセブ島日本人社会の中に溶け込んでいるのです。

2012年夏、BAYSIDE ENGLISH CEBUに大学生のサークル団体の受け入れがありました。その大学サークルはBAYSIDE ENGLISHCEBUだけではなく、セブの他の韓国系の語学学校も利用していました。(2012年当時、セブで開校しは日本経営の語学学校は数件しかなかったのです)約200人の大学生たちはセブの数件の語学学校に分かれて留学していました。彼らの大学サークルのアクティビティの一つにセブ島でダイビングライセンスを取得するというのがありました。

その、アクティビティは学校からの紹介ではなく、学生自身が現地セブ島でダイビングインストラクターをする日本人との間で設定させたものでした。

BAYSIDE ENGLISH CEBUに留学していた30人近い大学生もそのアクティビティに参加していました。約日本円で2万円で2日間の講習でダイビングライセンスを取得できるというものでありました。そして、ライセンスの申請手続きを経てライセンスは学生達の自宅に届くという事でありました。

しかしながら、ダイビングライセンスは彼らの手に届く事はなく、ダイビングインストラクターの日本人とは音信不通となってしまったのです。大勢の大学生達が騙され泣き寝入りすること結果となったのです。

 

2014年には、BAYSIDE ENGLISH CEBU プレミアムキャンパスの60代リピーター学生であった会社社長の日本人男性より相談を受けました。ある日本人より船を創らないかと勧められ、その日本人のフィリピンの会社に船の資金として100万円以上の資金を振り込んだのです。実際に船の斡旋した日本人男性と造船現場にも訪れたとのことでありました。しかし、その日本人男性は、彼の送金した資金と共に姿を消したのです。

私は彼に相談され、私が経営する語学学校の職員によって彼の被害届けは英訳され警察に提出したのです。しかし、この国の被害届は捜査をする義務はないのです。

時間もお金もかかる刑事告訴をしないと捜査は始まらないのです。

海外で日本人によって騙された彼らは口を揃えて言いました『日本人だから信用した』『日本人だから安心してしまった』と。

 

これらは、日本の法律とフィリピンの法律の狭間を利用した犯罪だと言えます。

海外で犯罪被害にあっても被害者は告訴することさえもできないのです。

被害者が犯罪を告訴しない以上、日本人を騙し日本人より大金を取得した犯罪は犯罪としても成立しないのです。

味を占めた日本人は犯罪を繰り返す事になるでしょう。

海外、特に発展途上国では、日本人には日本人が一番危険なのです。

 

私は、フィリピンセブ島で日本人社会との接触を極力避け、フィリピン人達とフィリピンの地域と密着して会社を大きくして来ました。

しかしながら、最終的にはフィリピン人達と立ち上げ、そしてフィリピン人達と育ててきた会社は、日本人職員と外部の日本人とが共謀し略奪されたのです。

フィリピンで日本人に騙された日本人達と同じように「私の経営する会社の日本人だから信用していた。安心していた」という油断があったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フィリピン医療の真実

日本人(外国人)へのフィリピンの医療

2011年夏、フィリピンドマゲッティの街でリオが入院しました。

その際、最高級の海外保険に入っていたにも関わらず、リオが入院したシリマン大学病院と日本の保険会社での間にキャッシュレス(現金を支払わなくても治療が受けれるシステム)提携をしていなかったために治療が遅れました。

しかし、日本の保険会社の迅速な対応にてシリマン大学と日本の保険会社との間でキャッシュレス提携が結ばれたのです。

キャッシュレス提携後、VIP患者として迅速にリオの治療がなされていきました。そして、2週間以上もの間ホテルのような病院のVIP 個室で親子二人快適な入院生活を送る事ができ他のです。

2012年8月15日、BAYSIDE ENGLISH CEBU RPCキャンパスが開校し多くの親子留学、若者の留学、子供たちのみの留学学生を受け入れていました。

医療制度を整えることは必須であったのです。

大切な子供をフィリピンに留学させた母親の心配は、第一に健康のことであります。発展途上国であるフィリピンへの留学は、その心配は増強するでしょう。

母親として看護師として学校に医療のシステムを整えることは私の使命でもあったのです。

ドマゲッティでのリオの入院経験を生かし、当時BAYSIDE ENGLISH CEBUの日本人インターンスタッフが入院した際の主治医であったリッチ医師(仮名)に相談し、BAYSIDE ENGLISH CEBUに週2回の医師回診を依頼しました。

そして、学生の健康状態に異常があれば、すぐにリッチ医師の勤務するセブ島の中心街に位置する総合病院であるセブドクターズ病院に搬送し治療を受けるシステムを作ったのです。

自慢ではありますが、現在ほとんどの日本経営の語学学校には医師回診のシステムがあります。学校医療システムを整え、最初に開始したのはBAYSIDE ENGLISH CEBUであるのです。

誰が最初に開始したのかは、どうでもいいことでありますが、大切なお子様を預かってる語学学校に医療との連携があることは母親も安心して子供をフィリピンへ送りだすことができるのです。

そして、日本人が海外保険に加入しているだけでVIP治療が受けられるのです。

医療にはキュアとケアがあります。キュアとは治療、ケアとは看護です。

キュア面で考えるとフィリピンは日本に比べかなり遅れています。しかし、ケアの面で考えると日本の看護師不足では考えられないほどマンパワーが豊富であるのです。

日本の海外保険を使うことにより、夜間でも1時間に1回と言っていいほど、看護師、助手、清掃婦に食事の配膳係が病室を訪れるのです。

日本の医療現場で看護師一人が行っている仕事を10人くらいで分担していると言っても過言ではありません。

ただ、マンパワーがあることと看護師の質は比例しないのです。

 

ビジネスウーマンとしての自信や学校オーナーとしての威厳に欠ける私は、オーナーであると言うことを表に出したくありませんでした。

各国マネージャー達に学生に対して学校在中看護師として私を紹介するよう指示しました。

その方が子供やお母さん達と直接交流ができるのです。また、学生さん達の思いや本音を聞くことができるのです。

BAYSIDE ENGLSIH CEBUには、2013年より高校や塾関係の英語研修として子供団体が多くなりました。

高校の付き添いの先生達や旅行会社の添乗員も学校看護師として学校の良い面も悪い面も世間話のように私に話してくれるのです。

 

 フィリピンの医療を語るにあたり、海外保険を加入していることでキャッシュレスにてVIP待遇を受けることができる日本人や外国人の視点のみでは語れないのです。

 

フィリピンの医療の現状

BAYSIDE ENGLISH CEBU には、校内に講師寮があります。講師寮にはピーク時期には50人近い講師たちが滞在していました。講師寮に滞在する講師のほとんどは、ドマゲッティや地方からのセブに出稼ぎに来ているのです。

地方の一般的な(中流階級)のフィリピン人は、親戚一同で小さな集落を作り大勢の家族で生活しています。そして、家族の中で一番成績の良い子供の教育にお金をかけ夢を託すのです。大学を卒業した子供は都会に出て働き、稼ぎ頭となって家計を支えるのです。 また、次の稼ぎ頭となる兄弟達の教育を支えるのです。

BAYSIDE ENGLISH CEBUの講師寮に住む講師たちは、家族の期待と夢を背負った子供達であるのです。

その大切な子供達を預かっている私や経営チームの責任は大きいのです。

時には病気し病院に運ばれることもあります。夜間緊急で病院に運ばれる場合は一般のフィリピン人は公立病院に運ばれるのです。

フィリピンにも、日本の国民保険と同じようなフィルヘルスという医療保険があります。その他、年金(SSS)、国の住宅購入費積み立て(Pag-ibig)の社会保証があります。

私は職員全員にそれらの福祉制度の加入を義務付けました。会社が月払いの半額を負担し半分を給料から差し引くのです。

特にフィルヘルスに関しては、職員が病気した際に後日申請すれば治療費の50%〜60%返金されるのです。

ただ、日本との医療保険制度の違いは、フィルヘルスの適応は公立病院のみに限られているのです。そして、最初に全額を現金で支払わなくてはいけないのです。

すなわち現金がなければ治療はできないのです。

フィルヘルスに加入していれば治療費は後で申請して数カ月以上も後に返っています。

夜間、学生寮滞在の講師が緊急を要する急病となった場合、セキュリテーガードから、私のボディガードであるドイに連絡が行きます。

そして私が現金を持って公立病院に行くのです。別に私が行かなくても現金をドイに持って行って貰えばいいのですが、16年間医療に携わった私は他国の医療現場に興味津々であるというのが本音であります。

公立現場の医療現場は目を疑わざる得ない状況でありました。

病室には看護師一人が通ることができるスペースのみを開けてベッドが密接しているのです。そして、病室に入りきれないベッドは、廊下を埋め尽くすのです。 また、野外のガレージのようなところにもベッドが置かれ患者はそこで治療を受けているのです。

