フィリピン親子移住:ドマゲッティ繁華街ボリバーでの週末

西洋を感じさせるボリバー

ドマゲッティの中心部海岸沿いに、ボリバーと呼ばれる場所があります。

海岸沿いに、おしゃれなレストラン、バー、ホテルが立ち並んでいます。

 

フィリピンには、300年以上にも渡るスペインの植民地であった歴史があります。各地にスペイン建築の跡が残されています。

 

まさに、ドマゲッティの街はスペイン植民地時代の建物が多く残され、西洋を感じさせるおしゃれな街です。

そして、老後を楽しむ西洋人、欧米人たちで街は賑わっていました。

 

私たち親子の週末はドマゲッティのホテルで過ごしました。

リオと私の1週間分の洗濯物を持ってドマゲッティ中心街のコインランドリーに行くのです。そして、ボリバーのレストランでおいしいものを食べ、お気に入りのホテルで過ごすのです。

 

ドマゲッティ、ボリバーには、私たちのお気に入りのホテルが数件ありました。

 

第一に、海岸中央部に位置するハネコーン。

 

建物は古いですが木造の風情のあるホテルです。1階には深夜まで開店しているレストランバーがあります。週末の夜の9時を過ぎるとバンドやバヨリニストのミニコンサートが開催されるのです。

リオと私のドマゲッティ滞在のほとんどの週末はそこで過ごしました。

 

ホテルの受付嬢とも仲良くなりよく話をしました。

彼女の弟は教師になることを目標に大学で勉強していると言います。彼女は弟の学費を支えるために働いているのでした。

そして、彼女の弟は私が起業することとなる語学学校BAYSIDE ENGLISH CEBU の講師となったのです。2014頃より、私が設立したセブ語学学校BAYSIDE ENGLISH CEBUには、多くの日本企業のビジネス研修に使われるようになりました。彼女の弟はビジネス英語の中心核講師へと成長していったのです。

 

母と子!フィリピン移住への第一歩:セブ島親子留学2

RPC崩壊

16年間、緊急医療の看護師として医療業界を走り続け、病院のお局様であった私は35歳にて人生最大の宝物(息子)を授かる事ができました。しかし、私の結婚生活は1年も続かず破局。私達親子の人生の再起として、8年前の2011年3月、私と3歳の息子リオはフィリピンのセブ島に渡りました。

 

フィリピン移住への第一歩:語学留学

2010年夏42日間のセブ島語学留学を終え日本に帰国後、私はパートタイムで町の一般病院で勤務しながらフィリピン移住の準備を進めました。

その間に離婚も成立しました。

移住先フィリピンの生活準備は、2010年の留学中に友人となった、ブラックアメリカン講師ドミニク家族に依頼しました。私達親子の移住先はフィリピン南部のネグロス島ドマゲッティです。移住前の3ヶ月、英語環境に慣れるために、フィリピンセブ島の語学学校に滞在する事に決めました。

ほとんどのフィリピン語学学校では、英語学習のみならず敷地内に学生寮が整備され、食事、掃除、洗濯が提供されるのです。また、安全も確保されているのです。

突然何も知らない海外に飛び立つのは危険が多すぎます。

安全と最低限度の生活が守られたフィリピン語学学校は、ゆっくり海外移住の環境を整える準備にふさわしい環境であるのです。

フィリピンへの移住の前日 同僚たちが送別会を開いてくれました。これが、私の最後の日本社会であります。

RPC

 

そして、2011年3月、東北地方太平洋沖地震から約1週間後にフィリピンセブのマクタン島に位置する韓国資本の語学学校Regent Pacific College(現在のBAYSIDE ENGLISH CEBU RPC CAMPUS) に到着しました。

当時、春の大学生バケーションシーズンということもあり韓国人大学生たちで学校は賑わっていました。RPC

3ヶ月間のRegent Pacific College での学生生活、とにかく人との出会いを楽しみました。4才の息子リオの英話は、初めの2−3か月はインプットの時期でした。2−3か月後に突然アウトプットに変わる時期があるのです。

ちょうど、その時期にドマゲッティに移りブラックアメリカン家族と生活をともにしたこともあり、当時5歳のリオの英語は完全にブラックアメリカンイントネーションとなっていきました。

 

Regen Pacific Collage (RPC) での3ヶ月

 

RPC

RPC

授業がどうだったか勉強は?ということはあまりよく覚えていませんが、とにかく楽しみました。

 

そして、2011年6月初めフィリピンセブより飛行機で25分。バスと船で5時間南下した私たち親子の移住先であるネグロス島ドマゲッティに移ったのです。

 

 

母と子!海外進出の第一歩:フィリピン・セブ島親子留学

リオと私のセブ島親子留学

2010年の夏、私たちの親子の42日間のセブ留学が始まりました。

 

私たちの留学先は、セブ市のマクタン島に位置した、ほとんどの講師がネイティブの語学学校でした。

夏休みということもあってか、韓国人、台湾人、ロシア人、日本人と多国籍な学生達で賑わっていました。当時、日本人学生は全学生の20%以下でした。

 

授業はどうだったのかは、あまり覚えていません。

 

私達のセブ島留学の目的は、英語の勉強だけではなく、人生の転換期としてこれからの人生の方向性を考えることでした。

 

