セブ島留学業界時代の変化:韓国系語学学校の崩壊

RPC崩壊

再びセブのマクタン島、Regent Pacific College(RPC)

リオと私たちが、女性と子供ガレージにアラビア人と生活していた間に、私達が2011年3月より3ヶ月間留学していた語学学校Regent Pacific College(RPC) の韓国人職員やフィリピン人講師より連絡が幾度か入っていました。

当時、Regent Pacific College(RPC)は、韓国人経営の語学学校でした。

韓国人職員やフィリピン人講師からの連絡は、その韓国人オーナー、ミスター金(仮名)からのオファーでありました。

Regent Pacific College(RPC)で、日本の留学斡旋会社の対応と学校紹介を手伝って欲しいとのことでした。

Regent Pacific College(RPC)には、外国人対象の語学学校だけではなく、現地の私立幼稚園、小学校、高校も併設しています。リオの小学校編入も勧められました。

 ヨセフがマニラに旅立った1週間後リオと私はセブの語学学校Regent Pacific College に戻りました。

崩壊していた韓国系語学学校

リオと私が滞在していた4ヶ月前には、Regent Pacific College には韓国人を中心100人近い学生が滞在し校内は賑わっていました。

しかし、そこには以前のような活気はありませんでした。学生は私とリオを合わせてたったの6人だけだったのです。

停電の際に稼働するジェネレーター(自家発電機)で電気は確保されていました。

毎日、夜中にはジェネレーターの電源は切られ、朝になれば電源が入れられるのです。夜間は停電しているのと同じ状態です。

朝になるとお部屋に設置してある冷蔵庫の氷は溶け、床は水浸しになるのです。

学校の休日は、夕方6時から夜10時頃までのみ自家発電により電気は確保されました。それ以外は停電中と同じ状態です。学校や学生寮の照明だけではないのです。もちろん、エアコンも含め全ての電力が遮断されました。

学校職員によると2ヶ月間、電気代を支払っていないため電力会社が電気の配給を停止したとのこと。そのために自家発電機により電気が供給されているました。

自家発電機のオーバーヒートを防止するために、夜間と休日は電源を切るのです。そのために、停電状態となるのです。

 

2011年夏のバケーション時期、Regent Pacific College(RPC)には、200人近い学生が滞在していたそうです。しかし、経営困難のため講師への給料を支払うことができず、講師たちは授業をボイコットしたのです。夏の韓国人経営のRegent Pacific College(RPC)は破壊状態であったのでした。

夏のバケーションも終了し、学生たちは各自国に帰国もしくは転校して行きました。

そして、4人の学生を残した状況で電気代金の支払いが停滞しました。

ちょうど、電気が止められた時期にリオと私はRegent Pacific College(RPC)に再入学したのでした。

日本の留学斡旋会社の訪問なんてありません。学校紹介なんてできる状況ではありませんでした。

オーナーミスター金によると、彼の韓国人妻に騙され全てを失ったとのことでした。

フィリピン講師達によるとミスター金がカジノで学校の資金を使い果たしてしまったと。そして呆れた妻はミスター金を捨てて韓国に帰ったのだとか…いろいろな噂が飛び交っていました。

そんな学校の敷地内には、講師寮に住む10人くらいのフィリピン人講師達と私たち親子を含め学生6人が住んでいました。

 

天井や壁、部屋中やトイレあらゆる場所に英単語の書かれたメモを張っている45歳くらいの独身日本人男性トニー(ニックネーム)は停電学校にギブアップし静かに他の学校に移っていきました。

韓国人親子、母親シャロンとその息子トム。シャロンは、学校内でミスター金を見つけては苦情を訴え続けていました。

そして、30代独身の韓国人の女性英語塾講師のスージー。リオと私はすぐに彼女と仲良くなりました。ほとんどの時間、彼女と行動を共にしました。スージーは、リオにとって、セカンドママとなりました。

夜間と休日には、電気は止まるが食事とセキュリティは確保されています。洗濯もしてくれる。5分もかからないところにモールがあります。セブの街までもタクシーですぐ行くことができます。そこで涼めばいいのです。

暑いドマゲッティで、コンビニ材料で料理を作り、手洗いで洗濯していたことに比べれば、電気が遮断されることなど屁でもありませんでした。

Regent Pacific College(RPC)の敷地は6500坪もあります。そして、校内には大きなプールと中央には大きな校庭があります。

そして、崩壊した学校には、もはや校則もルールも何もありません。

講師と私たち学生は休日には、大きな校庭の真ん中にテーブルを出し、バーベキューや、私が日本から持ってきたたこ焼き機でたこ焼きパーティを開きました。

講師達は、どこからかゴルフセットを持ってきて、みんなで校庭からプールに目がけてゴルフの打ちっ放し、校庭の芝生に穴を開けてパターゴルフを楽しみました。

講師たちは給料を支払ってもらえない代わりに、Regent Pacific College(RPC)を卒業した韓国人学生たちへのオンライン英会話の個人ビジネスが許されていました。そして、無料での講師寮の滞在と食事が提供されていたのです。

学生のマンツーマン授業は講師達のオンライン英会話個人ビジネスの空き時間に自由なスタイルで行われました。

講師に給料が払えない、学生に授業を提供できないオーナーミスター金は、学生や講師たちの自由な行動を止めることができなかったのです

シャロンのミスター金への苦情は彼女の趣味へと変わっていきました。校庭でバーベキューを楽しみながらも、ミスター金を見つけては「ちょっと待って、苦情を言ってくる」と笑顔で私たちに告げミスター金に苦情を言うのです。そして「すっきりした」と笑いながら私達の元に帰ってきてバーベキューパーティを楽むのです。

Regent Pacific College(RPC)敷地内に併設する私立学校の授業は通常通り行われた。リオの教育には影響はありませんでした。

停電学校の自由な暮らしは2ヶ月間も続きました。12月になると、2ヶ月間に及ぶ韓国の冬季シーズンが始まります。RPC語学学校にも、30人ほどの韓国人学生が入学してきました。電気代を支払ったのか、自家発電による電気は終了し通常の電気に戻りました。

停電生活の終了と同時に、私たちの自由な学生生活は終わりました。

独占留学斡旋ビジネス

その頃、RPCオーナーミスター金は、毎日のように私を韓国レストランの昼食に誘ってくれました。

Regent Pacific College(RPC)設立時の苦労、繁栄期のRegent Pacific College(RPC)、韓国人妻との思い出等を時には涙を流しながら話すのです。

私は、自分の事を話すことは得意ではありませんが、職業柄人の話しを聞く事は得意中の得意であります。

病院では、心身に傷を負った多くの患者の話しを聞くのです。癌告知や余命告知をされた患者。とにかく話しを聞くのです。そして、自分の感情や意見は入れないで患者の言った言葉をリピートするのです。