床には、採血や点滴で使用した注射針がたくさん落ちています。多くのフィリピン人たちはゴムスリッパを履いているのです。万が一注射針を踏むことになれば感染症に罹患する危険性があるのです。

ナースステーションらしきところには誰もいません。看護師を探してもなかなか見つからない状況なのです。

ナイチンゲールは、病気や感染症を治癒するためには、まずは環境を整えることを説いています。

しかし、フィリピンの公立病院自体が感染源であるのです

日本だとの国の医療監査が入りすぐに病院閉鎖となるでしょう。

だが、フィリピンの国の病院がこのような状態であるのには驚かずにはいられません。

 

ボディガード、ドイは看護師である私に彼の祖母を観てほしいとお願いしました。

彼の祖母が足の切断手術をするように医師から言われたのです。

彼の祖母の片足切断手術の3日前でありました。

私は、彼の祖母の入院する公立病院の外科病棟に行きました。

ドイの祖母は、セブ市内より5時間ほど離れた山奥に住んでいます。郊外や田舎に住んでいる人は、重症になればセブ市街の地方からの患者を受け入れる専門の公立病院に送られるのです。

 

ドイの祖母は廊下のベッドで寝ていました。廊下の両方の壁にベッドが隙間なく設置され、足を切断した患者や固まって古くなった血液が包帯の上から見える状態で放置された患者達が横たわっています。

暗い病院内は、クーラーもないのです。暑い中、病院の薬品の匂いとはまた違う異臭がしています。そして、地方から付き添いで来た家族は座る場所さえなく患者と一緒にベッドの上に座っているのです。

 

人が入り混じっているのです。

また、ある患者の太もものデブリートメント(腐った肉芽を切り取る)手術が廊下のベッドの上で行われているのです。それも血や肉芽が飛び散っています。メスも切れ味が悪いようで、まるで切れ味の悪い包丁でギリギリと豚肉を削ぐように手術が行われているのです。

私は、興味津々に患者の血が目に飛ばないように注意しながら手術を覗き込んで見ていました。

廊下を通る人は、廊下で行われる手術の状況を目にして廊下で吐いていました。そして、その吐物は誰も清掃しないのです。

 

ドイの祖母は、片足の甲に野球ボール大の傷がありましt。

糖尿病で足の血流が悪くなり、すぐに足を切断しなければ命が危険になると医師に言われたらしいです。

糖尿病の末期には確かに血流障害によって足先より順に壊死(腐る)し、切断をすることがあります。包帯から少し出ていた足の指は黒く壊死しているようにも見えるが色が黒いのか汚れているのか見分けがつかないのです。

そして、ドイは、祖母は糖尿病と診断されたことはないと言うのです。

足の甲には、足背動脈という大きな動脈が通っています。

私は包帯の上からドイの祖母の足の甲を触れてみました。ドクドクと大きく振れるのです。そして、祖母は私が足の甲の傷に触れたことでしかめ面をしました。

 

血流障害なんて起きていません。知覚もあります。切断の必要なんてないのです。

 

そんなことは日本の新人看護師でもわかるでしょう。

医師の知識が相当低いのか、もしくは、切断すれば一度に大金が入るのか。そして、治療するより早くベッドが空くからでしょう。

ドイの祖母の傷は、リオやヨセフが罹患した蜂窩織炎です。

私は、ドイに、すぐに手術をキャンセルし祖母を家に連れて帰るように指示しました。そして、薬局で抗生物質入りの軟膏、副腎皮質ホルモン入りの軟膏と消毒液と包帯そして歯ブラシを購入し、ドイに毎日清潔な歯ブラシを使って赤い血が出るまでゴシゴシと祖母の足の傷を洗浄後、消毒液と軟膏塗布をするよう指導しました。

そして、数ヶ月後、祖母の足は治癒し田舎に帰ったとドイより報告が入ったのです。

 

ドイの話によると、ドイの祖母の入院中に顔中にガラスの破片が刺さった2歳くらいの子供が運ばれて来たと言います。

しかし、その時に両親は持ち合わせの現金がなく治療しないまま病院から追い出されたと言います。母親は泣きながら病院職員に助けをお願いしましたが取り合ってもらえなかったのです。ドイも周囲の人も助けてあげたくてもお金がないのです。自分や家族の治療費で精一杯で助けることもできないのです。

フィリピンの医療現場では、命までもお金で買わなくてはいけない現状があるのです。

 

 

 

 

 

フィリピン教育省認定学校を設立する(走り続けた2016年)

フィリピンで政府認可学校を創立する

2015年 、私は、BAYSIDE GLOBAL SCHOOL,INCと名の会社を設立しました

そして、2016年に入り、マクタン島のコルドバという町に土地購入、学校建設そして、同時進行にて BAYSIDE GLOBAL SHOOL のDepEd (フィリピン教育省)学校認可の取得に走りました。

学校は幼稚園から高校までの過程の現地フィリピン政府認定学校であります。

そして、その学校カリュキュラムの中に日本語を導入するのです。

 

日本は超高齢社会にすでに突入しています。

若いマンパワーが不足しているのです。将来的にはもっと不足するでしょう。

日本では、年配者が高齢者を在宅介護するのが当たり前のようになってきています。

そして、核家族が増える日本の家族形態の中、高齢者と生活を共しにたことのない若者が多くなっています。

病院や介護施設では高齢者と接したことのない若者が高齢者の世話にあたる現状が日本にはあるのです。

高齢者たちはインフラの整った今日の日本を築き上げてきた偉大なる人達であります。

心なしにも、そんな偉大な人達の心を傷つけ破壊していく若者もいるでしょう。

 

フィリピンは、日本の反対なのです。

フィリピン人は多くの子供を産むのです。

そして、子供達が働き手となり家族や老人達を支えるのです。

高齢者は長老として、家系の中で最大の力を持つ存在になるのです。

若者は高齢者を誇りにするのです。

 

そんなフィリピンの子供達の学校カリキュラムとして日本語を教えるのです。

日本語を習得したフィリピンの子供たちが将来、日本の高齢者を支えるマンパワーとなれば、こんな素晴らしいことがあるでしょうか。

 

マンパワーが充分すぎるくらいにあるが仕事を得ることが難しいフィリピンと、仕事はあるも、マンパワーが不足している日本をつなげる架け橋に BAYSIDE GLOBAL SCHOOL がなるのです。

 

フィリピンでフィリピン人達と築き上げてた BAYSIDE ENGLISH CEBUの次のステップとして、フィリピン人のための学校を創る。

そして、その子供達の将来、日本にフィリピン人の家族愛の素晴らしさを伝えるのです。

BAYSIDE ENGLISH CEBU フィリピン人職員のモチベーションは一気に上りました。

 

フィリピンセブのマクタン島には、2つの町があります。

一つは、語学学校 BAYSIDE ENGLISH CEBUが位置するラプラプ市、

もう一つは、BAYSIDE GLOBAL SCHOOL の開校が予定させていたコルドバ市です。

そして、コルドバ市には、2020年にはマクタン島とセブ島を繋ぐ3つ目の橋がかかるのです。

BAYSIDE GLOBAL SCHOOLの設立メンバーには、ラプラプ市の有権者、コルドバ市の有権者に入ってもらいました。

 

マクタン島の二つの町を繋ぐ架け橋

マクタン島とセブ島を繋ぐ架け橋

フィリピンと日本を繋ぐ架け橋

BAYSIDE GLOBAL SCHOOLは、3つの架け橋となるのです。

 

BAYSIDE GLOBAL SCHOOL は、BAYSIDE ENGLISH CEBUフィリピン人職員達だけではなく、コルドバ市そして、ラプラプ市の地域の夢に繋がって行ったのです。

 

皆さまもご承知のように、日本の教育制度は6−3−3年制、計12年です。

小学校6年間、中学校3年間、高校3年間となっています。

フィリピンでは2014年までは、小学校6年、高校(ハイスクール)4年と計10年であり、日本より2年間教育期間が少なかったのです。

しかし、2015年より、日本と同じように12年間の教育課程へ変更したのです。

それは、K−12と呼ばれています。

小学校6年、ハイスクール4年に、シニアハイスクール2年が追加されたのです。

 

2015年までは、K—12の準備期間でりましたが2016年から本格的導入を国が義務づけられました。

そして、BAYSIDE GLOBAL SCHOOLは2017年6月の開校を予定していたのです。

なぜならば、フィリピンの認定学校の新学期は6月から開始されるからです。

 

新しい制度での認可を取得しなくてはいけなかったのです。

すべてのカリキュラムを準備し、2016年8月中旬までに申請しなくては、2017年6月の開校はできないのです。

 