そして、そこでの出会いが、私たちの人生の方向生を大きく変えたのは間違いありません。

 

国籍、年齢に関係なく私は多くの学生や講師から子供の教育の事、生活の事あらゆる情報を集めました。授業時間はほとんどプライベート会話と情報収集へと変わっていきました。

夏休み時期ということもあり、各国からの親子留学の学生も少なくなかったのです。

日本からお母さんの話では、2年間以上、海外の政府認可校に留学すれば帰国子女枠として、日本の有名私立小学校に編入しやすくなるというのです。

 

また、韓国からのお母さんは、子供の教育のために長期計画を立てセブ島に来ていました。

フィリピンの語学学校で基礎英語を3ヶ月間勉強した後、授業費が安いフィリピンで私立小学校に子供を通わせるのです。フィリピンの私立学校での授業は英語で行われるのです。英語をマスターした後、親子でオーストラリアに移住する計画でした。オーストラリアで3年以上移住すると永住ビザが取れるらしいのです。永住ビザを取得できればオーストラリアの高校、大学の学費は外国人価格ではなく現地価格となると言うのです。

 

各国のお母さんたちの子供の将来計画に、私は、『私の世界はなんて狭いんだ』衝撃を受けました。

 

そして、お母さん達の情報の信憑性をインターネットで調べるとともに、講師たちからは、フィリピンの私立学校の情報を集めました。

 

黒人アメリカ人講師ドミニクのフィリピン人妻はフィリピンネグロス島ドマゲッティ出身であり、そこにはフィリピンで有名大学であるシリマン大学、そしてシリマン大学付属小学校があります。

彼自身も家族と一緒にセブ島よりドマゲッティに移り住み、リオと同じ年の息子をシリマン大学付属小学校に入学させたいとのことでした。

ドマゲッティはダイビングでも有名な街であります。私は看護師時代に同僚たちとダイビングで3回訪れています。海沿いの街並みは西洋を感じさせるおしゃれなレストランが立ち並ぶ素敵な街です。実際に多くの西洋人たちが滞在していました。

 

私たち親子の方向性は決まりました。

来年2011年の6月にリオとドマゲッティに移り住む。

 

そして、リオをシリマン大学付属小学校に入れる。

2年後には、日本の私立小学校に帰国子女として編入もしくは、韓国のお母さんの計画のように他の国に出るという手もあります。

2年後の方向性はその時に考えればいいのです。

 

がむしゃらに働き続けた看護師時代の蓄えも十分ありました。

離婚後、養育費として月20万円くらいの収入は入るでしょうが、(実際には18万弱でした)日本でリオを私立小学校や習い事に通わせるには十分ではありません。

しかし、フィリピンであれば、リオの教育も含め親子二人で十分暮らしていけるのです。

私の頭の中に、シミュレーションは描かれました。

あとは、環境を整えるのみです。

 

ドミニクにドマゲッティでの住居と家具等の購入等の移住するにあたっての環境作り、そしてリオのシリマン大学付属小学校の入学準備を依頼しました。

安全確認のために実際にドミニクの家族と子供たちとも会いました。

リオを連れていくためには十分な環境を整えてから移住先のドマゲティに移る必要があるからです。

 

ドマゲッティに移るまでの3ヶ月間、授業、食事、掃除、洗濯その上セキュリティが確保されているセブ島の語学学校に滞在することを決めました。

 

2010年夏のセブ滞在中に約7か月後の2011年3月に入学を決めた語学学校の入学手続きを済ました。

 

その留学先の語学学校が、後に私が起業することになるBAYSIDE ENGLISH CEBU RPC キャンパスであります。

当時は韓国人が経営する語学学校Regent Pacific College(RPC)でした。

 

その当時は、そこで起業する事になるとは夢にも思わなかったのです。

 

この2010年夏、セブ島留学では多くの素晴らしい人たち、後ほどの私のビジネスに大きく関わってくる人達との出会いがありました。

 

私のグループクラスのクラスメイトでスタッフでもあった韓国人のレイナ、ロシアに10年以上暮らしロシア語を流暢に話す彼女は、セブ島の語学学校にロシア人を連れてきた一人者と言っても過言ではありません。彼女は後ほどBAYSIDE ENGLISH CEBUの韓国人マネージャーとして韓国、ロシアマーケットに大きく貢献していくことになるのです。

そして、日本語、中国語を流暢に話す韓国人ジャスリン。彼女も後にBAYSIDE ENGLISH CEBU の韓国マネージャーとして韓国、台湾、中国マーケットに貢献するのです。

当時は、そんなことになるとは、夢にも思いませんでした。

 

日本には、本音と建前を使い分ける文化が定着しています。日本社会ではストレスや問題等を心の奥底に閉じ込め装飾した顔を表に出していかなければならないのです。

しかし、日本のしがらみから解放される海外では心も解放されるのです。殻をかぶせて心の奥にしまっていた悩みなども打ち明けることもできるのです。

 

私より3歳年上で7歳の娘と親子留学に来ていたエステシャンの優子さんに(仮名)私は離婚するにあたっての不安を彼女に打ち明けました。彼女もまた、旦那さまの浮気に悩んでいました。