ミスター金も同じでした。

「この学校は妻と私の思い出が詰まっている」「そう、あなたと奥様の思い出が詰まっているのね」

「以前は、常に300人の学生がいた。学校寮では足りずに外にホテルを借りて学生を収容した」「300人も学生がいたのですね…」という会話が毎日のように昼時の韓国レストランで交わされました。

 

そして、ミスター金は、私に独占留学斡旋ビジネスを持ちかけたのです。

 

内容は、語学学校Regent Pacific College(RPC)を日本に紹介し日本人学生を集めて欲しいと。

方法は個人でウェブサイドを作成もしくはブログで学生を集めても、日本の留学斡旋会社を使ってもいい。学生紹介手数料として、学生の学費の50%は私に入るというものでした。

個人で学生を集めれば授業費の50%が私の収入となる。留学斡旋会社を介せば、留学斡旋会社に紹介手数料として授業費の25%から30%支払う。そして残りの授業費の25%もしくは20%は私の収入になるのです。

 

ただ独占契約金として、1ミリオンペソ(当時の為替で日本円約200万円)」をミスター金に支払うことが条件でした。

当時、ミスター金は、韓国冬季バケーションで30人余りの学生を受け入れました。しかし、彼らへの運営資金に困り独占契約の契約金と理由つけて運営資金を私から入手したかったのでした。

私は、後ほどそのことに気がつくことになりました。しかし、当時はそんなことは考えもしませんでした。

 

私もリオも海に接し、膨大な敷地と現地私立学校が併設しているRegent Pacific College (RPC)が大好きでした。

そして、日本の親子や子供達の留学には最適な学校であります。また、フレンドリーでピュアなフィリピン人講師達は日本人の心をつかむことができると私は確信していました。

 

16年間働いた看護師時代の貯金もあります。車一台買うくらいの金額で大きなチャンスがあるのです。私は、このチャンスに賭けることを決めました。

 

そして、2012年1月、BAYSIDE ENGLISH CEBUの先駆けとなるRPC独占留学斡旋ビジネスがスタートしたのです。

RPC崩壊

RPC崩壊

RPC崩壊

RPC崩壊

RPC崩壊

RPC崩壊

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フイリピン親子移住:女の館ガレージにアラビア人

ドマゲッティの生活part 2

退屈な女の館

2011年夏、フィリピンネグロス島ドマゲッティに移住した私たちは女だけの館に引っ越しました。

そこで、豪華な暮らしをすることができました。

ただ、時間の経過と共に、女の館での生活は、私もリオにとっても退屈なものになっていきました。

屋敷のオーナーであるジンジンの0歳児の双子の息子達はリオと同等に遊ぶには幼すぎました。

19歳の長女のジョアニーも11歳の次女のリサも当時6歳のリオと遊ぶにはお姉さんすぎたのです。

また、彼女達は海で遊ぶよりオシャレに興味を持っていました。日焼けの事をいつも気にしていました。

そして、彼女達の生活は、とにかく派手でパーティ好きだったのです。

ジンジンは、収入が入るたびに日中は自宅にマッサージやエステシャンを呼び、夜になるとパーティもしくは、夜のドマゲッティの街に繰り出していきました。

私もパーティにも、夜の街にも彼女達に誘われ2回程参加しました。

パーティには、フィリピン人富裕層達が集まります。

ジンジンは、とにかく富裕層達を私に紹介するのです。OOのスパーマーケットのオーナーであるとか、OO会社のオーナーであると紹介されるのですが、フィリピンの会社なんて知らない。そして、フィリピンでビジネスをするわけでもなく富裕層と繋がる意味もないのです。

それに大人のパーティにリオも興味がありません。

夜も街もジンジンと彼女の富裕層の友人達と一度だけ参加しましたが、自宅に残しているリオのことが気になって楽しめません。また、酔えば彼女達は現地の言葉で話します。それは、私にとって意味もわからなく退屈な時間でした。

ドマゲッティの街はオシャレですが小さな街です。1週間も滞在すれば、ほとんどを回ることができます。リオの学校の時間帯に毎日ドマゲッティに行くのも飽きてきたのです。

 

ガレージにアラビア人

そんな時に面白い出会いがありました。

アラビア人ヨセフです。

 

ブラックアメリカン講師ドミニク達とビーチに遊びに行った際に2歳の可愛い女の子を連れたアラビア人と若いフィリピン人のカップルに何度か出会いました。

彼らも毎日のように夕方になるとビーチに子供を連れて来ていました。

アラビア人は、リオや子供達に砂浜から、こぶし大くらいのカニを捕まえてくれました。リオも子供達も大はしゃぎで喜びました。そして、ビーチででアラビア人に会うたびにリオはカニを捕まえて欲しいとねだっていました。

私は、時々しかビーチに行きませんでした。リオは毎日のように自宅近くのビーチでアラビア人と遊んでもらっていたらしいです。

その後、リオが入院したこともあり名前も知らないアラビア人の事はすっかり忘れていました。

 

ある日、いつものようにリオを学校に迎えに行った際、リオの学校付近であのアラビア人が歩いていました。

リオが窓を開けて話しかけたのです。

彼は私とドミニクを探して2時間かけて、ドマゲッティのパブリックマーケット(公共マーケット)から歩いてやってきたと言います。お金も持っていない。3日間、何も食べていない。助けて欲しいと。

服はボロボロ、片足はパンパンに腫れ、傷がありました。とにかく、私は、住宅地の中にあるポンコポンコ呼ばれるフィリピンの庶民料理を食べさせ、家に連れて帰ってもいいかを確認するためにジンジンに電話をしました。

ジンジンは、ほっといたほうがいいが、私次第だと言うのです。

リオは、かわいそうだからの家に連れて帰ろうと言いました。

私は迷いましたが、家に連れて帰ることにしました。

 

家には、ジンジンのほか、セブラン市長トニーのボディガードも待機していたのです。

ボディガードの男性は筋肉質の肩にタツーが入って強面の顔をしていました。そして、アラビア人への事情聴取が始まりました。ジンジンもボディガードもアラビア人に対する口調は厳しかったのです。

アラビア人の名前はヨセフ、年は私とジンジンと同じ年。1年前に仕事でヨルダンからマニラにやって来ました。

マニラに滞在中にドマゲッティに旅行し、その際にドマゲッティのKTB(クラブ)の20歳のフィリピン人女性ジョイに恋をしました。

そして、そのまま彼女ジョイの家に移り住んだのです。ジョイには、すでにフランス人との間に子供がいました。しかしフランス人はジョイが妊娠してすぐにフランスに帰国し、一人で子供を育てていました。