フィリピン認可学校を開校するにあたり、教育課程の博士号を持つ教師、修士号を持つ教師を学校管理者として設置しなければならない規定があります。

博士号、修士号を持つ教員達で事務所を構え、BAYSIDE GLOBAL SCHOOL立ち上げのためのチームを作成しました。

カリキュラム作成が開始されたのです。

チームの中にはコルドバ市長の秘書や教育委員会職員も入ってくれました。

 

BAYSIDE GLOBAL SCHOOL への夢はBAYSIDE ENGLISH CEBU職員のみならず地域の夢に広がっていったのです。

 

2016年始め土地購入より始まり、BAYSIDE ENGLISH CEBU 経営チームは、BAYSIDE GLOBAL SCHOOLの開校地コルドバ地域と共に走り続けていました。

 

BAYSIDE ENGLISH CEBU フィリピン人経営チームも、BAYSIDE GLOBAL SCHOOL チームも、私も寝る暇もなく夢のBAYSIDE GLOBAL SCHOOLの開校準備に当たったのです。

 

私たちは、夢に向かって走っていたのです。

 

2016年8月、無事、DepED(フィリピン教育省)への申請を終えました。

 

そして、語学学校 BAYSIDE ENGLISH CEBUを振り返ると、悪夢が待っていたのです。  

 

 

走り続けた2016年:フィリピンで建設をする。

フィリピンで建設

建設への投資を続けてきた語学学校

BAYSIDEENGLISH CEBUほど、開校直後から建設を続けた語学学校はないでしょう。

BAYSIDE ENGLISH CEBU 第二キャンパス(プレミアムキャンパス)として、2013年11月、フィリピン セブ マクタン島の海辺の廃業したリゾートホテルを賃貸しました。

そして、岩のビーチとなっていた海辺にカフェテリアの建設工事、ホテル内の改装工事、そして、4回建ての学生寮の建設を開始しました。

そして、2016年3月には、2年にもわたるプレミアムキャンパスの位置する土地抗争後に手に入れたプレミアムキャンパスの海辺の1000スクエアメーターの土地に学生寮建設を開始し、海辺の新ドミトリーとして2016年9月に完成。

2016年6月には、コルドバに4階建ての学校建設、そして学生寮の建設を開始させました。

建設会社でもないのに、2012年、開校以来、建設を永遠に続けていると言っても過言ではありません。

ビル等の建設には、ペンシルガという建築士を常に使っていました。

建築士ペンシルガとの付き合いもかれこれ5年目に入ります。

ペンシルガはBAYSIDE ENGLISH CEBUが運営するラプラプ市役所の建設部門の職員に紹介された建築士であります。

建設部門とは、建設の許可や建物の安全性や法的基準が満たされているかどうかを監査する機関であります。

彼は、建設業の傍でラプラプ市役所の建設部門の職員や技術者達に技術指導を行う講師でもありました。

彼のことを一言で表すと、糠に釘を打つような人です。何の意欲も営業しようとする姿勢も見られなのです。建設が遅れて苦情を言っても何の反応も見れないような人なのです。

ただ、悪賢くなく正直なだけが取り柄であるような男なのです。

 

建設材料のごまかしを阻止する方法

フリピンでは、建設材料のごまかしが日常茶飯事に行われています。

2013年1月、最初にプレミアムキャンパスの建設工事を開始した時点では、建築士ペンシルガの人間性はわかりません。

建物を建設するにあたり、まず建設許可を市から取得します。そのためには、建設図面、建設材料の種類、電気配線等、10以上の専門部署の監査をパスした上で各部署の管理者のサインが全て揃った上で建設許可証を入手することができるのです。

あくどい建設業者であれば、建設許可証に記載している材料と違う安く質の悪い材料を使用し経費を浮かせるのです。

例えば、基礎工事の耐震の支柱として、鉄でできたステルバーという材料を使います。

プレミアムキャンパスの学生寮は最終的には4階建てへと増設する予定でありました。基礎には強い耐震性が求められるのです。

建設業者が、ステルバーの太さを細いものに変えることも可能であるのです。セメントの中に埋められるステルバーは見えないからわからないのです。

また、コンクリートもそうです。コンクリートとそれに混ぜる砂のパーセンテージを変えることによっても経費が浮かすことができるのです。

フィリピンの建物の天井が落ちたと話しをよく耳にします。建設業者がセメントの濃度をごまかしたからなのです。

そして、フィリピンでは、建設材料のごまかしはは日常茶飯事常のように行われているのです。

 

常に見張っていないと安心できないのです。

 

建設作業員の雇用

セブ島の産業は、その街の特色があります。

例えば、トレードという街は大型船を作り出す街です。カルカルという街は豚の飼育の街です。

モアルボアールはダイビング観光客の街です。

そして、セブ島南部にはアレグレアという多くの建設作業員や大工、家具職人を生み出している街があります。

私たち、2013年よりBAYSIDE ENGLSH CEBUの経営チームは、アレグレアの市長と連携し、そこでジョブフェアーを行い独自の建設作業員を雇用しました。

そして、建築士ペンシルガの作業員たちと混ざって、ペンシルガの下で働いてもらうのです。その総合指揮権は私のボディガードであり左腕のビジネスパートナーであるフィリピン人ドイが持つのです。

建設材料が搬入される都度、建設材料の建設認可に提出した通りの材料が使われているかをチェックしていくのです。

BAYSIDE 配下のマンパワーを入れることでそれが可能になるのです。

 

そして、BAYSIDE GLOBAL SCHOOL のベッド等の家具もアレグレアから短期雇用した家具職人によってつくられたものなのです。

プレミアムキャンパス学生寮の工事期間、約半年間の私たちのペンシルガの観察では、彼は建設材料をごまかすこともなく賢くなく正直で素朴な人でありました。

賢くなくという意味は悪賢くないという意味です。

建設ブームであるフィリピンでは多くの建築士たちは、豪華な車を乗り派手な生活を送っています。

彼は私と出会った5年前より同じボロボロのバン自家用車に乗っています。服装も地味すぎるくらい地味なことからも彼の人間性が伺えました。

その後、プレミアムキャンパス海沿い1000スクエアメーターの学生寮やコルドバの新学校建設はペンシルガに任せることにしました。

 

地域のマンパワーを使った建設

マクタン島のコルドバに巨大新学校を建設する。それも、外国人の為だけの学校ではない

ィリピン人の子供達を対象にした国の認可のある学校です。BAYSIDE 経営チームは夢に向かって走っていました。

新学校の土地は1.1ヘクタールあります。約3500坪です。

まずは、不法侵入者を防止する為、そして、開校後の学生の安全の為に土地を高い塀で囲むことから開始しました。

購入した土地に塀を作るにも許可がいるのです。フェンシングパーミットです。許可を得て工事が始まるのです。塀の工事は、地元トラシクル、トラシカル(自転車にサイドーカーがついたもの)ドライバーたちを集めました。

塀を作る工事自体は単純作業なのです。

しかし、多くのマンパワーが必要になります。

フィリピン人にとって、仕事が得られると言う事は最大の喜びなのです。

そして、地元との交流を深めることができるのです。

こんな一石二丁なことはないのです。

地元民を集める指揮を取ったのは、100人以上のトラシクルドライバー達を束ねる左腕ドイの兄です。

マンパワー豊富なフィリピンでは人を集めるのは難しいことではないのです。

コルドバ市長も参加しました。コルドバ市長の名で作業員を集めるのです。

100人以上の住民に仕事を与えたことは市長の株も上がるのです。そしてその株は市長選に多く貢献するでしょう。

BAYSIDE 、地元住民、市長すべてに有利に働くのです。

 

塀の建設には、パッキャオスタイルを適応しました。

パッキャオというのは、世界的に有名なフィリピンを代表するプロボクサーであります。

彼は、ボクシング選手以外に政治家としても活躍しています。そして多くのビジネスを持ちマニラを中心にビルも多く建設しています。

その建築に関して彼は独自の方法を取っているのであります。日本でもそうですが、労働法によって、最低賃金の規定があります。

それは、地域によって相違があのですが、セブではその当時の労働法に定められた最低賃金の日給は約350ペソ(役770円/ 8時間)でありました。

パキャオスタイルというのは、日給計算しない出来高計算で給与を支払うのです。

仕事を得るのが難しいフィリピンでは、どうにか仕事を長期間続けたいのです。そのため、皆ゆっくりと時間をかけて仕事をするのです。仕事のある間は日給を得ることができるからなのです。それは家族を守るためでもあるのです。