彼女はセブ留学後、離婚カウンセラーとして、そして現在、夫婦円満カウンセラーとしてテレビ、雑誌に登場する有名人となっています。

 

お母さんと弟と共に親子留学に来たサナギちゃん(仮名)彼女はお母さんに内緒にねっとそっと私に話しました。

彼女はアフリカに旅行した時にアフリカに恋をしたのです。セブで英語を学んだ後、アフリカに写真を撮りに行くのだと。

彼女とは、それ以来交流がありませんが、後日、アフリカで少数民族を撮影する写真家としてテレビ、新聞、雑誌で彼女の姿を多く拝見することになるのです。

 

そして、当時18歳大学生のイッシー、彼は2012年8月、私が設立した語学学校BAYSIDE ENGLISH CEBU の開校時に50人近くの大学サークルの学生達を引き連れ開校を盛り上げてくれる事になるのです。

 

また、彼の同期であった大学生二人、ハルとマルと共に私はBAYSIDE ENGLISH CEBU を立ち上げることとなるのです。

 

20歳の青年タカ、彼はこのセブ島留学より、セブ島に永住することになります。

現在、私が息子リオとは離れフィリピンの田舎でフィリピン人達と暮らしていることを知る3人だけの日本人のひとりです。

彼は、私の住むフィリピンの田舎にフィリピン人妻と娘を連れて時々遊びきてくれます。彼は28歳になりました。

 

彼は、いつものように軽い口調で言いました。

「綾子さんが金持ちでも貧乏でも犯罪者でも僕と綾子さんが友達ってことは変わんないっすよ。ただ、死なないでくださいよ」と。

 

 

そして、何よりも私が、リオとフィリピン移住を決めた決定的な理由は、フィリピン人の人柄であります。

私のセブ留学は、ほとんどと言っていいほど勉強しませんでした。とにかく講師達とプライベートの会話を楽しみました。

フィリピン人講師達は22歳前後です。彼らの給料は日本円にして月2万円程度しかありません。そして彼らは、給料のほとんどを家族に仕送り稼ぎ頭となっているのです。

また、リオと同じくらい、もしくはリオより幼い子供たちは路上でネックレスなどの民芸品を売り家族の生活を助けています。

一見かわいそうに見えますが、そうではありません。それは彼らの笑顔を見ればすぐにわかります。どうしてそんなに楽しいのだというくらいの万遍の笑顔には幸福感が満ち溢れているからです。日本であんな笑顔を見たことがありません。

 

インフラが整い生活に何不自由がなく規則ただしく時間に縛られて生活している日本人が忘れかけていたもの、置き去りにしてきたものが彼らにはあるのです。

 

留学をきっかけにフィリピンに移住する若者が多くなっています。

フィリピン人達の幸福感が満ち溢れた笑顔に人生観が変わったという人も少なくないでしょう。

 

リオのセブ島留学は、日本で3年近くホストファミリーとして、多くの外国人達と生活を共にしていたこともあってか、国籍が違う友達でもリオには全く抵抗はありませんでした。

 

40日だけの英語学習でどのくらい英会話力が上達したかはわからないですが、とにかくリオは楽しんだようでした。

 

セブ島との出会い

韓国人スタッフたちとも

 

韓国人スタッフたちとも

フィリピン人講師とも

 

セブ島との出会い

休憩時間も

 

休憩時間も

ネイティブ講師とも

 

セブ島との出会い

アクティビティも

 

ネイティブ講師とも

ママとも

 

セブ島との出会い

卒業式の発表会でも

 

現地路上で物売りの子供たちとも

セブ島との出会い

セブ島との出会い

セブ島との出会い

セブ島との出会い

セブ島との出会い

物売りの子供たち1

 

 

母と息子のセブ移住!フィリピン・セブ島との出会い

セブ島との出会い

私たち親子とセブ島との出会いは今から約8年前、2010年夏、42日間の親子留学でした。

 

私の5年間の語学学校経営の中で

日本人30代40代、特に女性が海外留学を決める理由は、日本社会に疲れ、英語が話せれば世界は変わるのでは…人生の転機として、…自分さがしに海外へ…

という意識の学生と多く出会いました。

 

セブ留学で人生が変わった。セブ留学をきっかけにセブに移住する人、セブで起業する人、世界に飛び立つ人も少なくありません。

 

フィリピン、セブ留学では、個室でのマンツーマンのプライベートレッスンを受けることができるのです。

マンツーマンでのプレイベートレッスンは、濃厚な授業だけではなく、外国人講師と学生の距離が近くなるのです。

すなわち、英語初心者が遠い目で見ていた外国人との距離が近づくのです。

時には恋や生活の悩みなども相談します。また、講師より相談を受ける場面もあるのです。(学校としては、個人的な会話は禁止していましたが、私は学生が望むならそれもいいと思っていました)

そんな中で、講師も学生もお互いのカルチャーに触れることができます。

ストレス日本社会に疲れた学生達は、フィリピン人講師との交流の中に、私たち日本人が忘れたかけたものを見つけるのです。

それは、幸福感の違いであったり、家族愛であったり、楽天的思考であったり…人によって色々あるでしょう。

もちろん、すべての学生がそうではありません。TOIECの点数を上げるためキャリアアップのため、脱段は許さない。楽天思考のフィリピン人にストレスを持つ学生もいます。