ヨセフは、ジョイと彼女の娘、そしてジョイの母親と暮らしていました。ヨセフの持参した資金はほとんどジョイの家族のために使い果たしてしまいました。

そして2週間前、置き手紙を残し突然家からジョイもジョイの娘も母親もいなくなったのです。

ジョイは、残り少ないヨセフの全財産もヨセフのパスポートまでも持って行ってしまいました。

ヨセフは、仕事を探すためにドマゲッティに移りました。

しかし、お金もパスポートもない。仕事は見つからない。ドマゲッティのマーケットで物乞いをしながら2週間過ごしたのです。

そして、アメリカ人のドミニクもしくは日本人の私に助けを求めるためにドマゲッティより2時間かけて私達が住んでいた隣町まで歩いてやってきたのです。

しかし、すでにドミニクはセブ島に移り住み、自宅はもぬけの殻だったのです。途方にくれてとぼとぼ歩いているところに、リオから声をかけられたということでした。

足の傷はリオと同じように虫に噛まれたか小さな傷からばい菌が侵入し蜂窩織炎になったのでしょう。リオの蜂窩織炎より酷く悪化していました。

ジンジンと私はヒソヒソと相談しました。

私は傷が治るまでだけでも面倒を見てあげたいと訴えました。ジンジンは見知らぬアラビア人を家に入れたくないが、家賃を払っている私の意見は無視できないという感じでした。

ところが、アラビア人がイスラム教徒でなくカトリック教徒だということを知った時にジンジンの心が動きました。

セブラン市長トニーと電話で相談し、家の中では住む事は許せないが、ガレージでなら住んでもいいということになったのです。

そして、ヨセフはセブラン市のプロジェクトである道路工事の仕事を市長トニーから与えられました。道路工事はジンジンの自宅横で行われていました。日給は百五十ペソ(三百円)お金が貯まった時点で出て行く約束をしたのです。

ヨセフがカレージに住むことに、リオは大喜びでした。

 

そして、女性と子供の家とガレージにアラビア人という奇妙な生活がスタートしたのです。

 

リオを連れてフィリピンに移り住むにあたり、日本から私はあらゆる薬を持参してきました。看護師であった私は薬を調達することは容易かったのです。もちろん抗生物質も軟膏も包帯もです。それをヨセフに投与し、ヨセフの傷はすぐに完治しました。

そして、ヨセフはセブラン市の道路工事現場で働きました。ヨセフは仕事が終わるとリオと一緒に釣りに行ったりカニを捕まえたりと遊んでくれました。

時間の合間には、車の修理や家の修理、とにかくよく働いたのです。女性だけの家に男性が一人いるだけで便利なのです。そして、彼の人柄も良かったのです。

ジンジンファミリーも町の人達もセブラン市長までもヨセフを認めるようになっていったのです。

市長トニーは、裏の方法でフィリピン人になれるようにしようと言ったくらいです。国籍までも変える裏の方法があるとは、さすがフィリピンです。

だが、ヨセフはフィリピン人になりたくなかったのです。ヨルダンに帰りたかったのです。

私はヨセフがヨルダンに帰ることができる方法を考えました。

ヨセフは、フェイスブックも持っていなかったのです。私のパソコンを使ってヨセフにフェイスブックを作成させ、そこからアラビア人の友人を探すことを勧めました。

ヨセフは毎晩、芋ずる式に友人検索をしていったのです。また、スカイプも作成しアラビア人の友人を検索して行ったのです。

 

リオは、学校から帰るとヨセフの道路工事現場に直行しました。カニ取り名人のヨセフの周りには多くの近所の子供達も集まりました。リオはヨセフを通じて多くの友達ができたのです。

道路工事は、セブラン市のプロジェクトということもあり工事現場のおじさんたちは町の人達です。リオにとっては、工事現場の人たちは友達だったのです。

道路から、”ママ〜” と大声で呼び声がしたことがあります。リオは工事現場で働くロードローラーカーの助手席から手を振っていました。

外でドロドロになって遊んだ後は、湯船にゆっくり浸かって、ヘルパーさん達の作った美味しい夕食をいただく衛生管理も健康管理も問題なく楽しみました。

ジンジン達が夜のドマゲッティの街にくりだすのを見計らっては、リオと私、ヘルパーさん達、市長トニーが私達の警備のために送ったボディガードまでもヨセフのガレージ前に集まり会話を楽しんだのです。

ジンジンの富裕層パーティよりずっとリオも私も楽しみました。

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ヨセフとリオ、近所の子供達で収穫されたカニは、ヘルパーさん達、市長トニーのボディーガードによって美味しく料理されました。

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

 

ヨセフが、ガレージに住んでから1ヶ月ほどが経った頃、フェイスブックを介してマニラに住むアラビア人の知り合いと連絡が取れたという報告が入りました。

マニラに行けばどうにかアラビア人達の助けが得られるといいます。私はお祝いにマニラまでの船のチケットをプレゼントしました。

 

そして、ヨセフはマニラへと旅立ったのです。

 

ガレージのアラビア人の今

しばらくして、ヨセフから連絡が入りました。

彼を捨てた彼女ジョイが帰ってきたのです。マニラで働いてお金を貯めて、彼女とフランス人のハーフの娘を連れてヨルダンに帰ると。

 

それから、半年後くらい後にヨセフはジョイと娘を連れてヨルダンに帰って行ったのです。

 

あれから既に7年以上経ちます。

ヨセフは、リオと私の誕生日、クリスマス、ニューイヤー特別記念日には欠かさずメッセージを送ってくれます。

時には、家族写真やボイスレコードもつけてくれるのです。また、毎年のように、子供が生まれたと連絡が入るのです。

現在、彼は4人の子供のお父さんです。

2017年6月ヨセフがリオの誕生日に送ってくれた家族写真です。

ドマゲッティの生活part 2  ドマゲッティの生活part 2

 

 ヨセフがマニラに旅立った1週間後リオと私は女の館を後にし、セブの語学学校Regent Pacific College に戻りました。

それから、私たちはジンジン家族には会っていません。

2013年、BAYSIDE ENGLISH CEBUの雇用者試験をドマゲッティで開催した際に、私とリオが約2ヶ月間過ごしたジンジンの家を訪れました。

そこにはアメリカ人家族が住んでいました。

ジンジンファミリーも私達の世話をしてくれたヘルパーさんたちの姿もありませんでした。

近所の人の話によると、セブラン市長トニーは市長選挙に負けました。

フィリピンでは、大統領選でもそうでありますが、選挙に負けると犯罪者として裁判にかけられるもしくは暗殺されることが多々あるのです。

トニーも裁判にかけられ姿を消しました。そして、ジンジンファミリーもどこかへ引っ越してしまったと。


日本の外から見る日本の歴史

シリマン大学資料館

私は日本にいた頃、第二次世界対戦時代の本をよく読みました。

そして、沖縄平和祈念館、ひめゆりの塔、広島原爆祈念館、鹿児島の知覧特攻平和会館、最近では靖国神社の資料館にも訪れました。どこの資料館でも涙なしでは直視できない悲惨な状況があります。

