フィリピン親子移住!フィリピンで緊急入院

フィリピンで緊急入院 in ドマゲッティ

2011年8月、突然、当時4歳のリオが高熱を出しました。そして片方の足はパンパンに腫れていました。

早速ドマゲッティのシリマン大学病院に連れて行きました。

緊急入院が決まりました。

リオをフィリピンに連れて行くにあたり、日本で1年間の海外保険、特に医療に関しては最上級の保険に加入していました。

しかし、現在こそ、ドマゲッティには日本の語学学校や日本企業が参入していますが、当時日本人はほとんどいないかったのです。

もちろん、キャッシュレス(現金の支払いないでの治療ができる)提携は日本の保険会社と締結していませんでした。

リオは緊急外来より一般病棟の狭い個室に移されました。

初めに入院保障金とお部屋代を支払います。そして医師が薬を処方してくれます。医師が処方箋を発行してくれるたびに、私が処方せんを持って薬局でお薬を買いに行き看護師に手渡すのです、それから看護師による投与が開始されるというシステムでした。

リオは高熱でぐったりしていました。

医師が処方箋を出すまでの過程も時間がかかります。リオを病室に残し病院内の薬局で薬を購入するまでも待ち時間もかかるのです。看護師が薬を点滴に調合し投与されるまで1日がかりです。

 

金銭の問題ではありません。

その間にリオの病状が悪化したらどうするのだ!!!

 

16年間、緊急医療に携わっていた私にはわかります。時間の大切さが…

私は多くの緊急場面を冷静に対応してきたという自信がありました。

しかしながら、海外で、それも大切なリオのことになると冷静さを失うのです。

早速、加入していた日本の海外保険会社に電話しました。

 

『子供の命がかかっている。どうにかしろ!!!』と。

 

日本の保険会社は素晴らしいです。

すぐに、シリマン大学付属病院とキャッシュレス提携を結んでくれました。

次の日、リオは、特別個室に移されました。

10畳くらいの病室に電動ベッドと、リビング、キッチンまであるのです。そして、温水シャワー(セブランの自宅は水シャッワーだった)大きなバスタブまでもあるのです。

 

まるで、ホテルの1室のようでした。

 

私は、もう処方箋を持って長い時間、薬局で並ばなくてもよくなりました。抗生物質の点滴投与が迅速に開始されました。医師、看護師たちは1時間おきと言ってもいいほど巡回してくれます。私のために病室にマッサージまでよんでくれるのです。(マッサージは保険適応外であります)

リオは、虫に噛まれた足を不潔な手でかきむしったため、そこからばい菌が入り蜂窩織炎になったとの診断でした。そして、高熱は蜂窩織炎によるものでした。リオの熱も足の腫れも3日後には完治しました。

しかし、医師は休養のためにとさらに1週間、そしてリオの手にできていた小さなイボまで治療してくれると、さらに1週間の入院勧められました。私とリオは2週間以上をシリマン大学付属病院のホテルのような特別室で過ごしました。

 

入院生活は快適でした。ボリバーで友達になったネグロスオリエンタル大学の学生たちが毎日病室に遊びに来てくれました。私たちは学生たちとトランプにUNO を楽しみました。時には、リオの担当医に外出許可もらい街のレストランにおいしいものを食べに行くこともできるのです。

 

シリマン大学病院の前には多くのトラシクルが待機しています。トラシクルに乗って3分で街の中心街に行けるのです。

入院中にネグロスオリエンタル大学の学生達に招待され、ボリバーで開催される大学恒例の行事ランタンパーティにも参加しました。願い事を書いたランタンをボリバーの海岸から海に流すのです。1000近くのランタンが海に流れます。また、空にも多くのランタンが飛んでいくのです。

この時の出会いがきっかけに2012年8月に開校したBAYSIDE ENGLISH CEBUに、ネグロスオリエンタル大学の数人の講師、事務員達が誕生しました。

 

そして、2013年より、BAYSIDE ENGLISH CEBUの講師採用にネグロスオリエンタル大学と提携、講師採用試験、面接をドマゲッティ、ネグロスオリエンタル大学やボリバーのホテル各所で開催、ドマゲッティより、BAYSIDE ENGLISH CEBUの多くの優秀な講師が多く誕生することになったのです。

 

ボリバーでは、時折、ドマゲッティの各大学や企業のイベントやお祭りが開催されます。そんな時は、ボリバーのホテルは、ほぼ全て満室になるのです。

そんな時は、リオと私は、ボリバーから少し外れたマリアルイサというホテルを利用しました。

そこは、シリマン大学病院のリオの主治医の家族が経営していることを知らされました。

リオの退院間近の時、リオの主治医は、私たちをマリアルイサホテルで開かれたパーティに招待してくれました。

 