 

私は、まさにフィリピン人講師たちの中に私たちが忘れていたものを見つけたのです。そして、当時の私は人生の転機でもありました。

 

2010年、前夫との3年近くに及ぶ別居生活にピリオドをつける為に、離婚に向けての協議をしていました。

私とリオとの生活は、今まで通りとはいかなくなるでしょう。

その頃、幼稚園のお母さんたちは、子供を、どこの有名小学校に受験させるのかという話で持ちきりでした。

ホストファミリーとしての外国人学生さん達と生活を楽しんでいる余裕もなくなるでしょう。

仕事も復帰しなくてはいけなくなるでしょう。

 

私は狭い狭い世界の井の中の蛙でした。

 

華々しく結婚退職をして3年後に離婚!

同僚たちの目!

幼稚園のお母さん達の目!

 

世間帯や人の目ばかりを考え不安を募らせていました。

これから、どうしよう…

とにかく、状況から離れて考えよう。

 

 

ちょうど、息子の幼稚園も夏休みに入る前でした。

 

夏休み期間を利用して息子と海外に短期留学。

決めたら即実行。2週間以内の出国を目標にインターネットで検索を始めました。

2010年当時は、短期の英語留学は、グァム、ハワイ、フィジーが主流でした。

色々問い合わせをしましたが、2週間以内の渡航は難しかったのです。

 

そこで、目に止まったのがフィリピン留学でした。

現在でこそ、フィリピン留学の認知度は上がっていますが、その当時はほとんどの人が知らなかったのです。

フィリピンといえばフィリピンパブのイメージしかなかったのです。

そして、価格を見てびっくり安すぎるのです。

3食付き。1日6時間授業。ホテル滞在。欧米への留学に比べて三分の一以下の価格であります。

ありえない。怪しすぎます。

留学斡旋会社のホームページのお問い合わせをすると、2週間後でも1週間後でも入学は大丈夫ですと… ますます怪しい。

フィリピンには、看護師時代にダイビング目的で3回旅していました。

しかし、今回は3歳の息子リオを連れていくのです。安全が第一です。確認しないといけません。リオを連れて問い合わせした留学斡旋会社の事務所に直接出向きました。

 

その、留学斡旋会社の事務所は大阪難波、自宅から車で約30分。繁華街から離れた古びたビルの中でした。

 

ビルの前には、決してサラリーマンには見えないカジュアルスタイルの26、27歳くらいの痩せた青年が私たちの訪問を待ってくれていました。

難波アメリア村の三角公園で座っている若者と大差ない青年でした。彼は、薄暗いビルの中、人ひとりがやっと通れるくらいの廊下の奥の、さらに薄暗いエレベーターを上がって事務所に案内してくれました。6畳くらいの事務所にフィリピン語学学校パンフレットが数枚置いていました。

 

「あの〜すみません…社長さんとお話し出来ますか?」「僕がそうです。」「えっあなたが社長さんですか?」「はい。社員はいません 僕一人でやっています。」「あ〜一人でも社長さんね。」大笑いしました。

 

その後、青年はフィリピン留学の説明。「僕もセブ島に行きますので心配しないでください。現地でお会いましょう」

自宅によく来る背広を着た胡散臭いセールスマンとは違う素朴で誠実な対応にリオと私はその場で1週間後のチケットを手配。セブ留学を決定しました。

 

現在、その青年の会社は日本に数カ所事務所を構え、フィリピンセブ島で2校の語学学校を経営しています。青年は素敵な青年実業家になっています。

 

フィリピンの経済は、ウナギ登りに上昇しています。

 

1980年代の日本のバブル期のようにあちらこちらでビル建設ブームが見られる。語学学校だけではなく、外資系企業が次々に進出してきています。

成功のチャンスが多く転がっています。

反面、騙され足元を引っ張られ奈落の底に突き落とされる例も多くあります。

2010年の夏、私たちの42日間のセブ留学が始まりました。


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フィリピン日系語学学校 BAYSIDE ENGLISH CEBU設立まで

留学斡旋ビジネスの成功

2012年1月、ミスター金へ、Regent Pacific College(RPC)の独占契約費用として1ミリオンペソ(約200万円)を支払い、私のRegent Pacific College (RPC) 日本人独占留学斡旋ビジネスは開始しました。

 

RPCの学生寮の一室に事務所を置き、フィリピン人事務員を一人雇用しました。フィリピンでは有名大学、サンカルロス大学新卒のジュナ。そしてインターンスタッフの日本人大学生、ハルとマルの4人でBAYSIDE ENGLISH CEBU の基盤となるRPC独占留学斡旋ビジネスがスタートしたのです。

インターンスタッフというのは、1日4時間の授業を提供し、その代わりに4時間学校業務を行うという半分学生、半分スタッフの事です。

ハル、マルと私は、まずはRPCのPDFパンフレットとプロモーションビデオを作成、手当たり次第に留学斡旋エージェント会社のホームページお問い合わせフォームに送りました。

その当時(2012年)、バックパーカーで世界1周を果たした太田英基という青年がフィリピン留学についての著書「フィリピン「超」格安英語留学」が出版されベストセラーとなっていました。