ドマゲッティ、シリマン大学の中にもフィリピンの歴史と共に第二次世界対戦の歴史も展示している資料館があるのです。

フィリピン側から見た日本軍の姿が展示されています。そこには、日本軍の攻撃によって焼け野原になった町、日本軍によって連行されるフィリピン人庶民達、日本軍によって処刑されようとしているフィリピン人達の写真等も展示されているのです。

年配のフィリピン人によると、現在のゼネレーションのフィリピン人は親日家であります。しかしながら、80代、90代の高齢者達は戦争経験より親日でない人も多いらしいとのことでした。

 

日本の軍人達が、フィリピン人を食べたという噂や、日本兵がフィリピン各地に金貨を隠したという黄金伝説までもあるらしいです。

 

韓国映画

2010年当時、韓国人が主流であったセブ島留学にて、私たち親子には韓国人の友人が多くいます。

一般的に感情を率直に表現する国民性は、日本の国民性とは少し違うかもしれません。しかしながら、情が深い彼らの国民性に私たち親子は幾度も助けられました。

そういう経験もあり、私は韓国の歴史に関した映画をよく見ます。その中には第二次世界大戦時代に日本人による不法労働を虐げられる韓国人(当時、朝鮮人)の場面がよく描かれています。

その場面に私は、日本で私達が住んでいた街にある池 ”光明池”を思い出します。そこは、第二次世界大戦時代に強制連行され日本に連れてこられた韓国人によって掘られた池であります。そして、そこには労働中に亡くなった韓国人の多くの名前が刻まれ祀られています。

 

私は、政治や宗教については全く興味はありません。

しかしながら、日本の外から見る日本の歴史は興味深いものであります。

 


 

 

 

 

フィリピン親子移住 ドマゲッティでの生活Part 2: 女の館での新生活

フィリピンドマゲッティ新天地に向けて

 

フィリピンネグロス島ドマゲッティへの親子移住より2ヶ月後、息子リオは、虫に刺された足を、不潔な手で掻き毟ったため蜂窩織炎となり、高熱を出して入院しました。リオの症状も3日で回復しましたが、ホテルのように居心地の良いシリマン大学病院の特別室で2週間以上も滞在したのです。

私たちと共に生活するブラックアメリカン講師ドミニクは病院が居心地いいとは、何て不健康な、子供は外でドロドロになって外で遊ぶものだと言いました。本当にその通りです。

ただ、リオの衛星管理を怠ったため蜂窩織炎となってしまったのです。それは、私の責任であります。私のコンビニ食材での料理も限界がありました。

リオの栄養管理も考えると、ドミニク家族との生活には無理がありました。私はドミニク家を出ることをリオの入院中に決めました。

 

そんな時に、リオの主治医が彼の家族が経営するドマゲッティのホテル、マリアルイサのパーティに招待してくれました。誰の主催で何の目的のパーティかは覚えていませんが、上流階級のフィリピン人達のパーティであったことは間違いありません。

そんなパーティに日本人親子が出席していることが珍しいのか多くの人に声をかけてもらいました。その中で私たちが住むドマゲッティの隣町セブラン市の市長トニーと知り合ったのです。

そして、私は家探しの相談をしました。セブラン市長トニーより、私たちがよく遊びに行くセブランのビーチ前の家を紹介してもらいました。

 

リオの退院後、私たちはそのビーチ前の家を訪れました。

家は5LDK、裏には大きな庭がありました。ガレージには車が2台止まっていました。オーナーの女性が家の前で待っていてくれていました。

家具付きで2万ペソ(約4万円)で賃貸したいとのことでした。

海の目の前で庭付き5LDKの家が4万円、日本人金銭感覚で考えると激安であります。しかし、都会から離れた港町の当時の物価では相当額であります。ちなみに当時私たちが住んでいた2LDK小さな庭とガレージ付の家の家賃は三千五百ペソ日本円で7千円でした。

 

オーナーの女性の名前はジンジン。年齢が私と同じということもあってか話が盛り上がりました。

彼女は、私達に料理とビールまで出してくれました。彼女は4人の子供達と、3、4人のヘルパーさん達と暮していました。

 

一番年上の長女は、日本人もしくは中国人系の顔をした美人です。当時19歳でシリマン大学で勉強していました。

2番目の次女は白人系の美人です。当時11歳。

下の二人の子供はまだオムツをした双子のフィリピン人顔の男の子達です。

ジンジンによると、長女の父親は中国人。次女の父親はスイス人。そして、双子の男の子達はセブラン市長トニーとの間の子供たちだというのです。

ジンジンは、セブラン市長の愛人だったのです。

この奇妙な家族形態に私は興味津々でした。昼間から夕方近くまでビールを飲みながら、ジンジンと彼女の長女ジョワニーと話が盛り上りました。

彼女達はヘルパーさんも含め女性ばかりと双子の男の子で生活していました。市長トニー以外の男性を家に入れることはトニーに禁止されているとのことでした。

 

女性だけの館。まるで大奥のような家です。

 

彼女達の生計はそれぞれの子供達の父親からの養育費の仕送りで成り立っています。

しかし、次女の父親スイス人からの仕送りが滞り、市長トニーの正妻からの嫌がらせでトニーからの仕送りも減ってきたとのことで生活が苦しくなり、家を賃貸に出して実家に引っ越さないと生計が厳しくなってきたというのです。

家の中も見せてもらいまいた。すべての部屋にエアコンが設置されています。大きな冷蔵庫が2台もありました。温水シャワーもあります。バスタブまでもあります。車も2台、バイクもあるのです。ヘルパーさんの作る料理も美味しいのです。

 

私はヒラメキました。

ダメもとで、提案してみました。

私とリオに一部屋だけ貸して欲しい。そして、ヘルパーさんもみんなまとめて一緒に住まないかと

家賃は倍の月4万ペソ(8万円)を支払う。その代わりに、食事、掃除、洗濯をして欲しい。そして、車とバイクを使わせてほしいと…

彼女達は私の提案に驚いた様子でした。しかし、私とリオの親子を受け入れるだけで家を出なくてもいいのです。そして彼女たちの生活も変わらないのです。その上に4万ペソの収入が入るのです。彼女達にとっても私にとっても一石二鳥だったのです。