パッキャオスタイルというのは、ゴールを決めるのです。

ここまでの仕事でOO円の収入というゴールを設定するのです。

BAYSIDE GLOBAL SCHOOL の新学校の塀もそうです。

塀には1メートル間隔で支柱を立てます。支柱から支柱の1区間を仕上げれば5000ペソ(1万2千円)という給与形態にするのです。

そして5人くらいでグループを作りリーダーを置きます。そうすることで、早く多く仕上げたグループの収入は必然的に多くなるのです。

時間に縛られることもなくダラダラ働くこともないのです。時間はお金になるからです。

もちろん、BAYSIDE配下の作業員たちが監視をします。

材料はBAYSIDEより準備するのでごまかしようがないのです。

そして、ビックリするようなくらい早く建設が進むのです。

1,1ヘクタールの土地は、海沿いであることも関係して岩場と成っています。土地の整備も必要でありました。そこにも、パッキャオスタイルを適応したのです。

4階建ての巨大学校建設は塀や土地を慣らす単純作業ではありません。プロの建築士の指揮で行う必要があります。

それば、すでにBAYSIDEプレミアムキャンパスの2件の学生寮建設で信頼関係が築けている建築士ペンシルガに一任しました。

そして、平屋建て学生寮は別の建築士を雇用し建設作業員、家具職人発掘の街アレグレアより雇用しBAYSIDE 配下の作業員たちによって建設は進められました。

 

BAYSIDE GLOBAL SCHOOL 新学校計画は私とフィリピン人達で組織する経営チームですべて進められてきたのです。

フィリピン人講師達で組織するアカデミックチーム、アコモデーションチームすら知らせていませんでした。

もちろん、外国人で組織するマーケットチームもです。

すでに塀も土地整備も学校、学生寮の基礎工事が終了し起動に乗った時点にBAYSIDE 職員たちに公開されました。

基礎工事が終わった後、学校の支柱になる柱にコインを投げ込み建設が無事に完了することを願う祈祷式が行われます。

そして、2016年10月末、学校建設、学生寮建設80パーセント完成時点で私は建設の一時中止の指示を出したのです。その明細は後で述べます。

 

必ず遅れるフィリピン建設

フィリピンの建設は必ずと言っていいほど遅れます。

2013年に開始したBAYSIDE プレミアムキャンパス学生寮の建設も4ヶ月遅れました。

プレミアムキャンパス海沿い1000スクエアメーターの学生寮建設も3ヶ月遅れました。

マクタン島のリゾートホテルの敷地内に4回建て学校を建設した韓国人経営者の語学学校も7ヶ月工事が遅れたのです。

フィリピンで建設をするに当たっては工事が遅れることを念頭に置いて計画を立てなければいけないのです。

工事の遅れを少しでも回避するために建設業者と建設主の間に契約を結びます。

建設が遅れた日数に応じてペナルティを加算するのです。BAYSIDEも3回にもわたる建設工事にすべて契約を交わしました。

ただ契約は彼らへの意識づけのみしかならないのです。

ペナルティを加算することによって彼らは、ペナルティの支出費用を工事材料や人件費を削減することで対応しようとするからであります。

そして、そのペナルティ金額を回収するためには裁判を起こす必要もあるのです。フィリピンの裁判は短くても5年長くて10年以上を要するのです。

そして、裁判費用もかさむのです。挙げ句の果てには被告人に支払い能力がなければ資金は返ってこないのです。

初めから、遅れることを設定し計画を立てる方が賢いのです。

フィリピンでの建設経験者であるマクタン島のリゾートホテル内に語学学校を建設した韓国人オーナーとそんな話題で盛り上がったこともあります。

 

 

フィリピンで建設


走り続けた2016:フィリピン土地を買う

移転を余儀なくされたBAYSIDE RPCキャンパス

フィリピン、セブ島で私が開校した語学学校BAYSIDE ENGLISH CEBUには、二つのキャンパスがありました。

6500坪、最大学生数250名の大キャンパス RPCキャンパス。

そして、海辺のリゾートホテルを改造した最大学生数50名の小キャンパスであるプレミアムキャンパスであります。

 

BAYSIDE ENGLISH CEBU RPCキャンパスは、併設する現地私立学校 Regent Pacific College の韓国人オーナーミスター金より、キャンパスを賃貸していました。

また、韓国人オーナーミスター金もフィリピン人の土地オーナより土地を賃貸していました。

すなわち、Regent Pacific College のオーナーミスター金は、フィリピン人に土地のみを借り、そこに学校建物を建てたのです。

そして、土地と学校をBAYSIDE ENGLISH CEBUに又貸していたのです。

Regent Pacific College ミスター金とフィリピン人土地オーナーの賃貸契約は2019年3月に満了となるのです。また、土地オーナーの話によると、すでに賃貸契約満了後は中国人によりRegent Pacific College の土地購入の予定があるとのことでした。

従って、BAYSIDE ENGLIH CEBUは、遅くても2019年までにはRPCキャンパスから移転しなくてはいけないことが余儀なくされていたのです。

土地探しのアンテナ

私は常にマクタン島でのRPCキャンパスの移転先である土地や建物を見つけるためのアンテナを張っていました。

セブ島で営業する日本人経営の不動産業界に相談するのも良いのですが、価格は10倍近くにも高騰するのです。

それは、クリアな土地(問題のない土地)であることと、そして、土地購入者に届くまでに多くの仲介業者を介しているから高額となるのです。

フィリピンセブ島やマクタン島には、立地条件の良い場所であっても手がつけられていない土地が数多く存在しています。

例えば、ビルが立ち並ぶ街中にぽっつんと空いている土地が存在するのです。それは問題のある土地だからなのです。

プレミアムキャンパスのように借金の担保になっている土地。

土地の権利を主張し裁判になっている土地。

土地の所有者がすでに何十年も前に亡くなり、家族何代にもわたり相続され土地所有者が何十人にもなる土地。

そして、誰が土地所有者であるさえもわからなくなっている土地もあるのです。

また、土地の権利書さえない土地も数多く存在しています。特に田舎に行けば権利書のない土地が大半を占めているのです。

どうして土地権利書がない土地が存在するのかというのは、土地の権利書というシステムができたのも、日本でも有名なマルコス大統領が政権を握ってからであるのです。

土地権利書のシステムができてまだ50年も経ってないのです。

権利書のない土地は、土地の納税証明で土地所有者であることが証明されるのであります。

 

クリアでない土地(問題のある土地)はクリアにすればいいのです。問題を解決すればいいのです。

 

そして、BAYSIDE ENGLISH CEBUには、それらができる知識のあるフィリピン人経営軍がいたのです。そして、団結結束力があったのです。

 

土地をクリアにするとは、どういうことなのか? 

例えば、プレミアムキャンパスの土地のように借金の抵当に入り裁判所で差し押さえになった土地を低価で手に入れたければ裁判所のオークションを探せばいいのです。

そのために、フィリピンローカル新聞を定期購入し右腕アドミンヘットと左腕ドイにオークション広告から情報を入手するよう指示をしていました。

実際に何件かはオークション広告より視察にもいきました。

土地の所有者がわからなくなっている土地は、弁護士に依頼すれば家系図から所有者を割り出すことができるのです。

代々遺産相続税を払っていない土地は、立て替えて支払えばいいのです。そして土地購入費から差し引けばいいのです。

 

土地権利書のない土地は、土地権利書を作ればいいのです。

測量士に土地の測量図の作成を依頼し、それをDNER(日本の政府機関環境省と同じような機関)に持って行き権利書作成の手続きをすればいいだけです。

日本人仲介業者からクリアな土地(問題のない土地)を購入する資金を考えれば何十分の一の価格で土地を手に入れる事ができるのです。

時間も手間もかかることではあります。

しかし、フィリピンには時間と手間に時間を費やすことができるマンパワーが豊富なのです。

大切な事は、フィリピン人と外国人がお互いに信頼できる関係にあるかということだけであります。

 

また、フィリピン人の中には、代々から相続した資産価値の高い土地はあるにもかかわらず、現金がないというケースがよくあるのです。

例えば、病院に支払う現金がないというケースです。家族が重い病気や事故にあったとします。現金のない彼らは富裕層のみが入っている民間の医療保健にも入っていないことがほとんどであります。現金がなければ治療できないフィリピンの医療現状があるのです。

そして、フィリピンには、仕事より何よりも家族を大切にする国民性があります。そのため、緊急に土地を売却するのです。急いで売却しようとすればするほど価格設定は当然低くなってくるのです。

交渉もしやすくなるのです。

 

そして、それを購入できるのはすぐにでも現金で支払うことができる者だけに限られるのです。このようなケースが数多くあります。

 

そんな情報をキャッチするために大切となるのは地域との良好な関係であります。

また、セキュリティガードやトラシクルドライバー等も、情報入手に大きく貢献できるのです。

 