そして、それまで全く知名度がなかったフィリピン留学は徐々に注目を浴びてきていました。

私も本を読みました。韓国人は英語が話せる。その裏にはフィリピン留学があるといったような内容でした。

日本の留学斡旋エージェント会社は、注目が出てきたフィリピンの語学学校に日本人の留学生を送る学校を探していたのです。

数件の留学斡旋エージェントがすぐに学校見学にきてくれました。

そして、Regent Pacific College(RPC)への学生紹介を開始してくれたのです。また、2010年初めての私たちのセブ島親子留学で知り合った大学生イッシーから、夏休み1ヶ月間の大学生約50人の予約が入ったのです。

リオと私の親友韓国人英語塾講師のスージーは、韓国の英語塾にコンタクトを取り韓国からも数件の予約が入りました。

IT関係に強かったマルは裏方となりパンフレットの作成やエクセルによる学生管理、予約システムを作成し、活発で人当たりのいいハルは外回り、ピックアップや学生ケアに回ったのです。

私は留学斡旋エージェントとメールで営業にあたりました。イッシーからの学生団体の予約もあり6月にはすでに、2012年夏の予約は100人以上となったのです。

当時、ちょうどフィリピン留学ブームの駆け出し時期であったこともあり。良いタイミングでブームに乗ったのか?ビジネスのビの字も知らない私と二人の大学生は喜びと驚きと同時に夢が広がっていったのでした。

 

リオのバースディパーティ

2012年6月、リオの誕生日パーティと留学斡旋ビジネスの開始を祝い学校近くのホテルのプールを貸し切り、RPC講師達、学生達を招き盛大なパーティを開きました。

https://youtu.be/RSX7_Rw7n0w

https://youtu.be/iR_wlyPqY3g

しかし、喜びと夢もつかの間、悪夢と変わっていったのです。

 

 

 

 

 

高齢出産!医療現場を走り続けた末に授かった宝物

RPC

日本での生活

医療現場を歩んできた私

私は日本で約16年間、急性期医療現場で看護師をしていました。

急性期医療というのは、救急外来、ICU、外科病棟等です。まさに命の前線での仕事です。

医療器具はどんどん進化していきます。勉強しないとついていません。

休みの日には看護協会にてセミナー、結婚や家庭に憧れてはいましたが、恋愛する時間もなく16年が経過していきました。

看護師の給料は悪くはありません。しかし、使う時間がありません。1年に2,3 回ほど、1週間ほどの長期休暇をとって海外にダイビングに行く事くらいしか。

 

それ以外、ほとんどプライベートの時間はありません。ただ、貯金だけが増えていきました。

 

それでも、救命の前線でアドレナリンを噴出して、そしてやり遂げてホッとする時間が好きでした。

 

気がつけば34歳でした。35歳になれば、四捨五入すれば40歳になります。体力勝負の急性期医療ですが体力にも限界を感じ始めていました。物覚えも悪くなっていくのです。そして、医療現場しか知らない人生を振り返って焦っていました。

 

経験が長い分医療に関しての知識だけは豊富になっていきます。医者は経験、知識が豊富な中年看護師よりも、何も知らない新人看護師が好きです。新人看護師たちは次々に医者と結婚していきました。

 

私はお局様だったのです。

ナース

 

人生の宝物

そんな時、世の中ではエリートと呼ばれる男性に出会いました。彼は、私より12歳も年上でした。特にときめいたわけでもないですが、今つかまえとかないと一生お局様で病院の中だけで人生が終わってしまいます。

2004年2ヶ月間の交際でスピード結婚をし、夢の結婚退職をしました。

そして、すぐに息子リオを授りました。私が35歳の時でした。

 

リオが可愛くて可愛くてたまらないのです。

 

ところが、私の夢の結婚生活は、結婚から1年半、リオが生後10ヶ月の時にスピード別居となってしまいました。

リオには申し訳ないですが、私はそれでもよかったのです。

 

人生最大の宝物リオがいるからです。リオを私に授けてくれただけで感謝でした。

 

それから、リオと私のふたり生活の始まりました。生活には困りませんでした。別居中であっても毎月60万円くらいのの生活費は入れてくれたからです。

 

地域の中では、有名幼稚園にリオを入れ、午後は、スイミングスクール、子供英会話スクール、公文、 幼稚園のお母さんたちとの会話を楽しんでいました。

 

教育ママというわけではなくリオと二人で楽しみました。

 

そして、リオに色々な国の人達と交流してほしい。私も色々な国の人と交流したいという思いから、自宅近くの桃山大学の外国人学生のホストファミリーとなりました。

 

ほとんどの、学生はヨーロッパから日本にアニメの勉強のために留学生でした。

 

ホストファミリーは、ビジネスではありません。ボランティアです。リオと学生たちと、料理に旅行と生活を楽しみました。

 

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

日本での生活

 

 

 

BAYSIDE ENGLISH CEBU existed because of the wonderful Filipino Personnels

奈落の底からの再起

MANY DIAMONDS WERE BORN IN BAYSIDE ENGLISH CEBU IN THE PHILIPPINE

BAYSIDE ENGLISH CEBU RPC Campus was opened on August 2012 to mostly young foreign students. On the other hand, Premium Campus is for adult students who want to study and stay next to the ocean.