 

その場で商談は成立しました。

 

ドミニクもドマゲッティでの生活に経済的に限界を感じていました。経験豊かなネイティブ講師であればセブであれば十分働き口があります。家族を養うこともできます。また、韓国人から一緒に仕事しないかと誘われているとのこともあり、ドミニク家族はセブに帰ることとなりました。

 

女の館での生活

そして、女性だけの城、大奥でリオと私の新しい生活が始まりました。

 

車があるだけで同じ町でも世界が変わります。

 

リオはそのまま、ドミニク家族と私達の住んでいた住宅地の小学校に通いました。

朝起きると、ヘルパーさん達によって、すでに美味しい朝食ができているのです。

毎日、朝食後に車でリオを学校まで送り、私は一人でドマゲッティの街まで車を走らせました。ボリバーでゆっくり本を読み、ショッピングモールで買い物を楽しみました。夕方にはリオを車で学校まで迎えに行き、リオの学校より少し車を走らせると、海辺のレストランがあります。毎日そこでマンゴジュースを飲んで帰るのが日課となっていました。

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2

ドマゲッティの生活part 2


 

フィリピン親子移住:ドマゲッティ繁華街ボリバーでの週末

西洋を感じさせるボリバー

ドマゲッティの中心部海岸沿いに、ボリバーと呼ばれる場所があります。

海岸沿いに、おしゃれなレストラン、バー、ホテルが立ち並んでいます。

 

フィリピンには、300年以上にも渡るスペインの植民地であった歴史があります。各地にスペイン建築の跡が残されています。

 

まさに、ドマゲッティの街はスペイン植民地時代の建物が多く残され、西洋を感じさせるおしゃれな街です。

そして、老後を楽しむ西洋人、欧米人たちで街は賑わっていました。

 

私たち親子の週末はドマゲッティのホテルで過ごしました。

リオと私の1週間分の洗濯物を持ってドマゲッティ中心街のコインランドリーに行くのです。そして、ボリバーのレストランでおいしいものを食べ、お気に入りのホテルで過ごすのです。

 

ドマゲッティ、ボリバーには、私たちのお気に入りのホテルが数件ありました。

 

第一に、海岸中央部に位置するハネコーン。

 

建物は古いですが木造の風情のあるホテルです。1階には深夜まで開店しているレストランバーがあります。週末の夜の9時を過ぎるとバンドやバヨリニストのミニコンサートが開催されるのです。

リオと私のドマゲッティ滞在のほとんどの週末はそこで過ごしました。

 

ホテルの受付嬢とも仲良くなりよく話をしました。

彼女の弟は教師になることを目標に大学で勉強していると言います。彼女は弟の学費を支えるために働いているのでした。

そして、彼女の弟は私が起業することとなる語学学校BAYSIDE ENGLISH CEBU の講師となったのです。2014頃より、私が設立したセブ語学学校BAYSIDE ENGLISH CEBUには、多くの日本企業のビジネス研修に使われるようになりました。彼女の弟はビジネス英語の中心核講師へと成長していったのです。

 

母と子!フィリピン移住への第一歩:セブ島親子留学2

RPC崩壊

16年間、緊急医療の看護師として医療業界を走り続け、病院のお局様であった私は35歳にて人生最大の宝物(息子)を授かる事ができました。しかし、私の結婚生活は1年も続かず破局。私達親子の人生の再起として、8年前の2011年3月、私と3歳の息子リオはフィリピンのセブ島に渡りました。

 

フィリピン移住への第一歩:語学留学

2010年夏42日間のセブ島語学留学を終え日本に帰国後、私はパートタイムで町の一般病院で勤務しながらフィリピン移住の準備を進めました。

その間に離婚も成立しました。

移住先フィリピンの生活準備は、2010年の留学中に友人となった、ブラックアメリカン講師ドミニク家族に依頼しました。私達親子の移住先はフィリピン南部のネグロス島ドマゲッティです。移住前の3ヶ月、英語環境に慣れるために、フィリピンセブ島の語学学校に滞在する事に決めました。

ほとんどのフィリピン語学学校では、英語学習のみならず敷地内に学生寮が整備され、食事、掃除、洗濯が提供されるのです。また、安全も確保されているのです。

突然何も知らない海外に飛び立つのは危険が多すぎます。

安全と最低限度の生活が守られたフィリピン語学学校は、ゆっくり海外移住の環境を整える準備にふさわしい環境であるのです。

フィリピンへの移住の前日 同僚たちが送別会を開いてくれました。これが、私の最後の日本社会であります。

RPC

 

そして、2011年3月、東北地方太平洋沖地震から約1週間後にフィリピンセブのマクタン島に位置する韓国資本の語学学校Regent Pacific College(現在のBAYSIDE ENGLISH CEBU RPC CAMPUS) に到着しました。

当時、春の大学生バケーションシーズンということもあり韓国人大学生たちで学校は賑わっていました。RPC

3ヶ月間のRegent Pacific College での学生生活、とにかく人との出会いを楽しみました。4才の息子リオの英話は、初めの2−3か月はインプットの時期でした。2−3か月後に突然アウトプットに変わる時期があるのです。

ちょうど、その時期にドマゲッティに移りブラックアメリカン家族と生活をともにしたこともあり、当時5歳のリオの英語は完全にブラックアメリカンイントネーションとなっていきました。

 

Regen Pacific Collage (RPC) での3ヶ月

 

RPC

RPC

授業がどうだったか勉強は?ということはあまりよく覚えていませんが、とにかく楽しみました。

 

そして、2011年6月初めフィリピンセブより飛行機で25分。バスと船で5時間南下した私たち親子の移住先であるネグロス島ドマゲッティに移ったのです。

 

 

母と子!海外進出の第一歩:フィリピン・セブ島親子留学

リオと私のセブ島親子留学

2010年の夏、私たちの親子の42日間のセブ留学が始まりました。

 

私たちの留学先は、セブ市のマクタン島に位置した、ほとんどの講師がネイティブの語学学校でした。

夏休みということもあってか、韓国人、台湾人、ロシア人、日本人と多国籍な学生達で賑わっていました。当時、日本人学生は全学生の20%以下でした。

 

授業はどうだったのかは、あまり覚えていません。

 

私達のセブ島留学の目的は、英語の勉強だけではなく、人生の転換期としてこれからの人生の方向性を考えることでした。

 

そして、そこでの出会いが、私たちの人生の方向生を大きく変えたのは間違いありません。

 

国籍、年齢に関係なく私は多くの学生や講師から子供の教育の事、生活の事あらゆる情報を集めました。授業時間はほとんどプライベート会話と情報収集へと変わっていきました。