例えば、フィリピンで空き土地を放棄しておくと不法侵入者がベニア板等ですぐに家を建てます。一度住み着いてしまうと撤去するのは至難の技であるのです。

私が大阪城公園横の看護協会に通っていた20年ほど前、大阪城公園の中には多くのホームレスたちがダンボールやベニア板で作った家が存在していました。それと同じようなものです。

そして、貧困層の人口に比例してなのか、不法侵入者の数は大阪城公園の何十倍となるのです。

従って、土地オーナーやその相続者達は空き土地であってもそこに、セキュリティーガードを配置させるのです。

そして、セキュリティガードはその空き土地の窓口になるのです。

土地を購入するために訪れた者は、セキュリティーガードを窓口に情報を聞く、そして急いで土地を売りたい土地所有者もセキュリティガードを窓口に情報を発信するのです。

マクタン島で事務所を構えるセキュリティガード会社のマネージャーともよく食事に出かけました。そして、有効な情報の随時報告をお願いするのです。

 

大きな力を持つ情報の運び屋トラシクルドライバー

そして、地域の情報を運ぶのはトラシクルドライバーであります。

トラシクルというのは、モーターバイクにサイドカーがついた乗り物であります。

現地の人の交通手段として使われています。

彼らは地域のいろいろな場所に人を運びます。

空き土地に売り物件という張り紙も目にするでしょう。そして、話に聞くのです。

彼らは100人単位の組織で自分たちの縄張り組織を作っています。

それは、市役所にも登録されている認められた組織となっているのです。

そして定期的集会も開催されるのであります。そこで情報交換がされるのです。

また、彼らの集団は市長選挙や町長選挙の際に大きな力を発揮するのであります。なぜならば、組織のリーダーの一声で大人数の票が動くからであります。

 

余談ではありますが、マクタン島には二つの街があります。

一つはBAYSIDE ENGLISH CEBU  RPCキャンパスとプレミアムキャンパスのあるラプラプ市。

そして、もう一つは、セブ島とマクタン島を結ぶ橋が架けられる予定地であり発展が期待されているコルドバ市です。

私達が 1、1ヘクタールの土地を購入したのはコルドバ市であります。

フィリピンは、ほとんどがカトリック信者であります。そして一部のイスラム教徒が共存しています。

ラプラプ市長は、市長選挙への投票を引き換えにイスラム教徒にトラシクルの運営を許したのです。

何百人にも及ぶイスラム教徒のトラシクルドライバー達がラプラプ市に流れてきました。

そして、彼らの組織は市長選に大きく貢献するのです。

トラシクルドライバーの組織は選挙票を左右できるのです。

それくらい、マクタン島にとってトラシクルドライバーの組織リーダーの力は大きいのです。

 

そして、BAYSIDE ENGLISH CEBUの私の片腕ドイの兄は、コルドバのトラシクルドドライバーを総括するリーダーであったのです。

新学校のコルドバの土地の情報収集と町長や市長、市会議員や地域へのつながりはそこから作っていったのです。

 

フィリピンで土地購入

2013年に、私は個人でフィリピンに二つの土地を購入しています。

一つは、セキュリティーシステムの充実した現地ではビレッジと呼ばれる高級とはいかないも、高級下の住宅街にある庭付一軒家です。

外国人やフィリピンの裕福層たちが住むビレッジの土地価格は、フィリピンの土地価格に比べるとかなり高価であります。しかし、日本と比べるとかなり低価格であります。

フィリピン人女性に恋をしたオーストラリア人の年配男性が彼女と住むために土地を購入し家を建て生活をしていました。しかし、彼女の浮気が発覚、心が傷ついた彼は、すぐにでもオーストラリアに帰るということで、1週間以内に現金を支払うとの約束でかなり低価格で購入したのです。

リオと私が住む新築庭つき自宅を手に入れることができたのはラッキーでした。

 

もう一つは、フィリピンセブ島の南部の田舎の海に面した土地であります。

田舎の土地は、ほとんどといって土地の権利書が無いのです。納税者の名義変更をする事で土地の名義は変更となるのです。土地の権利書が無い分、土地価格は低価となります。

私は、将来、両親が年老いた時にそこに呼ぶ予定で購入したのです

フィリピンの法律では、海から10メートルの範囲の土地は権利書が作成できないのです。しかし、その土地の一部でも海から10メーター以外の土地があれば、その部分から土地権利書が作成できるのです。

そして、フィリピンのおかしな法律でもありますが、海から10メートル以外の土地で土地権利書を作成したのち、延長した土地として、海までの10メートルを含むすべての土地の権利書が作成できるのです。

ある意味、フィリピンの法律の抜け穴なのです。

そして、私は抜け穴を使って土地権利書を作成しました。

 

フィリピンの法律では、外国人は土地を購入できません。

 

フィリピンで土地の購入するのみならず、ビジネスをするにあたって、絶対的に信頼できる(信頼関係が保てる)フィリピン人ビジネスパートナーの存在は必須と言えるでしょう。

私は、信頼できるフィリピン人ビジネスパートナーと共に土地を購入してきています。そして、さらに安全のため、信用できるビジネスパートナーのフィリピン人との間に、土地を担保にした借金契約(モーゲージ契約)を結ぶのです。

建物は外国人での名義で所有することは可能であります。ところが、建物の名義主であってもフィリピンの法律では、裁判になれば土地を所有するものが建物の権利を取得できるのです。

それも、おかしな法律であります。

 

夢の新学校開校のため、広大な土地を購入

2015年夏、トラシクルドライバーからの情報をキャッチしました。

コルドバに約7,000スクエアメーターの土地が売りに出ているとのことでした。

 

土地の権利書に記載している所有者はすでに亡くなっています。土地は3代目、4代目の家計まで相続されています。相続等の手続きもされていないのです。

90歳になる家系図2代目にあたる土地の相続者は病気で危篤状態となっていました。メインに土地を管理する家計図3代目のその娘は父親の治療費のためにすぐにでも土地を売りたいとのことだったのです。

私たちはすぐに裁判所にて土地の権利書のコピーを入手した。土地は借金の抵当(モーゲージ)に入っていないことを確認しました。

問題は、すべての遺産相続者の契約書へのサインと、土地の相続手続きがされていないことでありました。すなわち、3代にも渡る相続者全員の契約書へのサインもしくは委任状を集めなくてはいけないのです。

それは、簡単なものではないのです。3代目まで分割された土地権利者は20人以上にも及ぶのです。

日本の少子化とは違いフィリピンでは多くの子供を産みます。そして、その子供達もまた多くの子供を産み相続者の人数は膨れ上がるのです。

そして、フィリピン人たちは、家族の生計を立てるために海外や各地に出稼ぎに出ていきます。そこで家庭を持ち永住している者もいるのです。

土地を相続した土地権利者の全員の委任状、もしくは契約書へのサインが必要になるのです。

しかし、BAYSIDE ENGLISH CEBUには、全てのサインを集めることができる地域のコネクションと、その手続きができる経営軍がいたのです。

また、土地を管理するメイン権利者も父親の治療費のための緊急に現金を手に入れる必要があったのです。土地名義変更の諸経費を彼女に貸し彼女も契約書のサインや委任状の収集に動いてくれました。

手続きとすべての委任状を集めるのに3ヶ月以上経過しました。

コルドバに購入した7,000スクエアメーターの土地はメインの道路に接しています。メイン道路に接した土地を抑えればその裏に位置する土地も必然的に手に入りやすくなるのです。

 

メイン道路の土地のオーナーは、その裏の土地に人が住む場合は人が通れる最低でも1メートル幅のメイン道路までつながる土地(ライト オブ ウェイ)を提供しなければいけないという法律があります。

メイン道路に接しない土地を持つものにとって、1メートルの道路を提供されてもメイン道路に接していない土地を売却する事は難しくなるのです。

すなわち、必然的に私たちに売却するしかなくなるのです。

そして、7、000スクエアメーターの土地につながる裏の土地2件も購入していったのです。

土地の大きさには関係なく一つの土地には、多くの相続者(所有者)が存在するのです。それら、すべてをクリアにするのに半年は経過しました。

左腕ドイは契約書へのサインをもらうためにフィリピンのミンダナオ島ダバオまでも飛んだのです。

 

土地を購入、地域で学校を建設するためには、地域と連携していくことが重要であるのです。

さらに、現地フィリピン人学生をも対象にした現地政府認定学校を開校するのでであれば、なおさら地域とのつながりはさらに大切なものとなってくるのです。

そのためには根回しも大切となってくるのです。私は、そのことを、現地私立学校Regent Pacific College を経営するミスター金より学びました。

 