The school prospered until we bought our own property in Cordova for the reason of achieving our dreams which was to open an international school in the future.

Behind the success of Bayside English Cebu is credited to the Filipino personnel who have worked hard and persevered a lot.

The school prospered because it was totally managed by Filipino people and me, until such time I gave GENKI an authority to be part of the management team on my behalf in 2016 because I got so busy processing for the property in Cordova and at that time BAYSIDE ENGLISH CEBU started to experience recession.

Of course! HIROSHI YAMANAKA was neither a part of BAYSIDE ENGLISH CEBU family nor in the management team.

Like what I had mentioned above, this school was mainly operated by Filipino people and I always encouraged the marketing department about the good qualities of Filipino people in order for them to experience cultural differences in each country.

I myself had already adapted as a Filipino.

Filipino staff and teachers take their pride of persuading the foreign students to learn English with their great motivation.

They are even still connected to their students through Facebook or other forms of media. We also had many repeater students and that was one of the indications that students truly loved the culture of the Philippines and their Filipino teachers as well. 

 

I believed that Filipino traits have made great influence to our foreign students.

 

In the beginning of April 2013, we started our JOB FAIR in Dumaguete City. This place has a lot of colleges and universities. There is a good chance to hire teachers who speak English fluently since there are many Western and American people who really enjoyed the beautiful ambiance in this place.

The JOB FAIR in Dumaguete City takes twice a year and this gives me a good pleasure. Of course, I always take my son Rio with me.

I became happy then because I had found a lot of precious people. These diamonds became my gemstone.

BAYSIDE ENGLISH CEBU holds its FOUNDING ANNIVERSARY every year on August 15 which is organized by Filipino personnels.

The two campuses are gathered in this celebration. So every department and every student takes part in the event and cooperates with pleasure that makes the yearly event a successful one. In addition, the number of students and employees have reached more or less 500.

One of the events is the search for Mr. and Ms. BAYSIDE. The search is not only about how the contestants look, walk their gown, and project themselves but also how they manage to answer the question and answer portion. Through this the students are able to showcase their English Fluency Skills.

Finally, one of my diamonds is crowned as MS. BAYSIDE.

There are a lot of people who became my diamonds in the school who engaged in English education, seminars and workshops.

Their success and positive feedback made me happy too.

BAYSIDE ENGLISH CEBUの繁栄

 

BAYSIDE FAMILY SUFFERED FROM CRUELTY

On September 2017, I received a lot of messages from Bayside Filipino staffs expressing their sentiments and complaints against HIROSHI YAMANAKA.

According to them, the school drivers and maintenance staffs went to the Department of Labor because their salary were lowered down to the minimum wage which is mandated by the law.

In addition, the drivers had spent most of their time in the evening around Mactan area and Cebu City. And the driver had to wait them in the parking lot of a restaurant or a club, yet the overtime work was not compensated accordingly.

They wanted to file a case against them but they were hesitant. However, there were some staffs who complained to the management and was dismissed immediately.

Under the Philippine Code of Labor, immediate dismissal of an employee should follow a due process of law. Also cutting down an employee’s salary should never be the case instead increasing the pay is favorable.

And the parties concerned should follow the legal procedures in accordance with the Labor Code and any claims of both parties have to be supported with documents.

Then there is a mediator who helps both parties to reach an agreement. In a manner that such agreement is not reached then appropriate legal action is undertaken.

However, in most cases, the employer settles to pay the service rendered and other necessary benefits to a concerned employee.

When BAYSIDE ENGLISH CEBU was still under my management, together with my staffs, we started the operation legally. We secured the necessary permits for the school to operate smoothly.

In fact, we consulted and retained a lawyer to discuss us the laws in the Philippines especially on Labor Laws because we highly take into account the welfare and security of our employees.

Employees work hard for a living so, losing a job is a matter between life and death.

 

 

THE REVENGE TO THE TRAITORS IN ACCORDANCE WITH THE LAW

GENKI MATSUI, a young man and one of the traitors who wanted fame and wealth in an easy way.

The traitor, Genki and Rona who is a secretary of HIRO (HIROSHI YAMANAKA) called DOY, my secretary and my body guard as well.

They said to Doy that BAYSIDE ENGLISH CEBU had few students and asked what he wanted him to do.

Did they want him to resign by himself?

Doy answered him that Genki had the right to decide since he was said to be the CEO.

Genki also told him to tell Ayako not to attack them. Doy got angry when he heard those words from him.

For Doy there was no reason to be faithful to him because he is a devil as well.

I had been silent for a year except the message that I sent them in May 2017. I think it was not the right time for me to fight back to them.

One time, GENKI talked to Doy in a calm voice. He told him that he was tired of BAYSIDE already and that he wanted to return BAYSIDE to me. He wanted to go back Japan and look for a job.

He had thought that he could control everything like when he  successfully removed and banned me in the school, and ordered me to leave the Philippines.

Absolutely, he lacks the leadership and managerial skills.

Filipino people have the eyes to see justice so, I decided to publish all the facts in English. I loved Bayside and the people who helped and supported me to make things happened.