夏休み時期ということもあり、各国からの親子留学の学生も少なくなかったのです。

日本からお母さんの話では、2年間以上、海外の政府認可校に留学すれば帰国子女枠として、日本の有名私立小学校に編入しやすくなるというのです。

 

また、韓国からのお母さんは、子供の教育のために長期計画を立てセブ島に来ていました。

フィリピンの語学学校で基礎英語を3ヶ月間勉強した後、授業費が安いフィリピンで私立小学校に子供を通わせるのです。フィリピンの私立学校での授業は英語で行われるのです。英語をマスターした後、親子でオーストラリアに移住する計画でした。オーストラリアで3年以上移住すると永住ビザが取れるらしいのです。永住ビザを取得できればオーストラリアの高校、大学の学費は外国人価格ではなく現地価格となると言うのです。

 

各国のお母さんたちの子供の将来計画に、私は、『私の世界はなんて狭いんだ』衝撃を受けました。

 

そして、お母さん達の情報の信憑性をインターネットで調べるとともに、講師たちからは、フィリピンの私立学校の情報を集めました。

 

黒人アメリカ人講師ドミニクのフィリピン人妻はフィリピンネグロス島ドマゲッティ出身であり、そこにはフィリピンで有名大学であるシリマン大学、そしてシリマン大学付属小学校があります。

彼自身も家族と一緒にセブ島よりドマゲッティに移り住み、リオと同じ年の息子をシリマン大学付属小学校に入学させたいとのことでした。

ドマゲッティはダイビングでも有名な街であります。私は看護師時代に同僚たちとダイビングで3回訪れています。海沿いの街並みは西洋を感じさせるおしゃれなレストランが立ち並ぶ素敵な街です。実際に多くの西洋人たちが滞在していました。

 

私たち親子の方向性は決まりました。

来年2011年の6月にリオとドマゲッティに移り住む。

 

そして、リオをシリマン大学付属小学校に入れる。

2年後には、日本の私立小学校に帰国子女として編入もしくは、韓国のお母さんの計画のように他の国に出るという手もあります。

2年後の方向性はその時に考えればいいのです。

 

がむしゃらに働き続けた看護師時代の蓄えも十分ありました。

離婚後、養育費として月20万円くらいの収入は入るでしょうが、(実際には18万弱でした)日本でリオを私立小学校や習い事に通わせるには十分ではありません。

しかし、フィリピンであれば、リオの教育も含め親子二人で十分暮らしていけるのです。

私の頭の中に、シミュレーションは描かれました。

あとは、環境を整えるのみです。

 

ドミニクにドマゲッティでの住居と家具等の購入等の移住するにあたっての環境作り、そしてリオのシリマン大学付属小学校の入学準備を依頼しました。

安全確認のために実際にドミニクの家族と子供たちとも会いました。

リオを連れていくためには十分な環境を整えてから移住先のドマゲティに移る必要があるからです。

 

ドマゲッティに移るまでの3ヶ月間、授業、食事、掃除、洗濯その上セキュリティが確保されているセブ島の語学学校に滞在することを決めました。

 

2010年夏のセブ滞在中に約7か月後の2011年3月に入学を決めた語学学校の入学手続きを済ました。

 

その留学先の語学学校が、後に私が起業することになるBAYSIDE ENGLISH CEBU RPC キャンパスであります。

当時は韓国人が経営する語学学校Regent Pacific College(RPC)でした。

 

その当時は、そこで起業する事になるとは夢にも思わなかったのです。

 

この2010年夏、セブ島留学では多くの素晴らしい人たち、後ほどの私のビジネスに大きく関わってくる人達との出会いがありました。

 

私のグループクラスのクラスメイトでスタッフでもあった韓国人のレイナ、ロシアに10年以上暮らしロシア語を流暢に話す彼女は、セブ島の語学学校にロシア人を連れてきた一人者と言っても過言ではありません。彼女は後ほどBAYSIDE ENGLISH CEBUの韓国人マネージャーとして韓国、ロシアマーケットに大きく貢献していくことになるのです。

そして、日本語、中国語を流暢に話す韓国人ジャスリン。彼女も後にBAYSIDE ENGLISH CEBU の韓国マネージャーとして韓国、台湾、中国マーケットに貢献するのです。

当時は、そんなことになるとは、夢にも思いませんでした。

 

日本には、本音と建前を使い分ける文化が定着しています。日本社会ではストレスや問題等を心の奥底に閉じ込め装飾した顔を表に出していかなければならないのです。

しかし、日本のしがらみから解放される海外では心も解放されるのです。殻をかぶせて心の奥にしまっていた悩みなども打ち明けることもできるのです。

 

私より3歳年上で7歳の娘と親子留学に来ていたエステシャンの優子さんに(仮名)私は離婚するにあたっての不安を彼女に打ち明けました。彼女もまた、旦那さまの浮気に悩んでいました。

彼女はセブ留学後、離婚カウンセラーとして、そして現在、夫婦円満カウンセラーとしてテレビ、雑誌に登場する有名人となっています。

 

お母さんと弟と共に親子留学に来たサナギちゃん(仮名)彼女はお母さんに内緒にねっとそっと私に話しました。

彼女はアフリカに旅行した時にアフリカに恋をしたのです。セブで英語を学んだ後、アフリカに写真を撮りに行くのだと。

彼女とは、それ以来交流がありませんが、後日、アフリカで少数民族を撮影する写真家としてテレビ、新聞、雑誌で彼女の姿を多く拝見することになるのです。

 

そして、当時18歳大学生のイッシー、彼は2012年8月、私が設立した語学学校BAYSIDE ENGLISH CEBU の開校時に50人近くの大学サークルの学生達を引き連れ開校を盛り上げてくれる事になるのです。

 

また、彼の同期であった大学生二人、ハルとマルと共に私はBAYSIDE ENGLISH CEBU を立ち上げることとなるのです。

 

20歳の青年タカ、彼はこのセブ島留学より、セブ島に永住することになります。

現在、私が息子リオとは離れフィリピンの田舎でフィリピン人達と暮らしていることを知る3人だけの日本人のひとりです。

彼は、私の住むフィリピンの田舎にフィリピン人妻と娘を連れて時々遊びきてくれます。彼は28歳になりました。

 

彼は、いつものように軽い口調で言いました。

「綾子さんが金持ちでも貧乏でも犯罪者でも僕と綾子さんが友達ってことは変わんないっすよ。ただ、死なないでくださいよ」と。

 

 