2016年、フィリピン大統領にドテルテが就任しました。

そして、将来的に開発か期待されるコルドバ市長はドテルテ大統領のアドバイサーとしてマニラに旅立って行きました。

地域の噂では、コルドバ市長は麻薬や汚職に関係がほとんどない市長であることから、大統領のアドバイサーに選ばれたということでした。

その際にマニラで就任セレモニーが開催されました。

私達は、市長はじめ10人の市会議員にマニラまでの飛行機チケットと、マニラへのホテルをお祝いとしたのです。

そして、土地購入手続き等にコルドバ市長や町長の助けが大きな力となったのです。

また、次に進められる学校建設や、政府認可学校の認定証の取得にも彼らは大きくかかわってくれたのです。

 

フィリピンで建設をする2 田舎でゲストハウスの建設

ボディガードのドイは、アレグレアの町長(元市長)と、大工達と連携し、私が購入したビーチ沿いの土地建設と建設手続きに当たりました。

 

ドイが建設の指揮を取るのは、すでに5回目となります。

2013年、BAYSIDE ENGLISH CEBU  プレミアムキャンパスの改装と学生寮、そして、2016年にはプレミアムキャンパス海辺の新学生寮。そして、私達が購入した土地の学校建設をの新学校の建設指揮も彼がとったのです。

また、彼は、2005年に開校したBAYSIDE ENGLISH CEBU  の基となるRegent Pacific College の建設の指揮もとっていたのです。

知識もコネクションも豊富なのです。

建物は全て、アレグレアの山の木を使って建てる事にしました。そして、アレグレアのマンパワーを使うのです。

 

ドイの祖母は、多くの山の土地を持っています。

足を切断しなくてよくなったお礼に山の木をプレゼントしてくれたのです。

参照:フィリピン医療の真実

 

そして、私もドイの祖母より山をひとつ購入しました。山奥の土地は約1000坪の土地が10万ペソ、約22万円で購入できるのです。

彼らは、土地や山からの恵は多くありますが現金がないのです。そして、彼らの自然の恵豊かな生活には多くの現金を必要としないのです。

 

RIO BEACH CLUBの建設

 

木を切る道具、トラックのレンタル、タイルとセメントと大工さん達の給与以外の支出はほどんどなくドイの祖母の山と私が購入した山の材料を使って建物が立っていくのです。

Rio Beach Club です。

リオと約束しました。

1年間で、ママは自立してリオを迎えにいくと。

 

トイレ、シャワールームと家の屋根が完成した時点で私は、山を降りビーチ沿いの建設中の Rio Beach Club に移り住みました。

そして、戦いと再起のための資金が調達できた状態となった時点で本格的に現場で私がデザイン等の指揮を取り工事が開始したのです。

 

私たちの合言葉はリオ

今から8年前、息子リオが4歳の時に私たち親子は、BAYSIDE ENGLISH CEBUの基盤となる韓国系語学学校Regent Pacific College に親子留学としてセブに出会いました。そして、2012年リオが7歳になる時にフィリピン、セブ島に移住、BAYSIDE ENGLISH CEBUを開校。 創立時からBAYSIDE ENGLISH CEBUの経営を支えてくれた彼らは、BAYSIDE ENGLISH CEBUと共に成長していくリオと共に過ごしたのです。

私たちの中では「リオのため」と言うのが合言葉になっています。私たちの考える事は、リオを迎え入れる事、リオの輝きを取り戻す事だけなのです。

私たちが、脅迫される事も、攻撃される事もなく安全に生活できるように

2017年2月9日、日本に帰国した際に、リオと私が飼っていた4匹の犬達はフィリピン人の家庭に譲ってしまいました。

BAYSIDE ENGLISH CEBUを支えてくれた彼らは、リオが帰ってきた時に、犬達がいなくては寂しいだろうと、犬を譲った家を一軒一軒周り、謝罪とお願いをし、3匹の犬を返してもらったのです。

 

工事は着々と進んで行きました。

リオを迎える準備もです。

 

Rio Beach Club  は、闘いの資金調達だけのではなく、私のフィリピンでの再起を掛けたビジネスなのです。

そして、リオが封印してしまった7年間の彼が輝いていたセブ島での思い出を輝かしいものにするための再起でもあります。

語学学校 BAYSIDE ENGLISH CEBUと比べると、現地フィリピン人やダイビング観光客のヨーロッパ人を対象にした小さなローカルなビジネスであります。

それは、私にはちょうどいい規模なのです。

最愛の息子リオを迎え入れ、暖かいフィリピンで、暖かい地元の人達と大切にビジネスを育てていくのです。

 

私の闘いは、これから始まります。

これからは、現在進行形の記録となるでしょう。



フィリピンビジネス光と闇!!! 落とし穴に落ちた日本人

フィリピンの落とし穴に落ちた日本人

リオの病院滞在中、私が30歳前後の看護師時代に3回訪れたドマゲッティのダイビングショップが懐かしくり、ダイビングショップの日本人オーナー藤田さん(仮名)にフェスブックを通してコンタクトを取りました。

 

ドマゲッティのボリバー近くの海沿いの小さなリゾートホテルの一角のダイビングショップは藤田さんとフィリピン人の妻で営まれていました。

 

微笑ましいほど仲の良い夫婦でありました。当時、藤田さんは60歳のダイバーでした。60歳とは思えない筋肉質な体つき、白髪、ダンディ、おしゃれ、とにかくカッコイイおじさんでした。

 

藤田さんのダイビングショップは、多くの日本人ダイバーで賑わっていました。

ドマゲッティより海沿いに車を走らせると、ダウインという町があります。そこには、西洋人ダイバー達が多く滞在する数件のリゾートホテルが隣接しています。

藤田さんは、そのダウインにリゾートホテルを建設しているから遊びに来てよとよく言っていました。

藤田さん夫婦との再会、そしてダウインのリゾートホテル滞在を楽しみに藤田さんとドマゲッティの街で会う約束をしました。

 

ドーナツショップでの待ち合わせでした。10年ぶりの藤田さん夫妻との再会に私はワクワクしていました。

 

ドーナツショップで藤田さんを待っていると、ガリガリに痩せ破れたTシャツを着た日本人老人に声をかけられました。

 

藤田さんだったのです。

 

以前のダンディ藤田さんから想像を絶するものでした。

 

藤田さんは、ダウインでリゾートホテルをオープンさせた後、フィリピン人の奥様を脳梗塞で亡くしたのです。

 

外国人はフィリピンの土地は購入できないのです。

そのため、藤田さんは奥様名義で土地を購入しリゾートホテルを建設したのです。奥様の死後、家族達は遺産相続として土地の権利を主張し裁判となりました。

 

裁判はすでに3年経過しているそうです。藤田さん夫妻の夢のリゾートホテルは、奥様の家族によって封鎖され入ることができないとのことでした。

 

フィリピンでは、藤田さんのようなケースをよく耳にします。

 

フィリピンの落とし穴であります。

 

後に、私もフィリピンの落とし穴にはまることになるのです。

 

また、その後の後には、私は日本人によって作られた奈落の底までに深く汚い落とし穴にはまることになるのです。

 

その時は、そんなになるなど想像もしませんでした。

 

ただ藤田さんを哀れみました。

フィリピンの落とし穴

 

フィリピン親子移住:ドマゲッティでの生活 Part 1

約8年前の2011年、4歳の息子リオ(ニックネーム)と私の親子二人での新天地としてフィリピンへの移住

ドマゲッティでの生活 Part 1

ブラックアメリカン家族との生活

2010年夏、語学留学先のブラックアメリカン講師ドミニクに、私とリオのドマゲッティ移住のための環境作りとシリマン大学付属小学校の入学準備を依頼しました。

その後、日本帰国後も、2011年3月セブ語学学校Regent Pacific College(RPC)滞在中にもドミニクとは、SKYPE で連絡を取り合いました。

セブ滞在中には状況確認のためセブ島より飛行機で25分、私とリオは何度かドマゲッティを訪問しました。

 

ドミニクと私の契約は、

  1. 私たちの生活の世話(安全確保、掃除、洗濯、食事)
  2. シリマン大学付属小学校までの送迎と各種手続き
  3. リオの学校の時間帯に2−3時間私の英語個人レッスン
  4. 学校よりの帰宅後の子供達の学習(リオとドミニクの息子ジャジャの宿題と予習の授業)
  5. 1〜4 1ヶ月60,000php(約12万円)そして、住居に必要な家具等の資金は送金する
  6. また、リオとリオと同じ年のドミニクの息子ジャジャのシリマン大学付属小学校の学費は私が支払う

日本の金銭感覚で考えると、ネイティブ講師によるマンツーマン英語授業、その上、すべての生活も含めたったの12万円なんて、考えられないくらいの格安です。

しかし、当時の韓国資本の語学学校がほとんどであったフィリピンセブ留学では、セキュリティが整い3食、食事、掃除、洗濯、その上1日6時間のマンツーマン授業の1ヶ月の学費は10万円未満だったのです。現在は日本人留学生増加に伴い日本資本語学学校の進出にて語学学校学費の価格は上昇しています。