その時の出会いが、私たちのドマゲッティでの第2の生活へと繋がって行ったのです。

 

自殺に至る精神

破壊された私

破壊された私の精神

私は16年の医療現場で多くの人の生死に関わってきました。

命の大切さは痛いほどわかっています。

そして、終末期看護(死に逝く患者に対しての看護)死生観、命の大切さについて看護学校で講義もしました。若い新人看護師達にも指導をしてきました。

また、自殺をすることによって、その家族に一生残す深い傷を負わせることになります。そんなことも痛いほどわかっています。

 

それにも関わらず、2017年1月末に首つり自殺を図ったのです。

 

私は、余命告知をされた患者ではありません。

そして、ふと一人ぼっちだと気がつき寂しさのあまりに死を選びません。

私は一人ではないのです。リオがいるからです。

それは、寂しくてからではありません。

恐怖のあまりに心が破壊したのです。

心の判断能力機能が完全に破壊したのです。

 

今考えても自分の行動に説明がつかないのです。

 

当時、BAYSIDE ENGLISH CEBUの、学生が学校の資金不足のために食事や水の与えることもできなくなる。餓死してしまうという脅迫観念に私の心は支配されていました。

そして、BAYSIDE ENGLISH CEBUに入学が予定されている学生さん達は空港で難民となるのです。

それは、国際問題となります。

リオや家族は大勢の学生さん達の死により国際社会から非難され日本に住むことができなくなるのです。

家族の財産は全て奪われてしまいます。

私はフィリピンで殺されます。

リオも家族も殺されるのです。

そんな、脅迫観念に私の心は支配されてました。

 

私の心理状態は、死を目の前にした患者と同じ心境となっていたのです。

死を目の前にした患者は、小さな音でも驚くのです。

私は病室のドアを閉める時には、常にドアの閉める音を立てないように閉めました。

そして、死に逝く患者に絶対に背中を見せません。患者の病室を退出する時は後ろ歩きし患者に向き合った状態のまま病室から退出するのです。

なぜならば、死を前にした患者は看護師や家族の後ろ姿を見るだけでも恐怖を感じるのです。

 

当時の私の中での死は私だけの死ではないのです。何十人という学生の死とリオと家族の死、そして私の死なのです。

 

電話の音や車の音だけでも恐怖で震えるのです。

 

家の外で遊ぶ子供達の笑い声に、BAYSIDE ENGLSIH CEBU に滞在する30人余りの可愛い韓国人の子供達が餓死する姿を連想して震えが止まらなくなるのです。

人と会う。人を見ることにも恐怖を感じるのです。

 

恐怖は精神を破壊します。

 

恐怖のあまりにペットボトルの水を一気に2リットル飲み干します。

また、すぐに喉が乾くのです。

そして、また2リットルの水を一気飲みするのです。そ

して、それは一日中繰り返されるのです。

 

そして、キュブラー・ロスの死に逝く心の過程、第3段階の取引き、神頼みの心理となっていったのです。

 

「私の命をささげるので、どうかリオと学生さん達を守って下さい」と。

 

そして、ふらふらとベランダに出ては、洗濯物のロープを取り外し、ベランダの階段に首つりのロープを準備するのです。

何度も首を吊ろうとするができないのです。

大量の水を飲みながら、その行為は朝まで続けられるのです。

朝、ヘルパーさんが、首つりロープを外し洗濯ものを干します。

そして、次の日の夜も、また次の日の夜も、それは繰り返されるのです。

毎朝、首つりロープを外して洗濯物を干さなくてはいけないヘルパーさんがどう思うなどは考えられないのです。

 

また、夜中に震えながら飛び降り自殺をしようと車で建設中の新学校まで車を走らせました。

しかし、建設作業員たちがそこで寝泊まりをしていました。

そして、ゆっくりと自宅に帰ります。

そして、また、別の日にも新学校から飛び降りようと車を走らせるのです。

建設作業員が建設現場で寝泊まりしていることなどすっかり忘れているのです。

そして、また建設現場の作業員が寝泊まりしていることに気づき自宅に帰っていくということが繰り返されるのです。

 

当時、私の状況をヘルパーさんの情報より知ったボディーガードドイは、私には秘密で住宅街のセキュリティガード、町警察と連携して私の行動を監視するシステムを固めました。

私の行動を常に監視し、ドイと町警察に連絡が行くように整えたのです。

そして、いつものように夜間に自殺行為を繰り返す私は、住み込みのヘルパーさんよりセキュリティガードに通報され、町警察にて病院に連れて行かれました。

 

この時の私の心理や行動は、いくら考えて私自身もわからないのです。

 

私は、当時の破壊された私の精神状態の説明は未だにできないのです。

 

しかし、私の心が、どういう過程で破壊されていったのか分析できるまで回復しました。