そして、何よりも私が、リオとフィリピン移住を決めた決定的な理由は、フィリピン人の人柄であります。

私のセブ留学は、ほとんどと言っていいほど勉強しませんでした。とにかく講師達とプライベートの会話を楽しみました。

フィリピン人講師達は22歳前後です。彼らの給料は日本円にして月2万円程度しかありません。そして彼らは、給料のほとんどを家族に仕送り稼ぎ頭となっているのです。

また、リオと同じくらい、もしくはリオより幼い子供たちは路上でネックレスなどの民芸品を売り家族の生活を助けています。

一見かわいそうに見えますが、そうではありません。それは彼らの笑顔を見ればすぐにわかります。どうしてそんなに楽しいのだというくらいの万遍の笑顔には幸福感が満ち溢れているからです。日本であんな笑顔を見たことがありません。

 

インフラが整い生活に何不自由がなく規則ただしく時間に縛られて生活している日本人が忘れかけていたもの、置き去りにしてきたものが彼らにはあるのです。

 

留学をきっかけにフィリピンに移住する若者が多くなっています。

フィリピン人達の幸福感が満ち溢れた笑顔に人生観が変わったという人も少なくないでしょう。

 

リオのセブ島留学は、日本で3年近くホストファミリーとして、多くの外国人達と生活を共にしていたこともあってか、国籍が違う友達でもリオには全く抵抗はありませんでした。

 

40日だけの英語学習でどのくらい英会話力が上達したかはわからないですが、とにかくリオは楽しんだようでした。

 

セブ島との出会い

韓国人スタッフたちとも

 

韓国人スタッフたちとも

フィリピン人講師とも

 

セブ島との出会い

休憩時間も

 

休憩時間も

ネイティブ講師とも

 

セブ島との出会い

アクティビティも

 

ネイティブ講師とも

ママとも

 

セブ島との出会い

卒業式の発表会でも

 

現地路上で物売りの子供たちとも

セブ島との出会い

セブ島との出会い

セブ島との出会い

セブ島との出会い

セブ島との出会い

物売りの子供たち1

 

 

母と息子のセブ移住!フィリピン・セブ島との出会い

セブ島との出会い

私たち親子とセブ島との出会いは今から約8年前、2010年夏、42日間の親子留学でした。

 

私の5年間の語学学校経営の中で

日本人30代40代、特に女性が海外留学を決める理由は、日本社会に疲れ、英語が話せれば世界は変わるのでは…人生の転機として、…自分さがしに海外へ…

という意識の学生と多く出会いました。

 

セブ留学で人生が変わった。セブ留学をきっかけにセブに移住する人、セブで起業する人、世界に飛び立つ人も少なくありません。

 

フィリピン、セブ留学では、個室でのマンツーマンのプライベートレッスンを受けることができるのです。

マンツーマンでのプレイベートレッスンは、濃厚な授業だけではなく、外国人講師と学生の距離が近くなるのです。

すなわち、英語初心者が遠い目で見ていた外国人との距離が近づくのです。

時には恋や生活の悩みなども相談します。また、講師より相談を受ける場面もあるのです。(学校としては、個人的な会話は禁止していましたが、私は学生が望むならそれもいいと思っていました)

そんな中で、講師も学生もお互いのカルチャーに触れることができます。

ストレス日本社会に疲れた学生達は、フィリピン人講師との交流の中に、私たち日本人が忘れたかけたものを見つけるのです。

それは、幸福感の違いであったり、家族愛であったり、楽天的思考であったり…人によって色々あるでしょう。

もちろん、すべての学生がそうではありません。TOIECの点数を上げるためキャリアアップのため、脱段は許さない。楽天思考のフィリピン人にストレスを持つ学生もいます。

 

私は、まさにフィリピン人講師たちの中に私たちが忘れていたものを見つけたのです。そして、当時の私は人生の転機でもありました。

 

2010年、前夫との3年近くに及ぶ別居生活にピリオドをつける為に、離婚に向けての協議をしていました。

私とリオとの生活は、今まで通りとはいかなくなるでしょう。

その頃、幼稚園のお母さんたちは、子供を、どこの有名小学校に受験させるのかという話で持ちきりでした。

ホストファミリーとしての外国人学生さん達と生活を楽しんでいる余裕もなくなるでしょう。

仕事も復帰しなくてはいけなくなるでしょう。

 

私は狭い狭い世界の井の中の蛙でした。

 

華々しく結婚退職をして3年後に離婚!

同僚たちの目!

幼稚園のお母さん達の目!

 

世間帯や人の目ばかりを考え不安を募らせていました。

これから、どうしよう…

とにかく、状況から離れて考えよう。

 

 

ちょうど、息子の幼稚園も夏休みに入る前でした。

 

夏休み期間を利用して息子と海外に短期留学。

決めたら即実行。2週間以内の出国を目標にインターネットで検索を始めました。

2010年当時は、短期の英語留学は、グァム、ハワイ、フィジーが主流でした。

色々問い合わせをしましたが、2週間以内の渡航は難しかったのです。

 

そこで、目に止まったのがフィリピン留学でした。

現在でこそ、フィリピン留学の認知度は上がっていますが、その当時はほとんどの人が知らなかったのです。

フィリピンといえばフィリピンパブのイメージしかなかったのです。

そして、価格を見てびっくり安すぎるのです。

3食付き。1日6時間授業。ホテル滞在。欧米への留学に比べて三分の一以下の価格であります。

ありえない。怪しすぎます。

留学斡旋会社のホームページのお問い合わせをすると、2週間後でも1週間後でも入学は大丈夫ですと… ますます怪しい。

フィリピンには、看護師時代にダイビング目的で3回旅していました。

しかし、今回は3歳の息子リオを連れていくのです。安全が第一です。確認しないといけません。リオを連れて問い合わせした留学斡旋会社の事務所に直接出向きました。

 

その、留学斡旋会社の事務所は大阪難波、自宅から車で約30分。繁華街から離れた古びたビルの中でした。

 

ビルの前には、決してサラリーマンには見えないカジュアルスタイルの26、27歳くらいの痩せた青年が私たちの訪問を待ってくれていました。

難波アメリア村の三角公園で座っている若者と大差ない青年でした。彼は、薄暗いビルの中、人ひとりがやっと通れるくらいの廊下の奥の、さらに薄暗いエレベーターを上がって事務所に案内してくれました。6畳くらいの事務所にフィリピン語学学校パンフレットが数枚置いていました。

 

「あの〜すみません…社長さんとお話し出来ますか?」「僕がそうです。」「えっあなたが社長さんですか?」「はい。社員はいません 僕一人でやっています。」「あ〜一人でも社長さんね。」大笑いしました。

 

その後、青年はフィリピン留学の説明。「僕もセブ島に行きますので心配しないでください。現地でお会いましょう」

自宅によく来る背広を着た胡散臭いセールスマンとは違う素朴で誠実な対応にリオと私はその場で1週間後のチケットを手配。セブ留学を決定しました。

 