個人ビジネスで、それもセブよりさらに物価の安いネグロス島ドマゲッティの金銭感覚では、十分でした。

当時、有名校シリマン大学付属小学校の授業費は、1ヶ月たったの1万円弱でした。

私とドミニクの契約は、日本人金銭感覚である私も、フィリピン人金銭感覚であるブラックアメリカン講師ドミニクも満足するものでした。

2011年6月初め、リオと私はドマゲッティ、実際には、ドマゲッティより20分ほど離れたドマゲッティの隣町セブランと言う港と海岸の町に移住しました。

ドミニクは、その町の住宅地に小さくも新築で可愛い家を準備してくれいました。ドミニクの自宅から徒歩1分もかからなところでした。

 

ドマゲッティでの生活 Part 1

 

 

家の中には、小さなテーブルとマットレスのみが設置されていました。

 

エアコンも扇風機もない。ドマゲッティは予想以上に暑かったのです。セブより暑かったのです。

 

ドミニクの奥さんは、私たちが到着する1週間ほど前に第3子を出産したばかりでした。生活必需品の購入のために私がセブから送金した資金は、出産費用と食べるためにつかってしまったと、奥さんは涙をためて謝りました。

 

私とリオの自宅から徒歩30秒くらい離れたドミニクの家もそうでした。大きなリビングルームに小さなテーブルとベットルームがあるだけ。エアコンも冷蔵庫もない。そして、その空間にドミニクと妻と彼らの3人の子供達、そして妻の親戚の子供達15人くらいで生活をしていました。

ドミニクのみがテーブルでフォークとナイフを使用して食事を取っていました。他の家族たちは好きな床にバラバラにヤンキー坐りをして、一つのお皿にご飯もおかずもスープもごちゃまぜにして手をつかって食べていたのです。

 

フィリピンで生活して8年目となる今の私であれば、これがごく一般の中流家庭の家族形態であり食事風景であると理解できたでしょう。

 

しかし、日本から移住してきたばかりの私には、かなりのカルチャーショックでした。

セブでもドマゲッティでも、白人が大勢のフィリピン人の家族を連れているのをレストランでよく見かけます。同じです。ドミニクは、貧困層のフィリピン人女性と結婚し、フィリピン人大家族を養っているのです。

 

そんな、私のカルチャーショックをよそに、リオは同じ年のドミニクの長男ジャジャとすぐに意気投合しました。また、他のお兄ちゃんたちも底抜けに明るいのです。リオはすぐに仲間に入っていきました。

案の定、シリマン大学付属小学校の入学手続きもしていませんでした。その代わり、自宅より徒歩3分範囲にある住宅地の中にある私立小学校の入学手続きをしてくれていました。

私たちが住むドマゲッティの隣町セブランから、シリマン大学まで車で20分かかります。車もありません。ドミニクがバイクで毎日送迎するとなると毎日心配で落ち着いて生活できなかったでしょう。

私の目の届く範囲に学校があるというのは安全面でも安心できます。送金した生活準備資金は、出産祝い金ということにしました。

とりあえず、エアコンのない生活は耐えれません。すぐに、エアコン、カセットコンロ、クーラーボックス…生活必需品を購入し新生活に入っていきました。食事は、私が作ることにしました。手洗いでの洗濯もです。

 

ドマゲッティの隣町セブランの自宅は、バイクで10分、ライスフィールド(田んぼ畑)を通り徒歩30分で砂浜のビーチに行くことができます。

自然豊かでした。しかし、生活するには便利とは言えなかったのです。

いや、日本人の私には不便すぎたのです。

 

毎朝、リオとジャジャを徒歩3分の学校に送りとどけ、手洗いで洗濯物をするのです。生後まもない赤ん坊の世話しているドミニクの妻には到底頼めなかったからです。

近くにコインランドリーもありません。ボタンを一回押すのみの全自動洗濯機とはわけが違うのです。手洗いだとリオと私二人だけの衣服でも、外の暑い小さなガレージの洗面台で1時間以上はかかるのです。

洗濯が終わった後、買い物に行きます。ドミニクの家で食事は用意するとは言ってくれましたが、リオに、ごちゃまぜご飯を床で食べさせるわけにはいきません。

自炊することに決めました。

 

ドマゲッティには、ほとんどタクシーがないのです。トラシカルという自転車にサイドカーがついた乗り物に15分くらい乗りメインの道路に出ます。それは、歩いた方が早いくらいの速度です。

とにかく暑い。屋根のあるトラシカルでも死にそうに暑いのだから、炎天下の中を歩いたら熱中症で死んでしまうでしょう。

メイン道路には、夜7時になると閉まるコンビニストアーがありました。コンビニストアーにはエアコンが設置してあります。まずは、そこで涼むのです。

そこから、トラシクルというバイクにサイドカーがついた乗り物に乗り20分でドマゲッティの街の中心部に到着します。そこには、ショッピングモールがああります。

しかし、日中の時間帯にドマゲッティまで行くトラシクルを捕まえるのも困難でした。時には、炎天下の中で1時間以上もトラシクルが通るのを道路際で待たないといけないのです。

大半、私はメイン道路のコンビニまででギブアップしました。コンビニで、ラーメンや缶詰、卵にパン、ドミニクの家にも私の家にも冷蔵庫がないので、クーラーボックスの氷と氷が溶けるまでに食べきれる食材を購入し自宅に帰るのです。

 

それだけで、もうクタクタです。

 

昼過ぎにはドミニクが子供達を学校に迎えに行き、バイクや自転車で多くの子供達を海や自然の中に連れて行ってくれます。

 

夕方、リオは子供達とドロドロになって遊んで帰ってきます。リオの笑顔が全ての疲れを癒してくれました。

 


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日本とフィリピン、死生観の違い

死に逝き方

日本とフィリピンでは老いによる死にゆく過程も違います。日本では、病院で体は点滴による水分補給にてパンパンに腫れた状態で孤独に死を迎えることが多いのです。

家族の結束が固いフィリピンでは、家族の病気や死には必ずと言っていいほど付き添うのです。仕事を休んでも辞めてでも家族のための時間を惜しまないのです。

フィリピン人の老による死は自宅で家族に見守られて徐々に痩せていくのです。

まるで木が枯れるように安らかに死んで逝くのです。

それは宗教にも関係しているのかもしれないと私は考察しています。

 

病院には、ガン告知や余命告知をされた人多くがいます。

ガン告知と余命告知は違います。多くのガンは、現在の医療で治癒する可能性があるのです。

ガン告知には希望がありますが余命告知は「あなたは、長く生きたとして後3ヶ月です」というように、命の終わりを告げられるのです。そこには生への希望はないのです。

 

キュブラー・ロスという精神科医は、余命告知、死を通達され、それを受容(受け入れる)までの過程を5段階に分類しています。

 

第一段階として、否認と孤立の心理となるのです。

余命告知を受け、自分の命が残りわずかであるという事実を否認、事実から逃避しようとするのです。

これは何かの間違いであると心の中で反論するのです。しかし、病院や家族はその事実に基づいて動いていきます。事実を否定したい患者は周囲の人と距離を置いていくのです。孤立していくのです。

 

第二段階として、怒りの感情が生まれます。

自分が死ぬということの認識はできました。しかし、なぜ自分なのだ。他に悪い人間はたくさんいるのに、なぜ自分なんだ。と怒りの感情が生まれるのです。

 

第3段階として、取引の心理が働きます。

この時期は神頼みの心理ともいいます。信仰心が無くても神にすがるのです。そして、何かをする代わりに命を助けて欲しい。何かいいことをすれば神が命を伸ばしてくれると考えるのです。

 

第4段階として、抑うつの状態になります。

神や仏に頼んでも死が回避できないことを悟るのです。頭では理解していても心が受け入れなかった死を感情的にも理解できるようになるのです。この時期、神も仏もないと、神や仏までにも否定的になるのです。そして、悲観と絶望に打ちひしがれ、憂鬱な気分になっていきます。

 

そして、最後の第5段階で受容の心理となるのです。

なんとか回避しようとしていた死を、生命が死んでいくことは自然なことであるという気持ちなっていきます。自分の人生の終わりを静かに見つめることができ、心に平穏が訪れるのです。

 

私は、約5年間終末期看護に携わりました。

終末期看護というのが死に逝く患者への看護であります。終末期看護についての看護研究論文も多く書きました。看護学校で終末期医療の講義もしていました。

私は、終末期医療に携わった経験より、死の宣告を受けたほとんどの患者の心理はこの過程にそって死に逝くと考えています。

ただ、最後の受容までたどり着く患者は少ないのです。5段階の過程の途中で命の火が消える人、過程の途中で心がつぶれる人、過程の途中で自ら命を絶つ人も少なくないのです。