 

HIROSHI YAMANAKA, the traitor and the Hyena in BAYSIDE ENGLISH CEBU.

 

He referred the Filipinos as dogs and criticizes me why I run the business with the Filipino people. In particular, he emphasized that Doy who is my bodyguard is my dog.

There were many kinds of dogs in the world, some would bite their owner like GENKI, HIROTO for getting more delicious food.

If HIROSHI YAMANAKA (HIRO) calls Doy a dog, he is the real dog.

Doy has always been faithful to me as my bodyguard. He has been protecting me and BAYSIDE FAMILY since at the very beginning.

 

I could say that I could never be a loser dog.

 

HIROSHI YAMANAKA, (PLS. PREPARE YOURSELF) Now, I have the chance of winning. I am going to attack you legally and socially.

 

A mother who lost something became fierce especially if her children were in pitiful condition.

奈落の底からの再起
私はあなたを必ず咬み殺す

フィリピン親子移住!フィリピンで緊急入院

フィリピンで緊急入院 in ドマゲッティ

2011年8月、突然、当時4歳のリオが高熱を出しました。そして片方の足はパンパンに腫れていました。

早速ドマゲッティのシリマン大学病院に連れて行きました。

緊急入院が決まりました。

リオをフィリピンに連れて行くにあたり、日本で1年間の海外保険、特に医療に関しては最上級の保険に加入していました。

しかし、現在こそ、ドマゲッティには日本の語学学校や日本企業が参入していますが、当時日本人はほとんどいないかったのです。

もちろん、キャッシュレス(現金の支払いないでの治療ができる)提携は日本の保険会社と締結していませんでした。

リオは緊急外来より一般病棟の狭い個室に移されました。

初めに入院保障金とお部屋代を支払います。そして医師が薬を処方してくれます。医師が処方箋を発行してくれるたびに、私が処方せんを持って薬局でお薬を買いに行き看護師に手渡すのです、それから看護師による投与が開始されるというシステムでした。

リオは高熱でぐったりしていました。

医師が処方箋を出すまでの過程も時間がかかります。リオを病室に残し病院内の薬局で薬を購入するまでも待ち時間もかかるのです。看護師が薬を点滴に調合し投与されるまで1日がかりです。

 

金銭の問題ではありません。

その間にリオの病状が悪化したらどうするのだ!!!

 

16年間、緊急医療に携わっていた私にはわかります。時間の大切さが…

私は多くの緊急場面を冷静に対応してきたという自信がありました。

しかしながら、海外で、それも大切なリオのことになると冷静さを失うのです。

早速、加入していた日本の海外保険会社に電話しました。

 

『子供の命がかかっている。どうにかしろ!!!』と。

 

日本の保険会社は素晴らしいです。

すぐに、シリマン大学付属病院とキャッシュレス提携を結んでくれました。

次の日、リオは、特別個室に移されました。

10畳くらいの病室に電動ベッドと、リビング、キッチンまであるのです。そして、温水シャワー(セブランの自宅は水シャッワーだった)大きなバスタブまでもあるのです。

 

まるで、ホテルの1室のようでした。

 

私は、もう処方箋を持って長い時間、薬局で並ばなくてもよくなりました。抗生物質の点滴投与が迅速に開始されました。医師、看護師たちは1時間おきと言ってもいいほど巡回してくれます。私のために病室にマッサージまでよんでくれるのです。(マッサージは保険適応外であります)

リオは、虫に噛まれた足を不潔な手でかきむしったため、そこからばい菌が入り蜂窩織炎になったとの診断でした。そして、高熱は蜂窩織炎によるものでした。リオの熱も足の腫れも3日後には完治しました。

しかし、医師は休養のためにとさらに1週間、そしてリオの手にできていた小さなイボまで治療してくれると、さらに1週間の入院勧められました。私とリオは2週間以上をシリマン大学付属病院のホテルのような特別室で過ごしました。

 

入院生活は快適でした。ボリバーで友達になったネグロスオリエンタル大学の学生たちが毎日病室に遊びに来てくれました。私たちは学生たちとトランプにUNO を楽しみました。時には、リオの担当医に外出許可もらい街のレストランにおいしいものを食べに行くこともできるのです。

 

シリマン大学病院の前には多くのトラシクルが待機しています。トラシクルに乗って3分で街の中心街に行けるのです。

入院中にネグロスオリエンタル大学の学生達に招待され、ボリバーで開催される大学恒例の行事ランタンパーティにも参加しました。願い事を書いたランタンをボリバーの海岸から海に流すのです。1000近くのランタンが海に流れます。また、空にも多くのランタンが飛んでいくのです。

この時の出会いがきっかけに2012年8月に開校したBAYSIDE ENGLISH CEBUに、ネグロスオリエンタル大学の数人の講師、事務員達が誕生しました。

 

そして、2013年より、BAYSIDE ENGLISH CEBUの講師採用にネグロスオリエンタル大学と提携、講師採用試験、面接をドマゲッティ、ネグロスオリエンタル大学やボリバーのホテル各所で開催、ドマゲッティより、BAYSIDE ENGLISH CEBUの多くの優秀な講師が多く誕生することになったのです。

 