現在、その青年の会社は日本に数カ所事務所を構え、フィリピンセブ島で2校の語学学校を経営しています。青年は素敵な青年実業家になっています。

 

フィリピンの経済は、ウナギ登りに上昇しています。

 

1980年代の日本のバブル期のようにあちらこちらでビル建設ブームが見られる。語学学校だけではなく、外資系企業が次々に進出してきています。

成功のチャンスが多く転がっています。

反面、騙され足元を引っ張られ奈落の底に突き落とされる例も多くあります。

2010年の夏、私たちの42日間のセブ留学が始まりました。


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フィリピン日系語学学校 BAYSIDE ENGLISH CEBU設立まで

留学斡旋ビジネスの成功

2012年1月、ミスター金へ、Regent Pacific College(RPC)の独占契約費用として1ミリオンペソ(約200万円)を支払い、私のRegent Pacific College (RPC) 日本人独占留学斡旋ビジネスは開始しました。

 

RPCの学生寮の一室に事務所を置き、フィリピン人事務員を一人雇用しました。フィリピンでは有名大学、サンカルロス大学新卒のジュナ。そしてインターンスタッフの日本人大学生、ハルとマルの4人でBAYSIDE ENGLISH CEBU の基盤となるRPC独占留学斡旋ビジネスがスタートしたのです。

インターンスタッフというのは、1日4時間の授業を提供し、その代わりに4時間学校業務を行うという半分学生、半分スタッフの事です。

ハル、マルと私は、まずはRPCのPDFパンフレットとプロモーションビデオを作成、手当たり次第に留学斡旋エージェント会社のホームページお問い合わせフォームに送りました。

その当時(2012年)、バックパーカーで世界1周を果たした太田英基という青年がフィリピン留学についての著書「フィリピン「超」格安英語留学」が出版されベストセラーとなっていました。

そして、それまで全く知名度がなかったフィリピン留学は徐々に注目を浴びてきていました。

私も本を読みました。韓国人は英語が話せる。その裏にはフィリピン留学があるといったような内容でした。

日本の留学斡旋エージェント会社は、注目が出てきたフィリピンの語学学校に日本人の留学生を送る学校を探していたのです。

数件の留学斡旋エージェントがすぐに学校見学にきてくれました。

そして、Regent Pacific College(RPC)への学生紹介を開始してくれたのです。また、2010年初めての私たちのセブ島親子留学で知り合った大学生イッシーから、夏休み1ヶ月間の大学生約50人の予約が入ったのです。

リオと私の親友韓国人英語塾講師のスージーは、韓国の英語塾にコンタクトを取り韓国からも数件の予約が入りました。

IT関係に強かったマルは裏方となりパンフレットの作成やエクセルによる学生管理、予約システムを作成し、活発で人当たりのいいハルは外回り、ピックアップや学生ケアに回ったのです。

私は留学斡旋エージェントとメールで営業にあたりました。イッシーからの学生団体の予約もあり6月にはすでに、2012年夏の予約は100人以上となったのです。

当時、ちょうどフィリピン留学ブームの駆け出し時期であったこともあり。良いタイミングでブームに乗ったのか?ビジネスのビの字も知らない私と二人の大学生は喜びと驚きと同時に夢が広がっていったのでした。

 

リオのバースディパーティ

2012年6月、リオの誕生日パーティと留学斡旋ビジネスの開始を祝い学校近くのホテルのプールを貸し切り、RPC講師達、学生達を招き盛大なパーティを開きました。

https://youtu.be/RSX7_Rw7n0w

https://youtu.be/iR_wlyPqY3g

しかし、喜びと夢もつかの間、悪夢と変わっていったのです。

 

 

 

 

 

高齢出産!医療現場を走り続けた末に授かった宝物

RPC

日本での生活

医療現場を歩んできた私

私は日本で約16年間、急性期医療現場で看護師をしていました。

急性期医療というのは、救急外来、ICU、外科病棟等です。まさに命の前線での仕事です。

医療器具はどんどん進化していきます。勉強しないとついていません。

休みの日には看護協会にてセミナー、結婚や家庭に憧れてはいましたが、恋愛する時間もなく16年が経過していきました。

看護師の給料は悪くはありません。しかし、使う時間がありません。1年に2,3 回ほど、1週間ほどの長期休暇をとって海外にダイビングに行く事くらいしか。

 

それ以外、ほとんどプライベートの時間はありません。ただ、貯金だけが増えていきました。

 

それでも、救命の前線でアドレナリンを噴出して、そしてやり遂げてホッとする時間が好きでした。

 

気がつけば34歳でした。35歳になれば、四捨五入すれば40歳になります。体力勝負の急性期医療ですが体力にも限界を感じ始めていました。物覚えも悪くなっていくのです。そして、医療現場しか知らない人生を振り返って焦っていました。

 

経験が長い分医療に関しての知識だけは豊富になっていきます。医者は経験、知識が豊富な中年看護師よりも、何も知らない新人看護師が好きです。新人看護師たちは次々に医者と結婚していきました。

 

私はお局様だったのです。

ナース

 

人生の宝物

そんな時、世の中ではエリートと呼ばれる男性に出会いました。彼は、私より12歳も年上でした。特にときめいたわけでもないですが、今つかまえとかないと一生お局様で病院の中だけで人生が終わってしまいます。

2004年2ヶ月間の交際でスピード結婚をし、夢の結婚退職をしました。

そして、すぐに息子リオを授りました。私が35歳の時でした。

 

リオが可愛くて可愛くてたまらないのです。

 

ところが、私の夢の結婚生活は、結婚から1年半、リオが生後10ヶ月の時にスピード別居となってしまいました。

リオには申し訳ないですが、私はそれでもよかったのです。

 

人生最大の宝物リオがいるからです。リオを私に授けてくれただけで感謝でした。

 

それから、リオと私のふたり生活の始まりました。生活には困りませんでした。別居中であっても毎月60万円くらいのの生活費は入れてくれたからです。

 

地域の中では、有名幼稚園にリオを入れ、午後は、スイミングスクール、子供英会話スクール、公文、 幼稚園のお母さんたちとの会話を楽しんでいました。

 

教育ママというわけではなくリオと二人で楽しみました。

 

そして、リオに色々な国の人達と交流してほしい。私も色々な国の人と交流したいという思いから、自宅近くの桃山大学の外国人学生のホストファミリーとなりました。

 

ほとんどの、学生はヨーロッパから日本にアニメの勉強のために留学生でした。

 

ホストファミリーは、ビジネスではありません。ボランティアです。リオと学生たちと、料理に旅行と生活を楽しみました。

 

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活