 

私の臨床経験を踏まえて、キュブラー・ロスの死の受容までの5段階を説いていきます。

第一段階の心理、否認と孤独では、患者は医師より死に宣告を受け衝撃を受けるのです。

その衝撃により逃避の心理が働いた患者がいました。

彼は、膵臓癌の末期でした。膵臓は、体の背中部分に位置した臓器であります。彼のガンは上手く心臓や大血管を傷つけることなくお腹部分に突き出していったのです。お腹に現れたゴルフ大くらいのしこりに気がつき病院に検査入院してきました。

患者はチンピラ系の50歳くらいの男性でした。しかし彼は点滴の針だけでも怖がるくらい臆病であったのです。

医師による死の告知に彼は呆然となり、その後すぐに病院より姿を消しました。私は、もしかしたら、彼は自殺したのかもしれないと思っていました。

しかし、2週間くらいして状態が悪化し彼は再び病棟に帰ってきたのです。

そして私に言うのです「俺、もしかしてガンちゃうかな?」と。

再び医師によりガン告知と余命告知がされます。彼は再び呆然となるのです。

そして、次の日には「俺のお腹のできものあるやろ。これ、もしかしてガンかな?そんなことはないよな」と言うのです。

最期まで彼は、余命どころかガンであるということから逃避したまま逝ってしまいました。

彼は、自分の心を守るために否認の心理の中、逃避という自己防衛本能が働いたのではないかと私は考えています。

 

第2段階の怒りの段階では、多くの時間を共有する一番身近な看護師に怒りの矛先が向くのです。

特に若い溌剌とした看護師に怒りの矛先は集中します。時には、配膳をひっくり返すことや、ものを看護師に投げるつけるという暴力行為までに発展することもありました。

それは、ある意味嫉妬心のようなものだと私は考えています。あなたは、生き生きとして、生きられるが私は死んでいくのだと、、、

 

第3段階の取引や神頼みの心理では、時に患者はボランティア団体や宗教団体に大金を寄付するのです。

患者は、私はすべての財産を人のために投げ出した。私は人のためにいい事をした。その代わりに私の命を助けてください。延ばしてくださいと神と取引をするのです。

今後、必要になっていく入院費や痛み緩和に高額な医療費用の支出が予想されます。患者の死後に残される家族の将来の資金までも寄付に使ってしまった患者もいました。そして、家族は嘆くのです。

病棟の中に宗教団体が勧誘を行うことは禁止しています。

それでも、終末期病棟には面会者のふりをしてでも宗教団体の勧誘はやってくるのです。また、病院の前には多くの宗教団体の勧誘が行われているのです。

私は、この時期の心理については取引や神頼みだけではなくもっともっと奥深い心理が働いているように感じてならないのです。

患者自身も突発的に起こす自分の行動に説明がつかないのです。

死に逝ったものだけが理解できる心理があるように思えてならないのです。

 

死の宣告をされてから死に逝くまでの期間は、自ら命を絶つ危険性は常にあります。

看護師は、自ら命を絶とうとする患者の心のシグナルを、患者の言動の中よりキャッチするようアンテナをはり巡らさなければいけないのです。

 

第4段階の抑うつの時期には、その危険性がさらに高くなるのです。

この時期に病室から飛び降りた患者、退院や外泊中に自殺を図った患者も多いのです。

私には、この段階の患者の自殺で忘れられない経験があります。

余命宣告を受けた患者を取り巻く家族や医師、看護師、ケースワーカーと連携し患者にとってどのような死を迎えるのが望ましいのか家族を中心に死への環境づくりのサポートをしていくのです。

家族や患者の希望により、地域医療と連携し体に多くのチューブを付けた状態での家族旅行を設定したこともあります。

ある50代後半の銀行員の患者、肝細胞癌の末期でした。いつも家族が彼の個室病室に集まりました。特に30歳くらいの娘さんは、毎日のように父親に寄り添っていました。常に患者の治療や看護方針を話し合うカンファレンスにも参加していました。

夕方6時もしくは7時くらいでした。

夕食が終わった時間帯でした。夕食に付き添った家族達は自宅に帰っていきます。

その患者の娘も父親の夕食を食べるのを見届け自宅に帰っていきました。

娘が帰ったすぐ後、その患者のナースコールを受け患者の個室病室に訪れた若い看護師の緊急コールに私は病室に駆けつけました。

娘の置いていった果物ナイフで自分の腹を刺したのです。

そして、自分のしたことに驚いてナースコールをしたのです。

患者は必死に私の腕を掴み、お願いです。助けてください。死にたくないと叫び続けました。

末期がんであった患者のお腹には腹水と呼ばれる水が溜まり膨れています。

果物ナイフで刺した傷からは、腹水と血液が飛び出すように吹き出し、ベッドは血の色に染まり床まで血の海と化しました。

そうなるともう手遅れなのです。

患者は意識がなくなるまで私の手を握り命乞いをしながら逝ってしまいました。

病院からの連絡にて駆けつけた娘は、お父さんが食事をあまり食べなかったので、お腹が空いた時にりんごを食べて欲しいと果物ナイフとリンゴを置いた。私のせいで父親が死んだ。私が父親を殺したと自分を責め泣き崩れました。

医師、看護師ともに無力感でいっぱいになってしまうのです。

病院は患者が死亡退院でも退院するまでのケアとなります。その後の彼女の消息は知りません。

この悲劇は、彼女の一生の傷になったことは間違いないでしょう。

 

第5段階の受容の時期について、医師や看護師間で死への受容について語りあうことがよくありましt。

キュブラー ・ロスの受容モデルの最後の段階は、死を受け入れた受容ではなく、承認ではないかと考える医療関係者も多いのです。私もその一人であります。

死を受け止めるのではなく認めざるえないのではないかと…

 

死に行く人のみが知る心理の過程であります。本当のところは誰にもわからないのです。死に行った人さえも、もしかしたらわからないのかもしれません。

 

死の宣告を受けた患者は、患者の病状の進行状態や痛みを緩和させるために使う麻薬製剤の作用によって死に行くまでの心の過程の進み方には個人差があります。

しかし、ほとんどの患者は、キュブラー・ロスの死にゆく過程の5段階の過程に沿った心の動きが見られると私は経験を持って確信しています。

 

しかし、その私の確信を見事に裏切る患者いました。

それは、28歳の青年でした。彼は特殊な種類の皮膚癌でした。

身体中の皮膚が肉芽や骨が見えるほどまで壊死(腐って)していったのです。溶けると表現した方がいいのかもしれない。

彼の頬の皮膚などは、すでに骨が見えていました。毎日、大量の麻薬製剤の痛み止めを服用し痛みを抑えていました。

そして、毎朝、彼の壊死し黒くなった肉芽を除去する処置が1時間くらいかけて行われていました。彼の目で見える腕や肩の肉芽も除去され洗浄消毒されるのです。処置中も彼は痛みに関してはしかめ面を見せましたが、それ以外冷静に自分の壊死した皮膚の除去を見つめる彼の表情には恐怖感は感じられなかったのです。

医師の病状説明や余命告知にも動揺することもなく穏やかに聞いていたのです。看護師との対応も常に穏やかでありました。

彼のような心理ケースは、ほとんど稀でしかありません。

そして、彼はいつもベッドでゆっくりと聖書を読んでいました。

彼が死に逝くまで彼の態度は変わることがなかったのです。

 

真に信じる宗教が、生命が死んでいくことは自然なことであり、彼自身自然に身を任せていたのでしょうか?

私たちは、不思議な思いでした。

その後、彼のような心理ケースの患者数人と私は出会いました。皆、心から宗教信者でありました。

 

フィリピンには、信仰心の深いカトリック信者が多くいます。熱心な信者は毎週日曜日に欠かさず教会に通います。

食べるものもスリッパも買うことのできない子供たちの笑顔も、フィリピン人の死に対する考えも、枯れるように老い死んで逝くのも、カトリック信者の多いフィリピンの国民性なのかもしれません。

 

2017年1月末、私は首つり自殺を図りました。

私を心配したボディガードのドイと、BAYSIDE ENGLISH CEBUの立ち上げた際の私の右腕であったジングルは、私にシマラという教会に行くことを強く勧めました。

シマラというのは、フィリピンセブ島の田舎にある有名なカトリック教会らしいです。そこで、すべてを神に話して欲しいと。きっと綾子のことを助けてくれるからと…

私は無宗教です。私の自殺の1週間後には私は日本に帰国しました。そのため、シマラという教会に行くことはありませんでした。

いつか行ってみようと思います。