ボリバーでは、時折、ドマゲッティの各大学や企業のイベントやお祭りが開催されます。そんな時は、ボリバーのホテルは、ほぼ全て満室になるのです。

そんな時は、リオと私は、ボリバーから少し外れたマリアルイサというホテルを利用しました。

そこは、シリマン大学病院のリオの主治医の家族が経営していることを知らされました。

リオの退院間近の時、リオの主治医は、私たちをマリアルイサホテルで開かれたパーティに招待してくれました。

 

その時の出会いが、私たちのドマゲッティでの第2の生活へと繋がって行ったのです。

 

自殺に至る精神

破壊された私

破壊された私の精神

私は16年の医療現場で多くの人の生死に関わってきました。

命の大切さは痛いほどわかっています。

そして、終末期看護(死に逝く患者に対しての看護)死生観、命の大切さについて看護学校で講義もしました。若い新人看護師達にも指導をしてきました。

また、自殺をすることによって、その家族に一生残す深い傷を負わせることになります。そんなことも痛いほどわかっています。

 

それにも関わらず、2017年1月末に首つり自殺を図ったのです。

 

私は、余命告知をされた患者ではありません。

そして、ふと一人ぼっちだと気がつき寂しさのあまりに死を選びません。

私は一人ではないのです。リオがいるからです。

それは、寂しくてからではありません。

恐怖のあまりに心が破壊したのです。

心の判断能力機能が完全に破壊したのです。

 

今考えても自分の行動に説明がつかないのです。

 

当時、BAYSIDE ENGLISH CEBUの、学生が学校の資金不足のために食事や水の与えることもできなくなる。餓死してしまうという脅迫観念に私の心は支配されていました。

そして、BAYSIDE ENGLISH CEBUに入学が予定されている学生さん達は空港で難民となるのです。

それは、国際問題となります。

リオや家族は大勢の学生さん達の死により国際社会から非難され日本に住むことができなくなるのです。

家族の財産は全て奪われてしまいます。

私はフィリピンで殺されます。

リオも家族も殺されるのです。

そんな、脅迫観念に私の心は支配されてました。

 

私の心理状態は、死を目の前にした患者と同じ心境となっていたのです。

死を目の前にした患者は、小さな音でも驚くのです。

私は病室のドアを閉める時には、常にドアの閉める音を立てないように閉めました。

そして、死に逝く患者に絶対に背中を見せません。患者の病室を退出する時は後ろ歩きし患者に向き合った状態のまま病室から退出するのです。

なぜならば、死を前にした患者は看護師や家族の後ろ姿を見るだけでも恐怖を感じるのです。

 

当時の私の中での死は私だけの死ではないのです。何十人という学生の死とリオと家族の死、そして私の死なのです。

 

電話の音や車の音だけでも恐怖で震えるのです。

 

家の外で遊ぶ子供達の笑い声に、BAYSIDE ENGLSIH CEBU に滞在する30人余りの可愛い韓国人の子供達が餓死する姿を連想して震えが止まらなくなるのです。

人と会う。人を見ることにも恐怖を感じるのです。

 

恐怖は精神を破壊します。

 

恐怖のあまりにペットボトルの水を一気に2リットル飲み干します。

また、すぐに喉が乾くのです。

そして、また2リットルの水を一気飲みするのです。そ

して、それは一日中繰り返されるのです。

 

そして、キュブラー・ロスの死に逝く心の過程、第3段階の取引き、神頼みの心理となっていったのです。

 

「私の命をささげるので、どうかリオと学生さん達を守って下さい」と。

 

そして、ふらふらとベランダに出ては、洗濯物のロープを取り外し、ベランダの階段に首つりのロープを準備するのです。

何度も首を吊ろうとするができないのです。

大量の水を飲みながら、その行為は朝まで続けられるのです。

朝、ヘルパーさんが、首つりロープを外し洗濯ものを干します。

そして、次の日の夜も、また次の日の夜も、それは繰り返されるのです。

毎朝、首つりロープを外して洗濯物を干さなくてはいけないヘルパーさんがどう思うなどは考えられないのです。

 

また、夜中に震えながら飛び降り自殺をしようと車で建設中の新学校まで車を走らせました。

しかし、建設作業員たちがそこで寝泊まりをしていました。

そして、ゆっくりと自宅に帰ります。

そして、また、別の日にも新学校から飛び降りようと車を走らせるのです。

建設作業員が建設現場で寝泊まりしていることなどすっかり忘れているのです。

そして、また建設現場の作業員が寝泊まりしていることに気づき自宅に帰っていくということが繰り返されるのです。

 

当時、私の状況をヘルパーさんの情報より知ったボディーガードドイは、私には秘密で住宅街のセキュリティガード、町警察と連携して私の行動を監視するシステムを固めました。

私の行動を常に監視し、ドイと町警察に連絡が行くように整えたのです。

そして、いつものように夜間に自殺行為を繰り返す私は、住み込みのヘルパーさんよりセキュリティガードに通報され、町警察にて病院に連れて行かれました。

 

この時の私の心理や行動は、いくら考えて私自身もわからないのです。

 

私は、当時の破壊された私の精神状態の説明は未だにできないのです。

 

しかし、私の心が、どういう過程で破壊されていったのか分析できるまで回復しました。